白峰地区の林西寺に残された白山下山仏と、破壊された越前馬場・白山平泉寺
白山が見たかったので、JA白山白峰支店(☎076-259-2003)の近くの駐車場に車を停めて、林西寺の裏にある大前山のブナ林散策コースを歩くことにした。

案内板では頂上まで2.2kmとあり、軽い気持ちで登り始めたが結構きつかった。

20分程度でようやく頂上に辿りつき、周囲の木々の間に少しだけ白山を見ることができたのだが、白山の全貌を見るためには、もっと見晴らしの良いところに行く必要がありそうだ。
山を下りて林西寺に向かう。

前回の記事で明治維新の直前までの白山信仰は神仏習合であり、三馬場(さんばんば)と呼ばれた白山寺白山本宮、霊応山平泉寺、白山中宮長滝寺から山頂に至る3つのルート(加賀禅定道、越前禅定道、美濃禅定道)があり、それぞれのルートに多くの仏教施設があり仏像が祀られていたのだが、この林西寺の白山本地堂には白山の頂上などに祀られていた8体の仏像が安置されているのである。
これらの仏像はいずれも貴重なものばかりで、かつて白山旧室堂に安置されていた平安時代の銅像十一面観世音菩薩立像が国の重要文化財に指定されているほか、御前峰(2702m)に安置されていた大御前本地仏の銅像十一面観世音菩薩坐像をはじめ残りのすべての仏像が石川県の文化財に指定されている。
明治の廃仏毀釈・神仏分離で、白山信仰の聖地においても仏像・仏具などの多くが惜しげもなく破却されているのだが、どういう経緯でこの林西寺に白山の貴重な仏像が残されたのか、だれでも不思議に思うところだ。

白山の山頂に登るには加賀(現石川県)・越前(現福井県)・美濃(現岐阜県)のいずれかの禅定道を選ぶ必要があったのだが、白山信仰が盛んになるにつれ、禅定道の整備や山頂社殿の管理・修復などをめぐって三藩の対立が何度も起こり、藩境争いにまで拡大した経緯(「白山争論」)から、江戸幕府は寛文8年(1668)に、白山を含む山麓一八ヵ村を天領(幕府直轄地)とすることで解決を図った経緯がある。
ところが明治維新後の明治5年(1872)に、この地域を石川県の管轄とすることが決定し、さらに翌年の明治6年(1873)には、石川県令が白山頂上の三社(大御前・大政・別山の山上三社)を白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ:石川県白山市)の本社とすることを決定したのである。
しかしながら、あらたに決められた白山比咩神社の広大な神域には多くの仏教施設があって仏像が存在しており、石川県としては神仏分離令にしたがって、多くの仏像等を排除しなければならなかった。
ところが石川県には、熱心な浄土真宗の信徒が非常に多数いたために、他府県のように露骨な廃仏毀釈を行なうことは難しいと判断されたようで、そこで翌明治7年(1874)に県は、前回の記事で紹介した森田平次が中心となって白山嶺上三社などの神仏分離が実行に移され、不要となった仏像が下山することになったのである。
白山本地仏の下山について、詳しく書かれているサイトがあるので少し引用させていただく。
「山上が神社に帰属した以上、そこにある神仏習合の状態は当然分離される運命にあったが、住民の動揺を恐れたのか、県がその実行にとりかかったのは一年後、次の指令を山麓の区長に発した。
白山嶺上の三社は白山比咩神社の本社であって神霊の鎮まる神地である。それが中世から僧徒が管理するようになり、各社に仏体を安置し、鰐口・梵鐘などを備えるようになった。かかる不浄を廃するため、役人と神官を出張させて仏体・仏器を排除し、代わって其の神体を納める。山麓の村々は仏体下山の運搬の任にあたり、各村惣代は村人を説諭して請書をさし出せ。
これにもとづき森田平次以下の役人・神官は登山口の市ノ瀬に集合、三日の予定でとりかかった。が、途中で天候激変、村人の動揺もはなはだしく不穏の状況を呈した。森田らは必死にかれらを説いて、九日を要してかろうじて仏体下山をなしとげることができた。
…
ちなみに、下山した仏体は、今は十一面観音(大御前峰)・阿弥陀(大汝峰)・聖観音(別山)などの白山五仏は白峰村(旧牛首)の林西寺の客仏とし、安正観音などは尾添村の小飼に「白山さん」として村人たちに守られている。」
http://japan21.info/hakusann.html

