誰が安土城を焼失させたのか~~安土城跡と近隣散策記
近江八幡の中心地の観光を終えて安土城跡(近江八幡市安土町下豊浦)に向かう。

安土城は、織田信長が天下統一の拠点として、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据えて安土山に築城させた城である。上の画像は大阪城天守所蔵の「安土城図」で、現在は四方とも干拓されて陸地になっているが、当時は琵琶湖の内湖に囲まれていたことがわかる。
安土城の天守が完成したのは天正7年(1579)のことだが、その3年後の天正10年(1582)の6月2日に本能寺の変が起こり、織田信長は自刃したとされ、その混乱の最中の6月15日に、この城は天守などを焼失してしまったのだが、焼けた原因については諸説がある。
豊臣秀吉が祐筆の大村由己(おおむらゆうこ)に書かせた『惟任*退治記』では光秀の娘婿・明智秀満が放火したことになっているが、秀満は安土城を14日未明に撤収しており、安土城が焼けた15日には坂本城で堀秀政の軍の包囲されたのち自害しているので、安土城の焼失に関わっていることはありえない。また信長の二男の織田信勝という説もあるが、安土城を受け継ぐべき信長の息子が、放火することには違和感を覚えざるを得ない。他には、略奪目的で野盗や土民が放火したとか、落雷で焼失したという説があるが、そのような原因であるならば、何も記録に残っていないことが不自然すぎるのだ。
*惟任(これとう):明智光秀のこと

以前このブログで「本能寺の変」とその後の勢力争いについてについて5回に分けて書いたが、そこで何度か紹介させていただいた明智憲三郎氏の『本能寺の変 427年目の真実』では、安土城に火をつけさせたのはズバリ徳川家康だとしている。
明智憲三郎氏はこの著書で、家康と光秀が繋がっていたことを論証しておられ、その流れで考えると徳川家康説はなかなか説得力があるのだ。明智氏はこう解説しておられる。
「家康は10日に光秀支援に向かう出陣の命令を出し、6月14日に尾張鳴海に進出しました。そして19日まで戦闘態勢をとっていました。では光秀を支援するための軍事行動として鳴海に出陣しただけだったのでしょうか。
その時点では安土に明智秀満がいました。当然、家康は安土城の秀満とも連携をとろうとしたはずです。家康は安土城へ支援部隊を送ったと考えられます。
それを裏付けるように、奈良興福寺多聞院主の書いた『多聞院日記』の12日の記述には、『秀吉が既に摂津に到着して猛勢な上に、家康が既に安土に着陣したとのこと』と書かれています。興福寺は筒井順慶と密接な関係があり、順啓に関わる情報はかなり確度の高い情報を入手していたことで知られています。12日時点で『家康が安土に着陣』ということは、家康は10日の出陣命令と同時に安土へ支援部隊を送っていたのではないでしょうか。
14日に、山崎の合戦の敗北を知った秀満は、徳川の支援部隊に安土城を委ねて坂本城へ向かいました。そのあと安土に残った家康軍の支援部隊はどういう行動をとったでしょうか。…
三河の家康にとって安土城がどのような意味を持っていたかを考えれば答えは明白です。家康の領土近くに存在する強大な軍事拠点である安土城は、家康にとって脅威以外の何物でもなかったのです。これを信長の後継者が確保することは何としても阻止したかったはずです。何しろ家康は甲斐の織田勢と戦っている最中だったのです。
したがって家康は、支援部隊が安土城を放棄する場合には城を破壊せよ、と命じていたに違いありません。支援部隊はその命令に従い、安土城天守に火を放って撤退したのです。
この推理を裏付けるのが、そこに実行犯とされる部隊がいたことです。つまり服部半蔵たちの伊賀者です。『伊賀者由緒忸(ならびに)御陣御供書付』には、伊賀越えで家康を護衛した伊賀者たちが、15日に鳴海で揃って徳川家に侍として採用されたことが書かれています。15日といえば、まさに安土城天守炎上の当日です。
家康は身軽に動ける伊賀者を安土に送り、彼らが安土城破壊を成し遂げた褒美として、徳川家の家臣に正式に取り立てたのです。それはある種の口止め策でもあったでしょう。後には江戸城の裏門を勲功の褒賞として半蔵門と命名したのはあまりにも有名です。」(プレジデント社刊『本能寺の変 427年目の真実』p.185-187)
いつの時代もどこの国でも、権力を奪いとる戦いの中には記録が残されていない出来事が多々あるもので、このような出来事の真相究明には、確認されている事実と矛盾しない仮説を立てるしかないのだが、私は従来説よりも明智憲三郎氏の説の方に信憑性を感じている。

