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江戸幕末以降の危機を何度も乗り越えて、奇跡的に残された国宝・姫路城を訪ねて

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Category兵庫県
姫路城から書写山・円教寺を巡る小旅行をずっと前から企画していたのだが、姫路城は昨年の3月に5年半に及ぶ「平成の大修理」を終えて以降訪れる観光客が半端な数ではなく、昨年の夏の平日に観光した知人から、切符を買って入城するのに2時間以上待たされたという話を聞かされていたのでしばらく行くことを躊躇していたのだが、ゴールデンウィークが過ぎてそろそろ大丈夫かなと勝手に期待して、先週の土曜日に朝早く自宅を出て久しぶりに姫路に行ってきた。

姫路城の大手門駐車場(姫路市本町68番地 079-284-1533)に到着したのは9時半頃で、この時間帯は駐車場にも余裕があり、入城についても切符を購入してすぐに入ることが出来たのはラッキーだった。
姫路城 菱の門

入城口からすぐに格調高い菱の門があり、その門を抜けると、右手に美しい天守閣が聳え立つ。天守閣はいろんな場所から眺めることが出来るのだが、この場所から見る天守閣は特に美しい。

姫路城 菱の門から

ここで簡単に姫路城の歴史を簡単に振り返っておこう。

元弘3年(1333)の元弘の乱で、護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村が挙兵し、京に兵を進める途中で姫山に砦を築いた記録があり、また貞和2年(1346)には赤松則村の次男である赤松貞範が姫山に本格的な城(姫山城)を築いたとされる。

姫路城 黒田官兵衛の大河ドラマセット

2年前のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公である黒田孝高(官兵衛)は、父・黒田職高の嫡男として、天文15年(1546)にこの城で生まれたと伝えられており、姫路城の西の丸に、大河ドラマで使われた当時の姫路城の撮影セットを縮小した模型が展示されていたが、この当時はこのような平屋の城が殆んどだったそうで、現在の姫路城のイメージとは随分異なる。

永禄10年(1567)に黒田孝高が城代となったのち、天正8年(1580)に羽柴秀吉に対しこの城を居城とすることを進言したという。新たに城主となった秀吉はこの城の大改修を行い、石垣で城郭を囲み、三層と伝えられる天守閣を建築し、「姫路城」と改名したとされている。

その後天正11年(1583)に秀吉は大坂城に居城を移し、弟の秀長が姫路城主となるも、2年後に大和郡山に転封したため、秀長に代わって木下家定が城主となっている。

池田輝政肖像

そして慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により池田輝政がこの城の城主となったが、輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて、翌年から8年がかりで姫路城の大改修を行なっている。秀吉の築いた城はこの時に取り壊されたと言われており、この時に改修された姿の多くが現在に残されていることになる。

平成5年(1993)に奈良の法隆寺とともに、日本初の世界文化遺産となった美しい姫路城だが、以降何度かこの城が破壊される危機を乗り越えて来たことはもっと知られるべきだと思う。

幕末期の鳥羽伏見の戦いで姫路城は新政府軍に包囲され総攻撃される寸前であったが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めたのだそうだ。

それから明治維新となって武士の時代が終り、明治6年(1873)には「廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)」が出され、ほとんどの城が破壊されたなかで姫路城は「存城」の一つとして陸軍の兵営地として残されたという。
一方で、姫路城も競売に付されて、金物商の神戸清次郎(かんべ せいじろう)が23円50銭で落札したという説が存在し、Wikipediaにもそう書かれているのだが、この点については姫路市立城郭研究室が『城踏』No.81で丁寧に反論しておられる。
その記事によると、姫路城入札に関わる当時の記録は存在せず、明治6年2月15日の陸軍省の通達では「昨年中払下ノ見込ヲ以テ入札為致候儀ハ一切取消ノ事」とあり、仮に落札の事実があってもすぐに陸軍の手に戻っていたことになるのだが、そのことは昭和2年6月1日付の神戸又新日報の神戸清次郎の子・清吉氏へのインタビュー記事と合致しているという。どうやら『城踏』の解説の方が正しそうだ。
http://www.city.himeji.lg.jp/jyokakuken/shirofumi/pdf/11-10.pdf

かくして姫路城は陸軍の所有となったのだが、陸軍の保有目的は文化財を護ることではなく兵営地として残されたにすぎず、三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置されて三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊されたそうだ。また、長い間修理されなかったために次第に城や曲輪の傷みが激しくなっていくことになる。