下山した中で一番重たい仏像は白山の主峰・御前峰に安置されていた銅像十一面観世音菩薩坐像で、重さは207kgもあるという。いくつかに分解して運べるように鋳造されているのだそうだが、悪天候の中で急峻な山道を金属製の仏像を担ぐ苦労は大変なものであったろう。また白山の本地仏を運んでいる最中に天候が激変したというから、村人たちが白山の怒りに恐れおののいて、動揺したことはよくわかる話だ。
石川県のホームページの解説によると、「さいわい、仏像の破壊をおそれた信仰あつき白山麓18ヶ村の総代の出願により、山頂から下山させられた仏像は、牛首(白峰)林西寺と尾添村に預けられることとなり、『白山下山仏』の名で安置され、今日に至っている。」とあり、かなり早い段階で仏像を引き取る決断がされたようである。
http://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/rekishishiryou/k-9.html#k-9-1
しかし、もしこのタイミングで山上に残された仏像の引き取り手が現われなければ、これ等の仏像は破壊されたり捨てられたりしてもおかしくないし、残されたとしてもこんなに美しい状態ではなかったのではないか。

3日の予定が9日もかけて苦労して下山してきた仏像のうち、八体を林西寺の住職・可性法師が下山費を明治政府に献納して引き取ったという。林西寺は浄土真宗の寺であるが、もともとは天台宗で、8世紀に開基された白山麓でもっとも由緒の古い寺院であり、長年にわたり代々白山別当を勤めてきた寺の歴史が可性法師の血を騒がせたのであろうか。おかげさまで、8体の貴重な仏像は林西寺の「白山本地堂」でいつでも拝観することができる。

「白山本地堂」内部では撮影は禁止されているので、パンフレットの仏像の画像を紹介するが、このような経緯で奇跡的に残された仏像が、客仏であるにもかかわらず、非常に立派な須弥壇の上に見事なバランスで配置され安置されていることに感激してしまった。

隣接している林西寺の本堂も住職に案内していただいたが、ここもなかなか見ごたえがあった。この本堂は幕末の文久3年(1865)に再建されたものだそうだが、151年も以前に建てられたものだとはとても思えなかったし、欄間の龍の彫刻も素晴らしかった。

林西寺の右隣に八坂神社がある。明治初期にこの名前に改称されたのだが、以前は薬師如来を祀っていて、「薬師社」「牛首社」と呼ばれていたという。明治4年の神仏混淆禁止により宝鏡を神宝として中央に据えられたが、大正12年に出版された『石川県能美郡誌』によると「明治4年神仏混淆禁止の令あるに及び、宝鏡を以て神宝とし、左右に薬師如来及び干支の像を配す」とあるので、今も薬師如来が祀られているようである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978711/516
白峰地区の魅力は林西寺の文化財だけではない。冬には積雪が2m以上にもなる豪雪地帯であり、ここに建ち並ぶ建物は土地の気候と風土に適応した独特な風情を醸し出していて、集落の大半が重要伝統的建造物保存地区に選定されている。

上の画像は山岸家住宅で、白山山麓一八ヵ村を取り仕切る大庄屋の家だそうだ。敷地内には罪人を裁く白洲や牢屋の跡地もある。
ボランティアの方が説明してくれたが、最近まで実際に住んでおられたので、今は修理中のために中に入ることが出来ず、仏間だけを庭から見ることが出来る。

少し歩くと、道沿いに古い民家が立ち並ぶ場所があったので思わずシャッターを押す。
ゆきだるまカフェで冷たいジュースを飲んで休憩したのち、白山ろく民俗資料館(白山市白峰リ30 ☎076-259-2665)に向かう。
資料館には白山信仰に関する資料や、廃仏毀釈で破壊された石仏や、江戸時代の高札等の展示や、白山ろくの天領時代の歴史や、昔の冠婚葬祭や報恩講にかんする展示などがあった。
また広い敷地内に、かつて白山麓に存在していた6棟の古民家が移築されたのだが、うち旧織田家(県指定有形文化財)は修理中の為公開されていなかった。

上の画像は旧杉原家(県指定有形文化財)で、江戸時代の旧白峰村桑島で村役人を代々務めた豪農の家で、石川県最大級の民家だという。

前回の記事で記したとおり、この旧杉原家は手取ダムを建設によって水没する地域に建っていたのを移築したもので、中に入ると大きな囲炉裏のある部屋が二つもある。

上の画像は旧長坂家(県指定有形民俗文化財)で、白峰集落から約6km上流の苛原(えらはら)地内で鉱山経営や木材業、養蚕等を行なってきた出作り*農家である。
*出作り:白山麓では耕地が狭いため、集落から離れた山中に住居を建てて農業や養蚕・炭焼に従事する生活様式であった。