近江八幡の小幡駐車場から安土城跡へは6km程度で15分程度で到着する。
安土城跡には2つの駐車場があって、西側にある市営駐車場は有料(\510)で、東側の摠見寺(そうけんじ)の駐車場(☎0748-46-2142)は無料である。
国の特別史跡に指定されているとはいえ、城跡の拝観料としては700円は結構高いので、知っている人は誰でも東側の駐車場を利用する。この日の西側の駐車場はガラガラだった。

受付を過ぎると、山腹まで幅広い大手道がまっすぐに伸びている。
大手道の左側の伝羽柴秀吉邸跡があり、大手道の右側には伝前田利家邸跡がある。その上に摠見寺仮本堂がある。摠見寺は以前はもっと西側にあったのだが、安政元年(1854)に本堂などを焼失してしまい、昭和7年(1932)になって、かつて徳川家康邸があった場所に仮本堂が建てられたのだそうだ。

山腹部分に入ると、大手道はジグザグに屈曲しながら延びていて、この部分の踏石や縁石に石仏が数多く使われているのに驚いてしまった。

城の主郭部へは黒金門跡から入り、二の丸跡には信長廟があり、その東側には本丸跡がある。
上の画像は本丸跡である。『信長公記』によると、この建物には天皇を招き入れる『御幸の間』があったと記載されており、その後の調査で慶長年間に改修された京都御所内の清涼殿に酷似した構造になっていることが判明したという。

本丸跡から天守跡に繋がる階段を登っていく。

ここが天守跡だがこの場所に五層七階の天守が聳えていたのだ。
安土城の天守を訪れたイエズス会のルイス・フロイスはこのようにこの城を絶賛している。
「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモ*を越える――それを上回るものも多かった――石垣のほかに、その美しい華麗な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を拝した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上階はすべて金色となっている。この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る限りのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした形をした雄大な怪人形が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物全体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3』p.112-113)
*パルモ:掌を拡げた時の親指から小指の長さをいい、1パルモは約22cm

イエズス会のフロイスがこう書いているのだから、この時代のわが国の建築技術は世界的に見てもかなり高い水準にあったことは確実だ。しかし、ここまでフロイスから絶賛された建物は、先ほど記したとおりわずか3年で焼失してしまい、再建されることはなかったのである。

天守跡に立って琵琶湖の方面を眺めると、遠くの方にかすかに湖面が見える。冒頭に記したとおり眼前に広がる水田のかなりの部分は干拓地で、以前の安土城は琵琶湖の内湖に囲まれていた。

小中之湖地区地域用水能増進事業のホームページ『水土里ネット』に干拓前の昭和10年頃と現在の琵琶湖のわかりやすい地図が掲載されている。この地図で安土城の位置を確認すると、天守の最上階からの景色がどのようなものであったか、おおよその見当がつく。
http://shonaka.siga.jp/now_past/

天守跡を下りて、摠見寺三重塔(国重文)に向かう。

摠見寺は安土城築城時に城内に創建され、安土城炎上に際しては類焼を免れて、江戸時代末期までは織田信長の菩提をまもるという役割を担ってきた寺である。しかし先ほど述べたように、嘉永7年(1854)にこの近くにあった本堂を含む大半の伽藍が焼失し、幸運にも焼けなかった三重塔と仁王門が今も旧境内地に残されている。上の画像は『近江名所図会』に描かれた、本堂を焼失する前の摠見寺の境内である。

上の画像は摠見寺の仁王門(国重文)で、脇間の金剛二力士像も国の重要文化財に指定されている。

摠見寺の仁王門から石段を下りていくと左に折れて大手道方面に向かう道があり、まっすぐ進むと、伝羽柴秀吉邸跡に到着する。ずいぶん立派な石垣のある邸宅跡に驚いてしまった。
摠見寺の駐車場に戻って、次の訪問地である沙沙貴(ささき)神社(近江八幡市安土町常楽寺1 ☎0748-46-3564)に向かう。この神社は、近江源氏佐々木氏の氏神として尊崇されてきた『延喜式』式内社の古社である。
佐々木氏の子孫には、京極、黒田といった大名家や旧財閥の三井家や乃木希助らがいて、毎年10月の第2日曜日に行われる近江源氏祭には、全国から佐々木氏ゆかりの人々が参集し、宇多天皇*が愛護したという舞楽を奉納するのだという。
*宇多天皇:在位887~897年。近江佐々木氏は自らを宇多天皇の皇子敦実親王の子孫としている。