姫路城古写真

明治10年頃になってようやく、日本の城郭を保存しようという動きが出てきたのだが、この頃の姫路城は、屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だったという。
次のURLに傷んだ姫路城の写真が掲載されているが、こういう写真を見るのは悲しいものである。
http://blogs.yahoo.co.jp/digital_devil0611/2603377.html

明治政府は明治12年(1879)に応急的な修理を施したのだが、腐朽がさらに進行して、明治41年(1908)になって姫路市民による白鷺城保存期成同盟が結成され、また城下各地の有志達の衆議院への陳情が実って、よってようやく明治43年(1910)に国費9万3千円が支給され、本格的な修理工事(明治大修理)が行われることになる。

それ以降何度か修理が行われて、美しい白鷺城の姿が維持されてきたのだが、その後わが国が第二次世界大戦に巻き込まれて、昭和19年(1944)以降はわが国の各地でB29による本土空襲が行われるようになる。
当時の姫路市は軍需産業の拠点であり、さらに姫路城には陸軍の部隊が置かれていた。
姫路市が空襲の対象とされ、そして、白くて目立つ姫路城が爆撃のターゲットとされる可能性は極めて高かったことを知るべきである。

そして昭和20年(1945)の6月22日には姫路市上空にB29が52機、7月3日にはB29が106機飛来し、大量の焼夷弾が市街全域に降り注いで多くの死者が出たのだが、不思議なことがあるものである。奇跡的に姫路城は焼失を免れたのである。

Wikipediaによると7月3日の空襲では、姫路城の天守に命中した焼夷弾があったが発火しなかったという。
たまたま空襲時刻が夜間であり、また空襲から守るために天守閣などに黒い網が掛けられていたことなどが幸いしたのだろう。あるB-29の搭乗員は姫路城一帯を沼地だと思って爆撃しなかったと述べたそうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%9F%8E

姫路空襲のあとの姫路城

次のURLに、焦土となった市街地の中で、奇しくも焼けなかった姫路城を撮った写真が紹介されているが、空襲があったにもかかわらずこの城が無事に残されたのを見て、多くの姫路市民が歓喜の涙を流したことだと思う。
http://blogs.yahoo.co.jp/digital_devil0611/11833235.html

姫路城 にの門から

姫路城の散策の話題に話に戻そう。
上の画像はにの門あたりから天守閣を写したものだが、この城は、壁も柱も軒下も真っ白な漆喰(しっくい)で塗り込められている。

姫路城 漆喰

何処から城を見ても木が剥き出しになっている部分がないので、敵方がいくら火矢を放っても城には簡単に火が点かない構造になっている。

姫路城 西大柱

天守閣の中に入ると東西に心柱があり、根元の直径は95cmで高さは24.6mもあって地階から6階の床下まで伸びているという。

姫路城武者隠し

上の画像は3階にある武者隠しだが、姫路城天守閣内部については『お城めぐりFAN』に豊富な写真で詳しく説明されているので、訪問される前に目を通しておくことをお勧めしたい。
http://www.shirofan.com/shiro/kinki/himeji/himeji.html

各階にはパネルなどの展示物は極めて少なく、また部屋に襖絵等が描かれているわけでもないので、5階までは観光客はほとんど渋滞せず順調に進むことが出来るのだが、最上階に上る階段の登り口ではしばらく待たされることとなる。

最上階の広さは115㎡あるのだが、観光客のほとんどが眺めの良い最上階で長時間景色を楽しもうするので、登る人数をある程度制御しないと最上階が大混雑してしまうことが避けられない。
それゆえに、最上階が混雑するようになると、5階から最上階に向かう観光客の動きを止めて、上り専用の階段をしばらく下り用に切り替えて、最上階の観光客数を減らしてから、登りの観光客を案内する…、これを繰り返すことになる。ひどい日には待ち行列が入城口まで続いて、入場制限が行なわれることになるのだが、こんな日に訪れるのは避けたいものである。

姫路城 天守より西の丸

最上階に上がると姫路市街が一望できる。上の画像は西の丸方面を撮影したものである。

姫路城 西の丸から

天守閣を楽しんでから、西の丸に向かう。
西の丸から眺める天守閣もなかなか美しいので、思わずシャッターを押してしまった。

姫路城 西の丸 百軒廊下

西の丸というと、徳川家康の孫の千姫が本多忠刻(ほんだただとき)に嫁したことで、夫が死亡するまでの10年間をこの姫路城で過ごしている。

姫路城 西の丸 百軒廊下内部

西の丸に入ると「百間廊下」という長い廊下を進んでいくことになるのだが、出口近くに、千姫が嫁いだときに持参した10万石で建てたという「化粧櫓」がある。

姫路城 西の丸 化粧櫓

千姫は、本多家の繁栄を願って建立した男山八幡宮を西の丸から朝夕遥拝したと伝えられているが、その時にこの場所で休息したという。「化粧櫓」には千姫と勝姫が親子で百人一首に興じている人形が展示されていた。

