明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
『大濱騒動』では、明治4年(1871)に服部純という役人が領内の寺院住職に対して寺の統廃合の話を持ちかけたことを書いたのだが、同様なことは全国の諸藩でかなり強引に実施されたものの、明治政府も神祇省主導による神道を基軸とする民衆教化の限界を知ることとなり、宗教政策の転換を迫られることとなる。
『福井県史』通史編5 近現代一の解説によると、
「(明治)五年三月、神祇省を廃止し新たに教部省を設置したが、同省は神道・仏教をはじめ宗教界を動員して、統一的組織的な国民教化の新路線をめざしていた。
…
教部省は五年四月二十五日、教導職を置いて大教正以下権訓導まで一四級に分け、まず神職・僧侶が任命された。敦賀県下の教導職は、神官が三三人(越前国一八人・若狭国一五人)、僧侶が七六〇人(越前国五一九人・若狭国二四一人)計七九三人を数えるが、全国平均では、神官が全体の約六〇パーセントであるのに対して、敦賀県では、僧侶が九六パーセントという圧倒的な比重を占める(「福井県史料」三四)。このことは、同県では、寺院側とりわけその過半を占める真宗寺院勢力の協力を得なければ、教導職体制が推進できないことを示しているといえよう。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-01.htm
では、教部省は真宗寺院の勢力を借りていったい何をしようとしていたかというと、相変わらず寺院廃合を推進しようとしていたのである。

今立町に派遣されたた元僧侶の役人がどのような動きをしたかについて、『福井県史』にはこう解説されている。
「今立郡定友村(今立町)の唯宝寺(本願寺派)出身で、教部省一一等出仕の石丸八郎(還俗前は良厳)が、明治六年(1873)一月、郷里に帰省した。そして地域の寺院廃合や小教院設置の急務を唱え、各寺院に『三条の教則』*を守るよう誓わせたことが、真宗寺院僧侶・門徒農民層の間に、意外な波紋をひき起こした。しかも『石丸発言』が、『耶蘇』の教法であると喧伝され、その情報が隣接の大野郡に及ぶと、友兼村の専福寺(真宗高田派)住職金森顕順、上据村の最勝寺(本願寺派)住職柵専乗、同村の上層農竹尾五右衛門らを中心に、同月下旬には、およそ六五か村の『護法連判』が行われた。石丸を『耶蘇宗の者』とみなし、『耶蘇』の侵入には、村ごとに『南無阿弥陀仏』の旗を押し立て、断固一揆の強硬手段で対抗することを誓い合ったのである。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-02.htm
*『三条の教則』:「一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事 一、天理人道ヲ明ラカニスベキ事 一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」
石丸八郎が郷里で発言した内容が、前回紹介した『神仏分離の動乱』(臼井史朗著)に出ている。
「今般奉伺候通、人民平均ノ趣旨ヲ以、広ク教育撰挙ノ法ヲ設ケ候際ニ当リ、独リ僧侶ニ限リ、従前ノ通リ度外ニ取計置候テハ、藩政改革ノ条理ニ於テ不都合ノミナラズ、一視同仁ノ御政体ニモ適当仕間敷ニ付、漸次平民ニ帰シ候様致シ度、尤苛酷排斥人心ニ関係候筋ニハ不相渉様可仕候間、其処置ハ当藩ノ適宜ニ御任セ相成度、尚処置ノ廉ハ、其節ニ御届可申上候、此段奉伺候、」(『神仏分離の動乱』p.175)
僧侶だけが従来と同様に処遇されるのでは藩政改革が困難であるので、漸次僧侶を還俗させて平民にすると述べているのだが、『大濱騒動』の原因となった服部純の発言内容は異なるものの寺や僧侶を減らすという点では一致している。そして彼の一連の発言が、民衆に非常な不安を与えることとなり、民衆が蜂起するになったようなのだ。
先ほど紹介した『福井県史』によれば「『石丸発言』が、『耶蘇』の教法であると喧伝された」とあるのだが、これはいったいどういうことなのか。
『耶蘇』とは『キリスト教』を意味する言葉だが、そもそも元僧侶であった石丸という人物が、なぜキリスト教と結び付けられてしまったのかと誰でも思う。
ネットで見つけた大日方純夫氏の『明治新政府とキリスト教』という論文を読むと、石丸八郎という人物は、越前に来る少し前に新政府のキリスト教禁止政策に基づき長崎に派遣されていて、キリスト教宣教師のもとに潜入して内部情報を収集する「異宗徒掛諜者」の活動をしていたことがわかる。
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8566/1/80704_45.pdf
石丸八郎は幕末以来キリスト教排撃運動を展開した人物であり、彼の信仰が『耶蘇』であったはずはないと思うのだが、誰かが口にしたことで一気に『耶蘇』との噂が広がっていき、民衆がとんでもない暴動を起こすことになったのだ。この点については最後に触れることにする。

