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わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか

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Category戦争と共産主義
戦後の混乱期に読売新聞記者としてGHQ等を担当し、その後日本テレビ設立に関わり正力松太郎の懐刀と呼ばれた柴田秀利氏の『戦後マスコミ回遊記』を読んでいくと、松前重義氏(後の東海大学総長)が三田村武夫代議士を連れて読売新聞社の馬場恒吾社長を訪ねる場面がある。

大東亜戦争とスターリンの謀略

三田村代議士はこのブログで何度か紹介した『大東亜戦争とスターリンの謀略』を著した人物だが、この二人の話を聞いて柴田氏は身震いするほど興奮したという。しばらく引用させていただく。

柴田秀利

「三田村代議士と松前氏の持ち込んだテーマは、実に驚嘆に値するものだった。
『馬場さん、ソ連のスパイであった尾崎・ゾルゲ事件を御記憶でしょう。私どもは警保局でこの事件を担当して以来、一貫してその内容の分析、調査をしてききましたが、ようやくことの真相を突き止めることができました。実をいうと、彼らは単なるスパイではなかったんです。コミンテルンの世界革命計画に従って、敗けると決まっている戦争に日本を駆り立て、敗戦に導くことによって、一挙に暴力革命を達成しようという、大変な戦略、つまりこれを名付けて『敗戦戦略』といいますが、この大ワナに日本をはめ込んだ、とんでもない、壮大な政治謀略家だったんです。愚かにも日本は、ウマウマとその手に乗っかかって、今日の惨状を招くに至ったということに、目を開かせなきゃいかんと思ってお伺いしたわけです。』」(中央公論社『戦後マスコミ回遊記』p.35)

ゾルゲ

少し補足しておこう。
「尾崎・ゾルゲ事件」というのはこのブログでも何度か触れたが、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報・謀略活動を行なっていたとして、昭和16年(1941)9月から翌年4月にかけてその構成員が逮捕された事件をさしている。
その中に近衛内閣のブレーンであった元朝日新聞記者の尾崎秀実がいて、ゾルゲと尾崎が死刑に処せられた。尾崎は近衛内閣嘱託の立場を利用してわが国の国家機密や会議の内容などをゾルゲに提供していたのである。
コミンテルン」というのは、1919年にモスクワで結成された共産主義政党による国際組織で、モスクワからの指令により世界各国で共産革命を起こそうとしていた。
わが国でも大正11年(1922)7月に日本共産党が設立され、その年の11月に日本共産党がコミンテルン日本支部となり、昭和2年(1927)にモスクワから次のような「日本に関する決議(27年テーゼ)」を受けている。
「日本の資本主義は既に末期的段階に達し、崩壊の前夜にある。日本共産党はその革命的指導力を急速に強化し、プロレタリア暴力革命に突入して君主制を廃止し、共産党独裁政権を樹立せよ。」

日本共産党は非合法の地下活動やテロ活動を行なうも、相次ぐ弾圧で主要な多くのメンバーを失い、5年後の昭和7年(1932)に方針が変更されるに至る(32年テーゼ)。

「日本にはプロレタリア革命に突入する客観的条件がまだ整っていない。当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階である。(二段階革命論)

戦後マスコミ回遊記

ふたたび柴田氏の著書を引用する。
「この急がばまわれの二段革命論に活用されたのが、レーニンの世界革命戦略の基本綱領だった。つまり、究極の世界革命達成のためには、まず、資本主義国同士を戦わせ、その負けた国から一つずつ革命していき、大勢のきまったところで一挙に世界暴力革命に突入する――という筋書きだという。それを彼らは敗戦謀略と名付け、日本をその絶好の生贄と見てとったのだった。
 幸か不幸か、時の宰相近衛文麿公爵は、学生時代から公卿には珍しい進歩主義者で、…彼の側近には、…そのほとんどがいうところの進歩主義者で埋め尽くされ、モスクワの使者尾崎が潜入するには、何の障壁もなかった
 ゾルゲの指示に従って近衛内閣の嘱託となり、近衛を取り巻くブレーン・グループが構成していた、いわゆる『朝飯会』の有力メンバーとなった。その主な顔ぶれを見ただけでもゾッとする。
 風見章、富田健治、西園寺公一、笠信太郎、原貞蔵、松本重治、田中慎太郎、犬養健、牛場友彦
 身近な秘書官から大臣、書記官長(今の官房長官)に加うるに、親戚、縁者、ジャーナリストから学者を加え、揃いも揃ったり、といいたいところだが、これだけ集まれば、国の最高機密だって、何でも取れる。また国政を左右しようとすれば、何でもできる。スパイにとって、これ以上の宝庫はなかった。…」(同上書 p.36-37)