神社でこんなに豪壮な楼門(県指定有形文化財)はあまり見たことがないのだが、茅葺の大きな屋根が独特の雰囲気を醸し出している。提灯に描かれている四つ目結紋は佐々木氏の家紋だ。

上の画像は拝殿と本殿(いずれも県指定有形文化財)だが、火災で焼失したのち嘉永元年(1848)に再建されたものである。
沙沙貴神社のすぐ近くに、ヴォーリス建築の旧伊庭家住宅(近江八幡市安土町小中191 ☎0748-46-6324)が常時公開されているので立ち寄った。

この建物は大正2年(1913)に、旧住友財閥の総理事伊庭貞剛が発注し、その4男の伊庭慎吉の邸宅として建てられたものである。
伊庭慎吉は絵画の勉強に学生時代にフランスに留学し、明治43年(1910)に帰国後八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の美術教員となり、結婚後明治44年(1911)に沙沙貴神社の神主となって大正2年(1913)にこの邸宅が完成後に移り住んだという。その後大正10年まで同神社の神主を勤めたのち、昭和6年(1931)から昭和8年(1933)までと、昭和16年(1941)から20年(1945)までの2期にわたり安土村長となったのだが、昭和26年(1951)には京都の牛ヶ瀬にある親族の離れに移り住み、この家は人手に渡ったという。
昭和53年(1978)に土地建物が安土町の所有となり、老朽化のため建物は取り壊される予定があったのだが、後世に残すべきとの声や篤志家の寄付もあって、安土町の指定文化財第1号*として修復され保存されることになった経緯にある。
*現在は近江八幡市指定文化財
詳しい年表が次のURLに出ているが、伊庭慎吉は村長に就任する前に安土城の石段の修復や、摠見寺の仮本堂の建築に資金面で尽力*していたことが記されている。彼がそのために支援した金額は半端な数字ではなかったことは想像するに難くない。
*絵画仲間の小杉放庵の絵を伊庭慎吉が買いとって、仮本堂建築や石段の整備のための基金にしたことを、放庵の長男が記述しているという。
http://wayback.archive.org/web/20080130142708/http://www.town.azuchi.shiga.jp/edu/iba/ibatei5.html
外観は洋風の建物であるのだが、1階には和風の玄関や書院造の座敷があるのは意外であった。2階は全体的には洋風を基調としているが建具や天井などに和風を取り入れていているほか、伊庭慎吉の広いアトリエがあり、窓からは安土城跡と摠見寺のある安土山を望むことが出来る。慎吉は部屋からこの山を眺めながら、安土城の修復や摠見寺の再建に思いを馳せていたことだろう。

ボランティアの方の説明を聞いた後、1階の食堂の椅子に腰を掛けて冷たいお茶をいただくことができた。レトロな雰囲気の中でゆったりとした時間が流れ、寛ぐことが出来てとても良かった。
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最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓




【ご参考】安土城が焼失する前に本当は何があったのか。興味のある方は覗いてみてください。
本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.html
本能寺の変で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html
明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変③.
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html
家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html
秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変⑤
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html

安土城は、織田信長が天下統一の拠点として、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据えて安土山に築城させた城である。上の画像は大阪城天守所蔵の「安土城図」で、現在は四方とも干拓されて陸地になっているが、当時は琵琶湖の内湖に囲まれていたことがわかる。
安土城の天守が完成したのは天正7年(1579)のことだが、その3年後の天正10年(1582)の6月2日に本能寺の変が起こり、織田信長は自刃したとされ、その混乱の最中の6月15日に、この城は天守などを焼失してしまったのだが、焼けた原因については諸説がある。
豊臣秀吉が祐筆の大村由己(おおむらゆうこ)に書かせた『惟任*退治記』では光秀の娘婿・明智秀満が放火したことになっているが、秀満は安土城を14日未明に撤収しており、安土城が焼けた15日には坂本城で堀秀政の軍の包囲されたのち自害しているので、安土城の焼失に関わっていることはありえない。また信長の二男の織田信勝という説もあるが、安土城を受け継ぐべき信長の息子が、放火することには違和感を覚えざるを得ない。他には、略奪目的で野盗や土民が放火したとか、落雷で焼失したという説があるが、そのような原因であるならば、何も記録に残っていないことが不自然すぎるのだ。
*惟任(これとう):明智光秀のこと