【大野郡での攻撃目標】
この一揆の激しさは『福井県史』に詳しい。
「三月五日、福井支庁から派遣された官員や邏卒らの官憲が、竹尾五右衛門ら五人を『護法連判』の主導者として拉致したのを発端として、まず大野郡下で大一揆が勃発する。翌六日には、おもに上庄・下庄両地区から一揆の大群が大野町に押し寄せ、旧足羽県支庁はじめ豪商・戸長・商法会社・教導職寺院・高札場などを破毀または焼き打ちし、また農村では、豪農の区・戸長宅を攻撃した。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm

福井支庁は官憲や旧藩士から募集したメンバーを送り込んで事態の収拾を図ろうとしたが、一揆勢の勢いを止めることはできなかったという。そして一揆勢は次のような「三カ条の願書」を福井支庁に提出したという。
「一、耶蘇宗拒絶の事 一、真宗説法再興の事 一、学校に洋文を廃する事」
明治維新以降人々は断髪して洋服を着るようになり学校では英語を教えるようになったのだが、その洋風化が仏教への弾圧に繋がり、耶蘇教を広めることに繋がるとでも考えたのであろうか。

【今立郡での攻撃目標】
ところが、8日の夕刻になり、この願書に対する県側の回答が遅れたことから、またもや一揆勢が集合したという。再び『福井県史』を引用する。
「一揆勢が集まり、『大野市中又騒然竹槍林立立錐ノ地モ無シ』という険悪な事態となった(富永良一郎家文書)。そのため官員は、一旦一揆側の『願書』のすべてを認めるということで、ようやく事態がおさまったのである。また、その場での窮地を脱するための謀計にすぎなかったとはいえ、一揆主導者の処刑は絶対にしないと確約することで、はじめて一揆の徒が退去した点からみて、官側が一揆の猛勢に対して、いかに脅威を抱いたかがうかがわれる。
その後本庁ではただちに、名古屋鎮台と大阪鎮台彦根営所に対し一揆勃発の事情を報告、ついで十一日、名古屋鎮台に至急出兵方を要請し、いよいよ「兵威」による一揆主導者の一斉摘発の準備を進めようとした矢先、同日から隣接の今立郡に大一揆が勃発する。同郡下では、小坂村はじめ近村の農民諸階層による同村戸長富田重右衛門宅に対する打ちこわしが発端となる。そして地域的には、莇生田・東庄境・野岡・粟田部・定友・岩本・大滝・松成・中新庄の諸村に及び、… 大野郡の場合とほぼ同様に、教導職寺院はじめ豪農商の区戸長居宅や土蔵などに対して、破毀焼却のかぎりを尽した。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-03.htm
県は断固武力弾圧の挙に出たことから13日になって一揆勢は四散するも、今度は坂井郡下でも九頭竜川以北の農民が各所で蜂起し、金津・兵庫・森田近辺に多数群集して、約一万人にふくれあがった一揆勢は、福井をめざして進撃したという。そして一揆勢は、大野郡と同様の「願書」を差出したが、それが拒否されると猛然と反撃したのだそうだ。
官側は砲撃による武力制圧で一揆勢の福井侵入を食い止め、さらに主要路を遮断し説諭に努めたことで、一揆勢はようやく四散したという。
県当局は政府に対し一揆鎮定の報告を行ない、大野郡では再発防止の態勢をとった上で、一旦容認した一揆側の『願書』を取り消すとともに、一揆参加者の一斉検挙を開始し、80余人が捕縛され、4月4日に判決で6人が即日死刑に処されている。
県全体では、8439人が処罰され、竹槍や棒などを持参し一揆に参加した者は3円、何も持参せずに参加した者には2円25銭の「贖罪金」が課されることとなり、合計で20,309円もの贖罪金が集まったのだそうだ。この当時の1円の価値については諸説あるが、今の8千円~2万5千円の中間をとっても、3億円を上回ることになる。
越前は古くから浄土真宗の信仰が盛んな地域で、一揆のあった地域では7割以上が浄土真宗の寺であったようだ。明治4年に政府は寺領上地を断行し、寺領を経済的基盤とする寺は大きな打撃を蒙ったのだが、浄土真宗の寺は門徒からの収入で寺の経営が成り立っていたので、経済的な側面からの打撃は他の宗派の寺よりも少なかったという。
ではなぜ、真宗の僧侶や門徒達はここまで激しく闘うことになったのであろうか。
真宗の場合は寺のほかに道場があり、多くの場合道場は、村に住む「道場守」によって維持管理されていた。その道場守に対して県は、正規に寺に所属するか、脱衣蓄髪して民籍に入るかの選択を迫り、道場も廃寺の対象にしたことから、宗教施設としての存続の危機に直面することになった。