第一次近衛内閣

柴田氏の著書には詳しくは記されていないが、第一次近衛内閣の時にわが国は中国との戦争に巻き込まれている。
日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件(昭和12年[1937]7月7日)は、近衛内閣が成立してわずか33日目に起きたのだが、その事件を仕掛けたのは中国共産党であったことが今では明らかになっている。
わが国の陸軍中央と外務省は事件の翌日に不拡大方針を決め、2日後に現地停戦協議成立の報告が入って派兵提案を見送ったのだが、中国側は停戦協議で約束した撤退を実行せず、3週間にわたりわが国に挑発を続け、7月13日には「大紅門事件」で4名の日本兵士が爆殺され、ほかにも日本人が支那軍から包囲され、銃撃される事件が相次いだ。(「廊坊事件」「広安門事件」など)

通州事件

日本軍は、盧溝橋事件以来3週間にわたって隠忍自重に努めてきたのだが、ここに至っては武力不行使の大方針を放棄するほかなく、7月28日に天津軍は中国二九軍に開戦を通告し全面攻撃を開始し中国兵を敗走させている。しかしながら翌7月29日に、通州で中国保安隊による大規模な日本人虐殺事件(「通州事件」)が起こり、260名の日本人居留民が極めて残酷な方法で虐殺されるに至る。

第一次近衛声明

このような卑劣なやり方でわが国は日中戦争に引きずり込まれていき、日本軍はその年の12月に南京を攻略して講和に持ち込もうとしたのだが、アメリカ、イギリス、ソ連の後ろ盾を得ていた蒋介石はあくまで徹底抗戦する姿勢であった。
翌年1月16日に近衛は「国民政府(蒋介石)を対手とせず」の声明を発表し、蒋介石政府との講和の芽を自ら摘んでしまって、汪兆銘を担いで南京政府を樹立させて支援しようとしたのだが、中国で汪に呼応する有力政治家は現れず、早期停戦はますます遠のいてしまうことになる。その一方で、近衛の足下では彼のブレーンたちによって本館的な臨戦態勢が打ち出されていくことになる。

大政翼賛会

再び柴田氏の著書に戻ろう。
まず『近衛新体制』と称して『翼賛政治会』の名のもとに、政党は解体統一された。相前後して『大政翼賛会』の名のもとに、下は下町の片隅にまで隣組組織がくまなく網をはりめぐらされ、またたく間に日本は全体主義的統一国家へと変貌していった。近衛自らの達筆になる『上意下達、下意上達』の迷文句が、氏神様のお札のように、全国至るところにベタベタと張られ出したのもこのころだった。それにもかかわらず、議政壇上で『なぜにかかる全体主義的な非民主的国家統一、独裁体制を作るのか』と政党代表に詰問され、追いつめられたとき、一国の、しかも非常時を背負う総理大臣が、『実は私にも、どうしてこうなったか、全く何もわからぬままに来てしまったのです…』といって絶句し、白いハンカチで眼を拭って、泣き出してしまったのを、駆け出しの記者の私も目撃している。世の中にこんな不思議なことがあってたまるものかと、憤激を覚えたことが、昨日のことのように想い出される。彼がいかに目隠しされた操り人形であったかを如何に物語るシーンだった。」(同上書 p.39)