以前このブログで「本能寺の変」とその後の勢力争いについてについて5回に分けて書いたが、そこで何度か紹介させていただいた明智憲三郎氏の『本能寺の変 427年目の真実』では、安土城に火をつけさせたのはズバリ徳川家康だとしている。
明智憲三郎氏はこの著書で、家康と光秀が繋がっていたことを論証しておられ、その流れで考えると徳川家康説はなかなか説得力があるのだ。明智氏はこう解説しておられる。
「家康は10日に光秀支援に向かう出陣の命令を出し、6月14日に尾張鳴海に進出しました。そして19日まで戦闘態勢をとっていました。では光秀を支援するための軍事行動として鳴海に出陣しただけだったのでしょうか。
その時点では安土に明智秀満がいました。当然、家康は安土城の秀満とも連携をとろうとしたはずです。家康は安土城へ支援部隊を送ったと考えられます。
それを裏付けるように、奈良興福寺多聞院主の書いた『多聞院日記』の12日の記述には、『秀吉が既に摂津に到着して猛勢な上に、家康が既に安土に着陣したとのこと』と書かれています。興福寺は筒井順慶と密接な関係があり、順啓に関わる情報はかなり確度の高い情報を入手していたことで知られています。12日時点で『家康が安土に着陣』ということは、家康は10日の出陣命令と同時に安土へ支援部隊を送っていたのではないでしょうか。
14日に、山崎の合戦の敗北を知った秀満は、徳川の支援部隊に安土城を委ねて坂本城へ向かいました。そのあと安土に残った家康軍の支援部隊はどういう行動をとったでしょうか。…
三河の家康にとって安土城がどのような意味を持っていたかを考えれば答えは明白です。家康の領土近くに存在する強大な軍事拠点である安土城は、家康にとって脅威以外の何物でもなかったのです。これを信長の後継者が確保することは何としても阻止したかったはずです。何しろ家康は甲斐の織田勢と戦っている最中だったのです。
したがって家康は、支援部隊が安土城を放棄する場合には城を破壊せよ、と命じていたに違いありません。支援部隊はその命令に従い、安土城天守に火を放って撤退したのです。
この推理を裏付けるのが、そこに実行犯とされる部隊がいたことです。つまり服部半蔵たちの伊賀者です。『伊賀者由緒忸(ならびに)御陣御供書付』には、伊賀越えで家康を護衛した伊賀者たちが、15日に鳴海で揃って徳川家に侍として採用されたことが書かれています。15日といえば、まさに安土城天守炎上の当日です。
家康は身軽に動ける伊賀者を安土に送り、彼らが安土城破壊を成し遂げた褒美として、徳川家の家臣に正式に取り立てたのです。それはある種の口止め策でもあったでしょう。後には江戸城の裏門を勲功の褒賞として半蔵門と命名したのはあまりにも有名です。」(プレジデント社刊『本能寺の変 427年目の真実』p.185-187)
いつの時代もどこの国でも、権力を奪いとる戦いの中には記録が残されていない出来事が多々あるもので、このような出来事の真相究明には、確認されている事実と矛盾しない仮説を立てるしかないのだが、私は従来説よりも明智憲三郎氏の説の方に信憑性を感じている。

近江八幡の小幡駐車場から安土城跡へは6km程度で15分程度で到着する。
安土城跡には2つの駐車場があって、西側にある市営駐車場は有料(\510)で、東側の摠見寺(そうけんじ)の駐車場(☎0748-46-2142)は無料である。
国の特別史跡に指定されているとはいえ、城跡の拝観料としては700円は結構高いので、知っている人は誰でも東側の駐車場を利用する。この日の西側の駐車場はガラガラだった。

受付を過ぎると、山腹まで幅広い大手道がまっすぐに伸びている。
大手道の左側の伝羽柴秀吉邸跡があり、大手道の右側には伝前田利家邸跡がある。その上に摠見寺仮本堂がある。摠見寺は以前はもっと西側にあったのだが、安政元年(1854)に本堂などを焼失してしまい、昭和7年(1932)になって、かつて徳川家康邸があった場所に仮本堂が建てられたのだそうだ。