また明治5年3月から政府に教部省が置かれて、神官・僧侶を「教導職」として採用し、「教導職」を通じて敬神愛国、天理人道、皇上奉戴・朝旨遵守を説かしめ、国民教化を行なおうとした際に、たとえば足羽県(あすわけん:越前国北部)では僧侶による説教を禁止してしまっている。
以上の二点が、真宗の僧侶や門徒が不満を持つに至った理由と伝えられている。
『福井県史』の解説がわかりやすいので、再び引用させていただく。
「天皇の絶対権威のもとに、西洋文明を範とする合理主義を唱える『開化』の立場からは、極楽往生という来世への安心を信仰の核とした真宗門徒の生活態度こそ、まったく否定すべき『頑民』『愚民』の『弊習』にほかならなかった。しかも、真宗門徒の間では法談・説法などの日常的な信仰活動がさかんであったことが、いっそう非難の的を大きくする結果を招いた。二十三年にまとめられた『福井県農事調査書』でも、真宗がさかんな坂井郡の農民について、『彼ノ約束説(極楽往生)ニ拘泥シ、甚タ活発ノ気象ニ乏シク……勤倹勉励ノ風、頗ル薄ク、夜業等、近時ニ至ルマテハ殆ント絶無ノ姿ナリシ』と評価を下し、真宗に帰依する生活態度を農業生産の向上を阻害する『欠点』としている。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-05-01-05.htm

当時この地域で発行されていた『撮要新聞』には、仏教や僧侶の活動を公然と批判し、排仏の論調を鮮明にしていたという。このような論調は、政府や県の意向を反映したものではなかったか。
『福井県史』に、同紙のこんな記事が紹介されている。
「『数百年来、仏法蔓延』した越前において、僧侶は『此有難キ文明開化ノ秋ニ当テ……徒ニ愚民ヲシテ、益々愚ニオトシ入レ』」るものとして、特に勢力を保っていた真宗と日蓮宗に避難の矛先をむけた。」
明治政府は、西洋文明を模範としてわが国の西洋化を推進しようとしたのだが、その目的を達成するためには、仏教の教義や人々の信仰生活などは排除すべき存在であったのだろう。
教導職の石丸八郎は『耶蘇教』を奉じていたわけではなかったのだが、彼が故郷に戻って伝えようとした西洋的な考え方は、熱心な浄土真宗の僧侶や門徒が受けいれられるものではなかったようである。
明治維新後洋風化が進み、暦も太陽暦に改められ、税制も大幅に変わるなど人々の生活が一変し、伝統的な生活が壊されていくことの不安もあったと思うのだが、そんななかに石丸八郎が教導職として赴任してきて、さらなる西洋化を進めようとし、寺の説教までもが禁止されてしまった。
「(石丸八郎が)耶蘇ヲ勧ムルナリ」という噂が広められたのは、人々を糾合させるための方便であった可能性が高いと考えるのだが、彼が推し進めようとしたことは真宗の僧侶や門徒たちの伝統的な信仰生活を冒すものであったことは確実である。だからこそ、人々は村ごとに『南無阿弥陀仏』の旗を立てて、立ち上がったのであろう。
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【ご参考】
明治時代の初期についてこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html
明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
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江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
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白峰地区の林西寺に残された白山下山仏と、破壊された越前馬場・白山平泉寺
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-458.html
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