昭和13年(1938)に労働力・物資・価格・金融・事業を国家が統制できる「国家総動員法」が成立したのだが、明治憲法が定める議会制民主主義と「天皇の大権」のいずれをも無視するような法律がなぜ成立したのか。
この法律は衆議院の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれたのだが、そのような法律を通すためには、日中戦争が長期化する情勢が必要だったことは誰でもわかる。近衛は蒋介石政府と断交したのはそのためであったと考えるのだが、おそらく近衛の周囲に集まった左翼のブレーンたちが近衛にそう言わせたのである。その後「大東亜共栄圏」とか「大東亜新秩序」などという勇ましい言葉が新聞の見出しに躍るようになるだが、このような言葉は尾崎に近いグループが考案したものと考えて良い。

柴田氏の著書にこう記されている。

「三田村・松前両氏の説明によると、尾崎の筋書に近衛の親友、後藤隆之助たちが乗って『昭和研究会』とか『国策研究会』をつくり、そこでこれら新体制なるものの綿密な全体計画が練り上げられていったという。しかも表面上は、日増しに強くなってきた軍閥の力を抑制するには、これ以外にないというのが、ここに集まった進歩主義者たちの言い分だった。しかしそれらすべてが裏を返せば、近衛なきあと、軍閥が政権をとれば、そのままヒットラーやスターリンと全く同じ、軍事独裁政権確立のための巧みなお膳立てとして着々と進んでいたことになる。」(同上書 p.39)

そして1941年6月に、ドイツのヒットラーが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻を開始する。ヒットラーは同盟国のわが国に対して日本軍のシベリア出兵を何度も催促し、軍はそれにこたえて7月に関東軍を満州と朝鮮半島に集結させたという。そのまま関東軍が北に進めばソ連は潰滅していた可能性が高かったのだが、この時にソ連を危機から脱出させたのがゾルゲグループによる情報収集と工作活動なのである。

尾崎秀実

先ずアメリカが対日全面禁輸に踏み切ったのだが、当時のわが国の石油備蓄は平時で2年分、戦時で1年半分しかなかったという。そこで、尾崎秀実が『北方傾斜論』を書き、次のように主張したことが柴田氏の著書に引用されている。

今北進すれば、シベリアは苦もなく手中のものとなろう。だがツンドラのシベリアを手に入れて何になるか。そこからは日本が必要とする石油の一滴すら取れないではないか。それよりも、北方にいささかの懸念もなくなった今こそ、進んで軍を南に向け、豊かな石油資源を手に入れる絶好のチャンスであり、その方がとどれほど賢明か。…今日本を真に敵視しているのはソ連ではない。米英である。米英は、日本が北進作戦で、なけなしの石油と鉄を使い果たすのを見届けた上で、必ず日本を討って出るに違いない」(同上書 p.40)

この尾崎の主張が採用されてわが国は「南進論」に舵をきることになるのだが、そのことによってわが国は米国と戦うことを余儀なくされることになる。驚くべきことに、そのことはスターリンがその6年前に描いた『砕氷船のテーゼ』の筋書きの通りなのである。

スターリン

昭和10年(1935)の第7回コミンテルン大会においてスターリンはこのような演説をしたという。
ドイツと日本を暴走させよ。しかしその矛先を祖国ロシアに向けさせてはならない。ドイツの矛先はフランスとイギリスへ、日本の矛先は蒋介石の中国に向けさせよ。そして戦力を消耗したドイツと日本の前には米国を参戦させて立ちはだからせよ。日・独の敗北は必至である。そこでドイツと日本が荒らし回った地域、つまり日独砕氷船が割って歩いた跡と、疲弊した日独両国をそっくり共産陣営に頂くのだ。」

