室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
『応仁の乱』は、最近の教科書ではどう記されているかが気になって、『もういちど読む山川日本史』で確認すると、こうなっている。

「応仁の乱
義教死後の幕府は守護大名の勢力争いの場となり、やがて細川勝元と山名持豊(宗全:そうぜん)を中心とする二大勢力が抗争するようになった。両派は、将軍義政のあとつぎをめぐる弟義視(よしみ)と義政の妻・日野富子のうんだ義尚(よしひさ)との争いを中心に二つにわかれて争った。
このころの相続は分割相続から単独相続へと完全にかわり、家を相続した惣領(家督)の立場が強くなったぶん、その地位をめぐり、一族や家臣団がたがいに争うことが多くなった。こうした争いをつうじて下位のものの実力が強化され、実権は主人から下位のものへ移っていった。指導力を失い、権威のおちた幕府の力ではもはや家督争いを解決できず、二大勢力は東西に分かれてついに戦闘状態にはいった。
戦乱は1467(応仁元) 年から11年間にわたってつづいた(応仁の乱)。戦場となった京都は、傭兵として使われた足軽の乱暴などで焼野原となり、戦乱のあいだに、貴族や寺社だけでなく幕府の没落・衰退は決定的なものとなった。諸国の荘園・公領は守護代や国人に押し取られ、京都に住むかつての支配層の生活の場と経済は、根底からくずされてしまった。」(『もういちど読む山川日本史』p.121)
この教科書の「土一揆」の説明もそうだったが、この時期に凶作や飢饉が相次いだことを一言も書かず、また争いの原因となった将軍家の家督争いの問題や細川家と山名家の対立がなぜ生じたかについて、この解説ではさっぱりわからないので少し補足させていただこう。
室町幕府は守護大名による合議制の連合政権であり、成立の当初から概して将軍の権力基盤は弱く、将軍の力が強かったのは3代将軍足利義満と、第6代将軍足利義教の頃くらいなのだが、専制政治をしいて守護大名を抑えつけていた6代将軍義教が嘉吉元年(1441)に赤松満祐に暗殺されてしまう(嘉吉の乱)。
そのあとを継いだ7代将軍は義教の嫡子である当時9歳の足利義勝だったが、1年足らずのうちに急逝してしまう。そこで義勝の同母弟のわずか8歳の足利義政が、畠山持国らに推挙されて将軍職に選出され、元服を迎えた文安6年(1449)に正式に第8代将軍に就任している。

【足利義政像】
義政は当初は幕府の運営に積極的に関与する姿勢をみせていたが、側近と守護大名の対立や、相次ぐ飢饉で難民が京都に押し寄せ、また各地で土一揆が勃発するなどの政治的混乱が続いて、次第に政治の世界に興味を失っていき、わずか29歳の時に将軍の座を弟に譲ることを決意したという。
Wikipediaにこう解説されている。
「義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立った。禅譲を持ちかけられた義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けた。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて再三将軍職就任を説得したことから寛正5年11月26日(1464年12月24日)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
このように将軍義政は、将来男子が誕生しても僧門に入れることを起請文に認めるまでして将軍職を弟の義視に譲ることを約し、それによって義視は兄の望みどおりに還俗して、後見人には管領の細川勝元がつくことが決まったのだが、正式な譲位がなされないままやっかいな問題が起こってしまう。

【日野富子像】
義政の正室である日野富子が懐妊し翌年に男子を出産すると、富子は自分の子である義尚(よしひさ)を将軍にしたいと考えて、有力守護大名の山名宗全に後見を頼んでいる。
一方将軍義政は、妻の行動を止めることも無く、長きにわたり義視にも義尚にも将軍職を譲らずにあいまいな態度を取り続けたのである。

【細川勝元像】
こうして足利将軍家の家督争いは、全国の守護大名を、足利義視・細川勝元の陣営と、足利義尚・山名宗全の陣営とに2分する事態となり衝突は避けがたいものとなっていった。
細川勝元と山名宗全はそれぞれ京都で兵を集めると、まず義政の側近たちを追放し、同時に諸大名たちを自軍に引きこもうと精力的に動き、畠山家、斯波家などの家督争いを巻き込んで、とうとう応仁元年(1467)に戦いが始まった。

【山名宗全像】
細川勝元は将軍の居所である室町殿(花の御所)を占拠し、山名宗全は自分の館に陣を構えて細川勢と対峙した。この時の陣の位置関係から、細川勢を東軍、山名勢を西軍と呼び、それぞれの陣を東陣、西陣と呼ぶのだが、「西陣織」で有名な京都の西陣地区は、この地域に応仁の乱の西陣があったことが地名の由来なのだそうだ。
将軍義政は側近を失ってからは政治への意欲を失っていき、幕政を日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなどもっぱら数奇の道を探求していったという。

