応仁の乱の前に何度も土一揆がおきた背景を考える

このような異常気象は100年以上続いて、わが国の各地で穀物等の収穫量が減少して餓死者が続出したのだが、この時期に各地で土一揆が起ったことや応仁の乱(1467年)が起こったことは、冷夏が続いて穀物の収穫量が減ったことと無関係ではなかったと思うのだが、そのような視点からこの時代を叙述している歴史書は少ない。

一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』に、『シュペーラー極小期』の初期に土一揆が頻発したことについてどう記されているか気になったので調べてみると、こう書かれている。
「惣村の形成
守護大名が大きな勢力をきずいてきた14世紀後半には、荘園領主や国人の支配する農村で、惣(そう)や惣村(そうそん)とよばれるむすびつきが発達していた。このむすびつきは、戦乱から村落をまもり、国人・荘園領主に抵抗するために、有力農民が、成長してきた小農民を構成員にいれてつくったもので、自治的性格をもち、沙汰人(さたにん)・乙名(おとな)とよばれる地侍(じざむらい)の指導者を選出し、警察・裁判などもみずからおこない、武力もそなえていた。
惣村を維持するため、その構成員である惣百姓は会合(寄合)をひらいて規約(村掟・惣掟)を定め、財産として共有地(惣有地・入会地)をもっていた。また領主と交渉して、責任をもって年貢を請け負う百姓請(地下請)を実現したり、年貢の免除や引き下げをもとめた。
こうした惣村の動きに対抗するため、荘園領主や国人は守護大名の力にたよった。これに応じて守護大名は半済や守護請をおこなって荘園の支配を強め、さらには一国内を領国として支配し、惣村に対しても田別に段銭、人別に夫役を課していった。
土一揆
農民たちは、はじめのうちは領主に抵抗するのに、領主のもとにおしかけて訴える愁訴(しゅうそ)・強訴(ごうそ)や、山林ににげこんで耕作を放棄する逃散(ちょうさん)などの消極的な手段をとっていた。
しかし守護の領国支配がすすむと、彼らは周辺の村々と連合して郷や組という連合組織をつくるようになり、一致団結した集団行動の一揆や、逃散といっても他村ににげこむ積極的な行動もとるようになった。そして地域的にひろいつながりをもつ土一揆という武力蜂起をおこすようになると、経済的にも地域のつながりがふかまるなかで、守護大名と実力で対抗するまでに成長していった。」(『もういちど読む 山川日本史』p.117-118)
と、この時期に異常気象が相次いで何度も飢饉が起こり多くの餓死者が出たことを一言も書いていない。普通に読めば、農民が実力を蓄えて守護大名に対抗する勢力になったと理解するしかないのだが、農民が守護大名に抗して武力蜂起をおこすというのはどう考えても異常事態であり、この教科書のような説明に違和感を覚えるのは私だけではないだろう。