コミンテルンはこの大会で、日本、ドイツ、イタリアを最も危険な戦争扇動者として、反ファシスト人民戦線の形成を各国共産党に指令しておきながら、ドイツとは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、日本とは1941年に日ソ中立条約を締結している。
その上で、日本を支那とアメリカ・イギリス、ドイツをイギリス・フランスと戦わせて、漁夫の利を占める戦略を立て、日本の敗戦が近いと分かってから日ソ中立条約を破棄して宣戦布告している。
そうすることによってソ連は「ドイツと日本が荒らし回った」多くの地域を共産化することに成功し、ドイツについては東ドイツを共産国化し、日本については千島列島をソ連領とし、北方4島と南樺太の占拠が今も続いているのだが、第二次世界大戦後にスターリンの計画に近い状態が現実のものとなったことが、ソ連による工作活動と無関係であったとは到底思えない。

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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。

昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html

軍部や官僚に共産主義者が多数いることに気が付いた近衛文麿
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html

尾崎秀実の手記を読めば共産主義者が軍部や右翼を自家薬篭中のものにした事がわかる
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-209.html

「ドイツと日本を暴走させよ」と命じたスターリンの意図
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-210.html
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4Comments

年金生活者  

三田村武夫氏の著書

復刻版が出ているようです。
http://www.kure-pass.com/復刻出版/

6月の年金が入ったら、購入予定です(今月が、車検で出費が多いため)

2016/05/07 (Sat) 19:17 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 三田村武夫氏の著書

よく探されましたね。

私は10年ほど前にGHQ発禁図書刊行会事務局というボランティアのようなところから安く手に入れましたが、復刻版が出たのですね。
私にとっては、学校の教科書やマスコミなどから垂れ流されていた歴史観の洗脳が解けるきっかけになった思い出の書です。

2016/05/08 (Sun) 07:44 | EDIT | REPLY |   

一色 正人  

支那大陸の事も

 「大東亜戦争とスターリンの謀略」は読んでいないので分かりませんが、松前正重ではなく松前重義では。間違いでなければ本の方が間違っています。
 戦前から日本国内では支那国民党、共産党の輩も暗躍していたのではないですか。以前「いばやんさん」が明示されました「日中戦争期における中国共産党の対日プロパガンダ戦術・戦略」PDF版246頁をダウンロード、 3.2国民党の対日プロパガンダ活動とのつながり」102頁の三庁成立当時の組織図に、郭沫若が第三庁庁長と下部の第六処文芸プロパガンダ処長となっています。南京大虐殺のプロパガンダを計画実行したのでは考えています。その後蒋介石と離れ共産党に加わって対日プロパガンダ戦の頭として活躍したのでしょう。近衛首相の「国民党を相手にせず」も閣内の中国共産党のスパイ活動の結果ではないでしょうか。「国際文化画報昭和28年10月号」 ハルピンの日本人小学校の箇所に、郭沫若がテーブル上の日本地図の東京を指示棒で指し子供達に教えている写真がありますので、支那大陸でも日本人の軍人軍属一般人が共産党に拘束され、洗脳教育を長期に亘り受けていた様です。日本に帰国させる迄生活も優遇され、共産主義は素晴らしいと洗脳して日本に帰国後、内部から日本人を蝕んで行く様にしたのではと想う。「アサヒグラフ 1952 11月12日号」8から9頁に中共地区からの豪華な引揚者の写真を見ると中共の素晴らしさを煽っていると思える。
しばやんさんも何時かはソ連だけでなく中共の戦中戦後の嘘を検証して頂ければ有難いです。

2016/05/11 (Wed) 07:15 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 支那大陸の事も

一色正人さん、コメントありがとうございます。

『大東亜戦争とスターリンの謀略』に出ているのではなく、『戦後マスコミ回遊記』に記されているのですが、原著で確認したところ、ご指摘の通り「松前重義」が正解です。チェックが洩れてしまって申し訳ありません。本文も訂正させていただきました。

近衛の声明は、中国共産党が絡んでいたかも知れませんが、ゾルゲの指示を受けて尾崎あたりが動いたのかもしれません。彼等の情報の流れは、殆んど記録が残っていませんので推測するしかなさそうです。

支那大陸は、もっと勉強する余地がありそうですね。書けるかどうかわかませんが、いずれチャレンジしたいと思います。

2016/05/11 (Wed) 07:51 | EDIT | REPLY |   

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