上の画像は旧小倉家(国指定重要文化財)で、旧白峰村桑島の旧家で天領期には代々庄屋を勤めていた家柄だという。

上の画像は旧表家(県指定有形民俗文化財)で、旧尾口村東二口の旧家で代々道場役を世襲してきた家で、玄関上の2階の妻側に半鐘と板木がかかっている。

上の画像は旧尾田(びた)家(国指定重要文化財)で、白峰集落から8km上流の五十谷地内で永住出作りを営んでいた家である。
資料館を見学したあと、国道157号線を走って白山平泉寺に向かう。
途中で昼食を取って白山平泉寺歴史探遊館(福井県勝山市平泉寺町66-2-12 ☎0779-87-6001)に入った。

白山信仰や白山平泉寺の歴史を解説するパネルやハイビジョン映像、発掘調査で出土した遺物などの展示を見た後、白山平泉寺の参道を進む。上の画像は精進坂の近くから一の鳥居を写したものである。
ここで、簡単にこの寺の歴史を振り返っておこう。
平泉寺は養老元年(717)に修験者の泰澄(たいちょう)が、ここから白山に登拝してこの寺を開いたとされ、平安時代中期から戦国時代には、白山信仰の越前の拠点として、最盛期には48社、36堂、6千坊の堂塔伽藍が存在し、僧兵が8千人いたという。
ところが、天正2年(1574)に一向一揆との戦いに敗れ全山焼失し、9年後に顕海僧正が平林寺に戻って再興したが、往時のような大寺院には戻れず、中心伽藍は再興されたものの、大部分は田畑や山林の下に埋もれてしまった。
しかし江戸時代になって幕府から200石が朱印地として、福井藩から100石が白山社領として、勝山藩からも30石が寄進され、寛永8年(1631)には上野寛永寺末寺となって収入面で改善をみたのだが、明治に入って政府の神仏分離政策により、まず明治3年(1870)4月の太政官布告により寺号が廃止され、翌明治4年1月に寺領が没収されて経済的基盤を奪われ、明治5年には廃寺となり、住職の義章(ぎしょう)は還俗して神官となったという。
かくして「霊応山平泉寺」はすっかり仏教的色彩が廃され、白山社の本殿、拝殿、鳥居などが残されて「白山神社」と名前を変えられて、今日に至っている。

上の画像は中世に描かれた平泉寺の境内だが、多くの仏教施設があったことが良く分かる。しかし一向一揆の戦いでほとんどが焼失してしまい、廃仏毀釈の直前にどれだけの仏教施設が残されていたかについては図会などが失われているためによくわからない。


一の鳥居を過ぎると社務所がありその東側が国名勝の「旧玄成院庭園」とあるので入ってみた。
玄成院は天台宗平泉寺の塔頭*だった寺で、建物の東側が室町時代に作庭された廻遊式枯山水庭園であったのだが、今はすっかり苔むしてしまっていて、庭園に配置された庭石を確認できるだけである。
*塔頭(たっちゅう):寺院のなかにある個別の坊をいう。寺院を護持している僧侶や家族が住む子院。

そのすぐ先に御手洗池(みたらいいけ)という池があるが、昔は平清水と呼ばれていて、平泉寺の名前の由来となった池なのだそうだ。中央にある岩は影向岩と言い、泰澄大師がこの岩に向かってお参りしていると、一人の女神が現れ、その女神の導きにより大師は白山の頂上を極めたという謂れがある。

二の鳥居を過ぎると拝殿があるが、天正2年(1574)の一向一揆で全山が焼失する以前は、この場所に45間*8分(83m)奥行7間2分(13m)の大講堂が存在したという。現在の拝殿は安政6年(1859)に建設されたもので、間口6間、奥行き4間と随分小さくなり、その左右には苔に埋もれた大講堂の礎石が多数残されている。
*1間=1.818m

そして拝殿の奥には本社がある。
間口3間1尺、奥行3間と決して大きな建物ではないが、総欅造りの立派な建物で、昇り龍・降り龍の丸彫、壁面の浮彫などの彫刻が見事である。