前回の記事で紹介した田家 康氏の『【異常気象】小氷河期が戦乱を生んだ』には、土一揆が多発した経緯についてこう記している。
「まず一四二三年に京都、越中、山城、大和で、そして一四二七年に、京都、会津、武蔵、下野、伊勢、丹波、豊前と各地に長雨や洪水の記録がある。一四二八年前半に三日病とよばれる疫病が発生し、応永から正長(しょうちょう)へと改元した理由となった。
一四二八年には、京都、会津、下野、武蔵、伊勢、丹波、豊前で飢饉が発生した。そして同年八月、正長の土一揆が勃発するのだ。興福寺別当の尋尊が編集した『大乗院日記目録』には、「天下の土民蜂起す。徳政を号して、酒屋、土倉、寺院等を破却し、雑物等を恣(ほしいまま)にこれを取り、借銭等を悉(ことごと)く破る。管領これを成敗す。凡(およ)そ亡国の基であり、之に過ぐるべからず。日本開闢(かいびゃく)以来、土民蜂起の初めなり」と書かれている。もともと農業生産を向上させるための鉄製農具や農耕馬が、農民叛乱において武器と化していった。
一四三七年から二年続きの飢饉が発生し、嘉吉の徳政一揆の遠因となる。一四四一年六月に足利義教が赤松満祐(みつすけ)によって暗殺されると、新しい将軍はまず善政を示すべきとして、借入金の返済を見直す『代替りの徳政』を求める声が高まった。九月に入って、一揆の軍勢は近江から京都に乱入したのだ。室町幕府は、正長の土一揆では拒否した徳政要求に屈し、閏九月一〇日に徳政施行を発した。
一四四五年から一四四六年にかけても、洪水は加賀、能登、近江で起き、京都で『止雨奉幣』が祈られた。そして、一四四七年(文安四)に諸国の牢籠人が洛中に集まり、暴徒や悪党と結託して文安の土一揆が発生した。」
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/1822?page=4
このままでは飢えて死ぬしかない瀬戸際に土一揆が起こっているのであって、農民が階級闘争をはじめたかのような『山川日本史』の歴史叙述が正しいとは思えないのだ。
京都で武装蜂起した土一揆はどんな人々が結集し誰が主導したかというと、田家 康氏の論文によると当時の文献からは2つのパターンがあるという。
1つは惣村が関与した土一揆で、京都の酒屋や土倉といった金融業者に押し入り、借入証文の破棄という私徳政を要求したもの。
もう一つのパターンは村主導のものだけでなく、飢饉の発生によって村を離れて流民となった人々が、自力救済の行動として食糧や物資を強奪したものである。
田畑を耕して家族の生活が維持できるのであれば、農民が村を離れることは考えにくい。農民が耕地を捨てて流民となるのは、余程の飢饉が起きたか、刈り取る前に作物を奪われるなどして、村にいても生きていくことが出来なくなるような事態に陥ったということだろう。
「シュペーラー極小期」の始期とされる応永27年(1420)に大規模な旱魃が起こり、畿内と西国が大凶作となり、また翌年には各地で深刻な飢餓と疫病に襲われて、さらに応永28年(1421)には飢えた人々が難民となって京に殺到したという。しかしながら、京の人々も食べるものが無くなって、餓死者が続出するに至る。

そして嘉吉3年(1443)に「嘉吉の大飢饉」が起こっている。しばらく藤木久志氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』を引用させていただく。
「この年も京では『天下飢饉し、悪党充満す』(『看聞日記』)といわれ、大飢饉のため夜ごと高利貸が襲われ放火され、『みな強盗のせいだ』と言われます。『辺境』の村が飢えると、生き延びるため『京中』をめざし、ときには京の高利貸(土倉・酒屋・寺院など)や富商を襲います。諸国の領主や京の政権に、ほとんど危機管理の力量がなかった時代のことです。だから、かれら悪党や強盗の多くは、物乞いとならんで、周縁から京に流れ込んだ飢餓難民たちが、自力で生き延びる必死なサバイバルの道だったと私はみるのです。」(同上書 p.50-51)
さらに文安2年(1445)には各地を大きな台風が襲い、文安3年(1446)には大洪水があり、翌文安4年(1447)にも大風・洪水・旱魃から凶作となったために飢餓難民が京に流入し、さらに「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も各地から京都を目指したという。
そして13年経って、長禄4・寛正元年(1460)冬から翌年春にかけて、「寛正の大飢饉」が起こり、この時も諸国の人々が食を求めて京に流入し、米穀の蓄えが底をついた寛政2年の春に、将軍足利義政が錢100貫文を放出して食物の施しを始めたが、多数の飢饉難民を前にほとんど効果なく、わずか6日ほどで打ち切ったという記録がある(『臥雲日件録抜尤』)。
また願阿(がんあ)という民間の僧が、「勧進」といって京の人々から金品の喜捨を募り、六角堂の一帯に仮小屋を立てて難民を収容し、日に二度、八千人もの規模で粟粥などの施しを始めたが、この施しも効果が乏しく20日ばかりで止めてしまった記録がある(『碧山日録』) 。
餓死者は鴨川にあふれて流れをふさぐほどで、五条の河原に300mもの長い堀を掘って埋葬したという。
一方で、京に流入した飢餓難民に仕事を与えてうまくいった事例もある。藤木氏は同上書でこう記している。
「15世紀の初め『天下大飢渇』といわれた飢饉のさなか、京の慈恩という金持が錢二百貫文もの私財を投げ出して、五条の大橋のかけ替えを始めると『富者は財(金銭)を施し、貧者は力(労働)を施し』たため、飢えた人々も仕事と食べ物にありつき、ぶじに大橋の再建も成った、といいます(『仲方和尚語録』)。また苔寺で知られる京都の西芳寺でも、同じころの大飢饉のさなか、難民を救うために『ただ人に物を食わせ、何のなすことも無うては、その身のためも悪い』と考えた僧が、荒れた庭を復旧しようと、飢えた人々をやとい、日ごとの働きに応じて食べ物を与え、めでたく庭もできた、といいます(『三体詩抄』)。」(同上書 p.55)