山腹部分に入ると、大手道はジグザグに屈曲しながら延びていて、この部分の踏石や縁石に石仏が数多く使われているのに驚いてしまった。

城の主郭部へは黒金門跡から入り、二の丸跡には信長廟があり、その東側には本丸跡がある。
上の画像は本丸跡である。『信長公記』によると、この建物には天皇を招き入れる『御幸の間』があったと記載されており、その後の調査で慶長年間に改修された京都御所内の清涼殿に酷似した構造になっていることが判明したという。

本丸跡から天守跡に繋がる階段を登っていく。

ここが天守跡だがこの場所に五層七階の天守が聳えていたのだ。
安土城の天守を訪れたイエズス会のルイス・フロイスはこのようにこの城を絶賛している。
「信長は、中央の山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それはヨーロッパのもっとも壮大な城に比肩しうるものである。事実、それらはきわめて堅固でよくできた高さ60パルモ*を越える――それを上回るものも多かった――石垣のほかに、その美しい華麗な邸宅を内部に有していた。それらにはいずれも金が施されており、人力をもってしてはこれ以上到達し得ないほど清潔で見事な出来栄えを示していた。そして(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。外部では、これら(七層)の層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を拝した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上階はすべて金色となっている。この天守は、他のすべての邸宅と同様に、我らがヨーロッパで知る限りのもっとも堅牢で華美な瓦で掩われている。それらは青色のように見え、前列の瓦にはことごとく金色の丸い取り付け頭がある。屋根にはしごく気品のある技巧を凝らした形をした雄大な怪人形が置かれている。このようにそれら全体が堂々たる豪華で完璧な建造物となっているのである。これらの建物は、相当な高台にあったが、建物全体の高さのゆえに、雲を突くかのように何里も離れたところから望見できた。それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである。」(中公文庫『完訳フロイス日本史3』p.112-113)
*パルモ:掌を拡げた時の親指から小指の長さをいい、1パルモは約22cm

イエズス会のフロイスがこう書いているのだから、この時代のわが国の建築技術は世界的に見てもかなり高い水準にあったことは確実だ。しかし、ここまでフロイスから絶賛された建物は、先ほど記したとおりわずか3年で焼失してしまい、再建されることはなかったのである。

天守跡に立って琵琶湖の方面を眺めると、遠くの方にかすかに湖面が見える。冒頭に記したとおり眼前に広がる水田のかなりの部分は干拓地で、以前の安土城は琵琶湖の内湖に囲まれていた。

小中之湖地区地域用水能増進事業のホームページ『水土里ネット』に干拓前の昭和10年頃と現在の琵琶湖のわかりやすい地図が掲載されている。この地図で安土城の位置を確認すると、天守の最上階からの景色がどのようなものであったか、おおよその見当がつく。
http://shonaka.siga.jp/now_past/

天守跡を下りて、摠見寺三重塔(国重文)に向かう。

摠見寺は安土城築城時に城内に創建され、安土城炎上に際しては類焼を免れて、江戸時代末期までは織田信長の菩提をまもるという役割を担ってきた寺である。しかし先ほど述べたように、嘉永7年(1854)にこの近くにあった本堂を含む大半の伽藍が焼失し、幸運にも焼けなかった三重塔と仁王門が今も旧境内地に残されている。上の画像は『近江名所図会』に描かれた、本堂を焼失する前の摠見寺の境内である。

上の画像は摠見寺の仁王門(国重文)で、脇間の金剛二力士像も国の重要文化財に指定されている。

摠見寺の仁王門から石段を下りていくと左に折れて大手道方面に向かう道があり、まっすぐ進むと、伝羽柴秀吉邸跡に到着する。ずいぶん立派な石垣のある邸宅跡に驚いてしまった。
摠見寺の駐車場に戻って、次の訪問地である沙沙貴(ささき)神社(近江八幡市安土町常楽寺1 ☎0748-46-3564)に向かう。この神社は、近江源氏佐々木氏の氏神として尊崇されてきた『延喜式』式内社の古社である。
佐々木氏の子孫には、京極、黒田といった大名家や旧財閥の三井家や乃木希助らがいて、毎年10月の第2日曜日に行われる近江源氏祭には、全国から佐々木氏ゆかりの人々が参集し、宇多天皇*が愛護したという舞楽を奉納するのだという。
*宇多天皇:在位887~897年。近江佐々木氏は自らを宇多天皇の皇子敦実親王の子孫としている。