戦いは当初は東軍が将軍と朝廷を手中に収めて優勢であったが、中国・九州の守護大名・大内政弘が大軍を率いて西軍についたことで混沌としはじめ、文明5年(1473)には、細川勝元、山名宗全が相次いで他界し、それを期にようやく義政は将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居したのだが、それでも戦乱は終わらなかった。
結局、長い戦いに疲弊しきった両軍が文明9年(1477)に和議を結んで応仁の乱は終わっている。
このような経緯を知れば、応仁の乱が起き、室町幕府の弱体化を招いた責任の大半は、将軍家の家督争いの原因を作りながら、それを解決させないまま争いを継続させた足利義政と妻の日野富子にあったことがわかる。教科書や通史ではなぜかこのような経緯をほとんど何も書かないのだが、このような経緯を知らなければ応仁の乱の勃発原因を理解することは難しい。

さて、応仁の乱の両軍の戦力については諸説あるが、Wikipediaによると東軍が16万、西軍が11万とあり、前回の記事で述べたとおりその大半が足軽などの雑兵であった。
彼らは戦争で勝利しても大名からの恩賞には与れなかったが、そのかわりにある程度の略奪や暴行が許容されていたことから、戦場などで盗んだものを売って生計の足しにしていたのである。この戦乱で京の都の大半が焼失してしまったという。
戦乱が続くのを嫌って多くの公家や僧侶が京を逃げ出し、地方の大名を頼って各地に分散し、地方の武士たちは彼らを喜んで迎え入れたことから中央の文化が全国に広がっていったことは良いことであったとしても、この戦乱で京の多くの文化財が失われたことは残念なことである。
さきほど文明9年(1477)に細川勢と山名勢との和議が成立して「応仁の乱」が終わったと書いたのだが、畠山氏の跡目争いはその後も続いたという。
応仁の乱を通して、畠山氏の当主の座と河内守護の役割は公式には畠山政長であったが、山名氏の支持を得た畠山義就が河内を実効支配していた。
文明11年(1479)に摂津で一揆が起り、細川勝元の子である細川政元が畠山政長とともにこれを制圧したのだが、政元が京へ引き上げた後に畠山政長は義就討伐の軍を進めている。ところが、義就軍は隙をついて山城に攻め込んで、南山城を占拠してしまうのである。
幕府と政長軍は文明17年(1485)に義就討伐軍を南山城に送り込み、再び戦いは膠着状態のまま3ヵ月が経過した。
農民側にとっては、これまで繰り返し人夫・兵粮米が徴発され、田畑は荒らされ民家は戦いで焼き払われてしまって生活は苦しかったに違いない。南山城の地侍や農民たちは集会を開いて、畠山両軍に対して山城からの撤兵を要求した記録が残されている。

『日本大百科全書』の『山城国一揆』の解説にはこう書かれている。
「『大乗院寺社雑事記』12月11日条によると、上は60歳から下は15歳に及ぶ国人が集会し、一国中の土民が群集して決められたという。この集会では、ほかに寺社本所領は直務として大和(やまと)以下他国の代官を入れないこと、新関をいっさいたてないことなどを掟法として定めた。さらに翌年2月には宇治平等院で再度の集会を開いて掟法の充実を図り、月行事を定めて自ら国を支配する体制を整えた。…」
かくして畠山両軍を追い出して守護不在となった山城では、住民たちによる自治が8年ほど続き、最後は政元によって制圧されてしまうのだが、これだけの期間にわたり広い地域が地域の住民の自治によって守られたことは『もういちど読む山川の日本史』にしっかり記されている。
「…守護大名家の家督争いは解決されなかったので、その後も守護大名間の争いは各地でくすぶった。
南山城(京都府)では守護大名の畠山氏が政長(まさなが)と義就(よしひろ)の2派にわかれて争っていたが、1485(文明17)年、同国の国人は宇治の平等院で集会をひらき、その決議により両軍を国外に退去させ、約8年間にわたる自治をおこなった(山城国一揆)。
諸国にはこうした国一揆や土一揆がおこり、また主君を実力でたおす家臣がつぎつぎとあらわれ、世は下剋上の風潮を強めていった。」(同上書 p.122)
この教科書では山城国一揆はしっかり書いているのだが、国人が守護大名を退去させて自治をおこなったこの一揆と、「徳政」を要求して放火や略奪を繰り返して生き延びようとした人々が起こした「土一揆」と同一視するような記述はいかがなものか。
また、歴史学者の多くがこの時代のことを「下剋上」というキーワードで説明しようとするのだが、この言葉がこの時代の本質を表現するものとして適切であるのだろうか。
応仁の乱が終わってからも冷夏や干ばつなどで飢饉は各地で何度も起こっているのだが、普通に考えれば、凶作が続いて食糧が手に入らずこのままでは自分の家族全員が飢死するしかない様な危機的状態に陥ったならば、たとえ権力者に逆らってでも、あるいは法を冒してでも、食糧を手に入れようとする人々が各階層で出現することは、いつの時代でもどこの国でも、容易に起こりうることではないのか。
「飢え」が存在したという真実に目を塞ぎ、下位の者が上位者に従わず時には争った側面だけを見てこの時代を「下剋上の時代」と呼ぶのは、おそらくマルクス主義的な「階級闘争史観」と無関係ではないのであろう。一般書の多くは今もこの史観でこの時代が叙述され、この史観に都合の良い史実ばかりを採りあげて都合の悪い史実は伏されてしまっているのが現状だ。
教科書や通史は多くの人が読むものであるからこそ、もっと史実をありのままに素直に書いて欲しいものである。
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