【足利義政像】
将軍の足利義政は長禄・寛正の飢饉のさなかに「花の御所」の復旧をはたし、ついで六千万貫文もの資金を投じて、母のための御所の建造にとりかかったことについて、人民の苦しみをかえりみぬ暴挙として、天皇に批判されたという記録(『新撰長禄寛正記』)があるそうだが、藤木氏は飢饉であったからこそ、将軍は雇用創出の為に公共事業を起こして、難民たちに仕事を与えたという可能性を示唆しておられる。事実、将軍義政は寛正2年の春に五山の寺々に指示し、四条・五条の大橋で大がかりな「施食会」も開かせており、難民対策もしっかりと実施していたのである。

【上杉本陶版『洛中洛外圖』に描かれた『花の御所』】
「将軍の御殿造りも、寺の再興も、公共の橋のかけ替えも、金持の豪邸つくりも、みなこの生き残りの仕組みをうまく駆使した事業でした。それは、権力者や寺院や豪商が強引に手元へかき集めた巨富を、危機の世に放出し再配分するための装置だった、ともいえるでしょう。
その結果、なにがしかの働き口と食べ物にありついた難民たちの一部は、かつがつ餓死をまぬがれ、彼らを救った坊さんは世に名僧と仰がれ、金持ちは『有徳の人』(徳のある人)と敬われ、その社会で地位を固めました。世の危機に私財を投じて事業を起こすのは、世の金持ちのとうぜんの務めで、それこそ『有徳の人』といわれたのです。」(同上書 p.57-58)
このような事例のある一方で、土一揆で多くの建物が襲われて取り壊されたりしたのだが、では、どのような建物が破壊のターゲットとされたのか。藤木氏の解説を続けよう。
「しかし、もしひどい不況や飢饉になっても、金持が蓄財をだし惜しんで『有徳の人』らしい務めを果たさなければ、世の中はだまっていませんでした。『有徳の人』に『徳』のある行いをつよく求め、実力で富をもぎとる行動に出たのです。その典型が、つぎにみる『徳政』をさけんだ土一揆で、その標的になったのは、土倉・酒屋・寺院など、京の富豪(分限者)たちでした。あいつぐ飢饉を背景に断続した徳政の土一揆というのは、世のサバイバルシステムを力ずくで作動させようとした、いかにも『自力』第一の中世らしい、自力救済の運動だった、と私はみるのです。」(同上書 p.58)
では、なぜ食糧の生産地である農村が先に飢えて、消費地である京に飢餓難民が殺到したのか。この謎について藤木氏は都市社会学者の藤田弘夫氏が提起した仮説を紹介しておられる。
「もはや中世の村は、その生産物でまず自分の暮らしを立て、その余りを首都に移出するという、自然な自給自足の村ではなかった。ことに周縁の村々は、政権都市であり荘園領主の拠点都市である首都に早くから従属し、京に食糧や物産を供給する基地として、地域ごとにきまった作付け(モノカルチャー)が強制され、それを上納し販売することで、ようやく村の暮らしも保証されるようになっていた。
だから、いったん凶作になると、この偏った需給システムをもつ生産地がまず飢えに襲われ、食を求めて生き延びるために、権力があらゆる富を集中させていた、首都をめざすことになったのだというのです。」(同上書 p.58-59)
藤木氏の『飢餓と戦争の戦国を行く』における15世紀のわが国の記述は、『山川日本史』よりもはるかに説得力を感じるのだが、残念なことながらこの本は絶版になってしまっているようだ。
近い将来、この時代の通史が階級闘争史観から全面的に書き改められる日は来るのだろうか。
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