本社から三の宮に向かう途中に納経所跡があったので立ち寄った。周囲には破壊された石仏が所狭しと道端に数多く積まれていた。一向一揆で破壊されたのか、廃仏毀釈で破壊されたのか詳しいことは良く分からないが、境内の石仏をここに集めたようである。
三の宮は安産の神様を祀っているところで、その左に楠木正成の墓がある。

そして三の宮の奥には、越前禅定道の入口がある。平成8年にこの道は『歴史の道100選』に選ばれたのだそうだが、かつては修験者達がここから白山を目指して行った道である。

もとの参道を引き返して途中で左に折れると、南谷三千六百坊跡の発掘現場がある。境内を挟んで反対側の北谷には二千四百坊があり、合せて平泉寺六千坊があったと言われているのだが、天正2年に全てが焼かれしまったという。
平成元年から南谷の発掘調査が始まって、上の画像のような石敷きの道に接して、計画的に配置された僧坊跡が発見され、中世の平泉寺が多くの僧坊を備えた宗教都市であったことが次第に分かるようになってきたという。
このように『白山平泉寺』は『平泉寺』という名前は残されたが仏教の施設は撤去されて、明治以降の正式名称は『白山神社』となっている。
しかしながら、この寺に関しては、明治の廃仏毀釈による破壊よりも一向一揆の門徒による破壊の方が、はるかに規模が大であったことを知るべきである。
ところが、真宗の信者の多い越前では、あまりにも強引な政府の宗教政策に反抗して、明治6年(1873)に僧侶や門徒たちが大規模な一揆を行なっている。(『越前護法大一揆』)

安丸良夫氏の『神々の明治維新』(岩波新書)には、明治6年の越前の出来事をこう解説している。
「(越前)大野郡では『仏法廃止』に抵抗するための秘密組織が生まれ、村々が連印して、耶蘇宗の者が来たら蜂起することが約定された。3月6日、こうした同行の機先を制する目的で二人の指導者を逮捕すると、大野郡一帯で農民たちは蜂起し、『南無阿弥陀仏』と大書した旗をかかげ、竹槍をもって大野町地券役所を襲って焼きはらい、同町や近在で、富商・戸長役場・商法会社・高札場などを打ちこわし、あるいは焼いた。大野郡についで今立郡・坂井郡でも同じような蜂起がおこった。一揆勢は大野郡だけでも2万、その行動のはげしさにおいても規模においても、明治初年を代表する一揆の一つであった。」(『神々の明治維新』p.190-191)
もっと詳しく知りたい人は、「『福井県史』通史編5 近現代一」がネットで公開されている。この一揆で、大野郡で80人以上が捕縛され、6人が死刑に処されたという。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm
このように、政府の宗教政策に反対して浄土真宗の門徒が起こした一揆は、越前だけでなく明治4年の『三河大浜騒動』や、明治5年の『信越地方土寇一揆』など、明治3年から6年の間に集中しているのだが、このような真宗門徒による一揆が全国で相次いだことが、冒頭で記した白山下山仏が林西寺に奇跡的に残されたことと無関係ではなさそうだ。
旅行から帰って調べてわかったことなのだが、白山平泉寺歴史探遊館を300mほど南に進んでいくと平泉寺観音堂がある。近くまで来ておりながら行きそびれてしまって非常に残念だが、その観音堂に「聖観音立像」という仏像が安置されているようだ。
この仏像は、天正2年の一向一揆の乱で観音堂が焼け地中に埋まっていたのを、平泉寺を再興した顕海僧正が掘り出したと伝えられているという。この仏像も、明治の廃仏毀釈を奇跡的に生き延びた。
そして平泉寺白山神社の一の鳥居に向かう精進坂の左手に、平泉寺の塔頭であった顕海寺がある。ここにも、平泉寺が山岳信仰の中心であったことを伝える鎌倉時代の金銅仏が2体残されているという。

【平泉寺観音堂:聖観音立像】
いつになるかわからないが、今度行く機会があれば顕海寺と観音堂に立ち寄って、一向一揆と廃仏毀釈という二つの大きな危機を奇しくも乗り越えてきた仏像を、是非とも観賞したいものである。
http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/ibuki/kannondo.html
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。
明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-399.html
修験道の聖地・龍泉寺から天川弁財天神社、丹生川上神社下社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-396.html
高松塚から奈良県最大の廃仏毀釈のあった内山永久寺の跡を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-398.html
古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-352.html
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