好古園 1

姫路城西御屋敷跡庭園の「好古園(こうこえん)」は、姫路市制100周年を記念して平成4年に造営された池泉回遊式の日本庭園である。

好古園 瀧

上の画像は「御屋敷の庭」を撮ったものだが、他にも「流れの平庭」「夏木の庭」「築山池泉の庭」など9つの異なった趣の庭園群で構成されている。中に活水軒というレストランもある。

姫路城は昨年3月のグランドオープン以降1年間の観光客が277万8千人に達して、年間の城郭入場者数の歴代記録であった熊本城の221万人を大きく上回ったのだそうだ。この記録は当面破られることはないだろう。

Wikipediaによると姫路城の『平成の大改修』の改修費は28億円とのことだが、決して高くない金額である。
姫路城の入場料は大人1000円、小人300円で、売店のパンフレットやグッズなどの売上まで考慮すれば、1年間で277万8千人もの入場者があったのなら、わずか1年間で、改修費相当額を入場料や売店の粗利益で回収していてもおかしくない計算になるだろう。

次のURLに「21世紀委員会が発表した『無駄な公共事業100』」のリストが出ているが、あまり役に立ちそうもない工事に数百億以上の血税を費しているのがこの国の現状だ。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~one_of_bassers/koukyoujigyou_100.htm
無駄な公共事業に莫大な税金を使うくらいなら、わが国の価値ある文化財を将来に残す事にもっと取り組んでほしいものだと思う。
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高知城と龍河洞、龍馬歴史館を訪ねて
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日本百名城の一つである岩村城を訪ねた後、国宝・永保寺に立ち寄る
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「天空の城」竹田城を訪ねて~~香住カニ旅行3
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5Comments

時乃★栞  

庭園も眺めも素晴らしいです。
本当に美しい城だと思います。

近頃は山城に関心が移っていたんですが、やはり姫路城は日本の宝の一つですね。
拍手☆彡村ぽち

2016/06/05 (Sun) 13:48 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: タイトルなし

時乃★栞 さん、コメントありがとうございます。

姫路城も素晴らしいですが、熊本城も素晴らしいお城ですね。
ずっと前から熊本城にも行きたいと思っていたのですが、今回の地震で大変な被害を受けて当面観光することができなくなってしまいました。
九州へは高校時代の修学旅行と、10年ほど前に温泉旅行に行っただけなので、会社をリタイアしたらいろいろ史跡巡りをしたいです。一日も早く被災地が復興することを祈っています。

2016/06/05 (Sun) 16:10 | EDIT | REPLY |   

つねまる  

もういいかしら?

こんにちは。いつもお世話になっております。
私もそろそろいいかな?っと思っておりましたの。大宇陀、十津川に続き姫路もしばやん様の記事を拝見してから参ることが出来そうです。
私も修学旅行で訪れましたが、天守へ行った後の写真では、膝に大きな青アザを作っておりまして。どうもどこかでぶつけた様子。おほほ。
姫路の街を訪れるまで、空襲に遭ったことを存じませず。
焦土の中に残った姫路城はさぞかし心の支えとなったことでしょうね。名古屋は城を焼失したのがとても悲しいです。
数奇な運命を辿った姫路城ですね。
入場料、本当に見たいものには相応の額かと思います。

熊本城が復興の象徴として心の支えとなるのでしょうから、自分に出来る協力をしたいと存じます。

2016/06/06 (Mon) 18:08 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: もういいかしら?

つねまるさん、コメントありがとうございます。

私も、最近姫路空襲の写真を見てびっくりしました。
姫路城が残ったのは奇跡だと思って、どうしてもそれが書きたくなりました。

名古屋に私も親戚があって、子供の頃に遊びに行ったときに名古屋空襲で名古屋城が焼けた話をおじさんから聞きましたが、とても残念そうに語られたのが忘れられません。

熊本城にしばらく行けないのは仕方がないですが、九州の被災地域が少しでも立ち直るように、ネット販売などで協力したいと考えいます。

2016/06/06 (Mon) 18:56 | EDIT | REPLY |   

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2016/06/07 (Tue) 16:32 | EDIT | REPLY |   

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