神社でこんなに豪壮な楼門(県指定有形文化財)はあまり見たことがないのだが、茅葺の大きな屋根が独特の雰囲気を醸し出している。提灯に描かれている四つ目結紋は佐々木氏の家紋だ。

上の画像は拝殿と本殿(いずれも県指定有形文化財)だが、火災で焼失したのち嘉永元年(1848)に再建されたものである。
沙沙貴神社のすぐ近くに、ヴォーリス建築の旧伊庭家住宅(近江八幡市安土町小中191 ☎0748-46-6324)が常時公開されているので立ち寄った。

この建物は大正2年(1913)に、旧住友財閥の総理事伊庭貞剛が発注し、その4男の伊庭慎吉の邸宅として建てられたものである。
伊庭慎吉は絵画の勉強に学生時代にフランスに留学し、明治43年(1910)に帰国後八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の美術教員となり、結婚後明治44年(1911)に沙沙貴神社の神主となって大正2年(1913)にこの邸宅が完成後に移り住んだという。その後大正10年まで同神社の神主を勤めたのち、昭和6年(1931)から昭和8年(1933)までと、昭和16年(1941)から20年(1945)までの2期にわたり安土村長となったのだが、昭和26年(1951)には京都の牛ヶ瀬にある親族の離れに移り住み、この家は人手に渡ったという。
昭和53年(1978)に土地建物が安土町の所有となり、老朽化のため建物は取り壊される予定があったのだが、後世に残すべきとの声や篤志家の寄付もあって、安土町の指定文化財第1号*として修復され保存されることになった経緯にある。
*現在は近江八幡市指定文化財
詳しい年表が次のURLに出ているが、伊庭慎吉は村長に就任する前に安土城の石段の修復や、摠見寺の仮本堂の建築に資金面で尽力*していたことが記されている。彼がそのために支援した金額は半端な数字ではなかったことは想像するに難くない。
*絵画仲間の小杉放庵の絵を伊庭慎吉が買いとって、仮本堂建築や石段の整備のための基金にしたことを、放庵の長男が記述しているという。
http://wayback.archive.org/web/20080130142708/http://www.town.azuchi.shiga.jp/edu/iba/ibatei5.html
外観は洋風の建物であるのだが、1階には和風の玄関や書院造の座敷があるのは意外であった。2階は全体的には洋風を基調としているが建具や天井などに和風を取り入れていているほか、伊庭慎吉の広いアトリエがあり、窓からは安土城跡と摠見寺のある安土山を望むことが出来る。慎吉は部屋からこの山を眺めながら、安土城の修復や摠見寺の再建に思いを馳せていたことだろう。

ボランティアの方の説明を聞いた後、1階の食堂の椅子に腰を掛けて冷たいお茶をいただくことができた。レトロな雰囲気の中でゆったりとした時間が流れ、寛ぐことが出来てとても良かった。
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【ご参考】安土城が焼失する前に本当は何があったのか。興味のある方は覗いてみてください。
本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-97.html
本能寺の変で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変②
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-98.html
明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変③.
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-99.html
家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変④
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-100.html
秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変⑤
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-101.html
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湖東三山・西明寺から多賀大社、国友鉄砲の里を訪ね、長浜の茅葺の宿に泊まる 2015/04/13
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「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて 2015/04/18
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国宝・新羅善神堂近辺の散策の後、大津市歴史博物館で比叡山ゆかりの古仏を楽しむ 2015/10/30
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三井寺の国宝・重要文化財観賞の後、非公開の寺・安養寺を訪ねて 2015/11/06
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近江八幡の歴史と文化を楽しんで 2016/09/14
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誰が安土城を焼失させたのか~~安土城跡と近隣散策記 2016/09/20
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白壁と蔵に囲まれた五箇荘の近江商人屋敷めぐり 2016/09/26
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藤の咲く季節に、日野町の歴史と文化を楽しんで 2017/05/19
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蒲生氏郷が生んだ日野商人の豊かさ 2017/05/26
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滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他 2018/04/19
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現存する唯一の忍術屋敷を訪ねて~~甲賀歴史散策その1 2018/10/18
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甲賀の総社・油日神社、平安仏の宝庫・櫟野寺などを訪ねて~~甲賀歴史散策その2 2018/10/25
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