白壁と蔵に囲まれた五箇荘の近江商人屋敷めぐり
Wikipediaに近江商人の流れを汲んでいる主な企業名が出ている。
【流通業】
大丸、高島屋、白木屋、藤崎、山形屋、西武グループ、セゾングループ
【商社】
伊藤忠商事、住友財閥、双日、トーメン、兼松、ヤンマー
【繊維関係】
日清紡、東洋紡、ワコール、西川産業
【その他】
トヨタ自動車、日本生命保険、武田薬品工業、ニチレイ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%95%86%E4%BA%BA
わが国を代表するような有名企業が多いのに驚いたのだが、ネットで調べるとほかにも数多くの上場会社がヒットする。
ではなぜこの地域に商業が栄え近江商人が勇躍するようになったのか。東近江市にある近江商人博物館の林氏によると、きっかけは織田信長だという。

2014年8月22日の日経記事にこう解説されている。
「 信長は自らが支配下に置いた中部から近畿にかけて関所を撤廃し、人と物資の往来を自由化。水運の大動脈、琵琶湖を擁する近江では、商売にまつわる旧来の制約を取り払って楽市・楽座を敷いた。『そのおかげで商才にたけた人材が育った』(林さん)
江戸期に入っても、近江は江戸と京都、大坂を結ぶ交通の要衝だった。林さんは『近江商人の強みは、江戸や京都、大坂など各地の情勢をいち早く知る情報収集機能を持っていたこと。現在の商社のような存在だった』と話す。
近江商人が商売の心得としたのが『三方良し』、すなわち『売り手良し、買い手良し、世間良し』の精神だった。特に『世間良し』とは、質素倹約や地域社会への還元を重んじる考えだという。」
http://www.nikkei.com/article/DGXLASHC14H0F_V10C14A8AA1P00/
『三方良し』は、近江商人が到達した商いの精神を端的に表す言葉として良く引用される言葉で、その意味するところは「商いというものは売り手も買い手も適正な利益を得て満足する取引であるべきであって、その取引が地域社会全体の幸福につながるものでなければならない」といった共存共栄の精神である。
しかるに戦後のわが国の大企業の経営は、いつしか『三方良し』の精神を忘れ、優越的地位を濫用して自社の利益ばかりを追求する企業が出てきて数々の問題を起こしてきたのだが、その反省から昨今ではようやく『企業の社会的責任』が重視されるようになってきている。
近江商人は古くから、収益至上主義を戒め経済合理主義だけで会社を経営することは誤りであることを認識していたのだが、今の大企業の経営者で、近江商人の『世間よし』の考え方を実践している人がどれだけいるのだろうか。
前々回の記事で近江商人の町である近江八幡の古い街並みを紹介したが、ほかにも多くの近江商人を輩出した地域がある。
東近江市五箇荘金堂地区もその一つで、この地域は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、その町並みが観たくて今回の旅行の2日目に組んでいた。
町並みを観る前に近江商人博物館(東近江市五箇荘竜田町583 ☎0748-48-7101)に行く。
3階が近江商人博物館で映像やジオラマで近江商人を育んだ地域の歴史や文化、近江商人の暮らしや教育などの展示がわかりやすく説明されている。体験コーナーではてんびん棒などを実際に肩に担いでみることが出来たが、結構重かった。
建物の2階は東近江市名誉市民の日本画家で文化功労者の中路融人の作品が展示されている記念館になっており、結構楽しむことが出来る。
博物館に車を置いたまま五箇荘金堂地区の重要伝統的建造物群保存地区に向かう。

最初に浄土真宗の弘誓寺(ぐぜいじ)に立ち寄る。
この寺の記録では正応3年(1290)の創建で、開基は本願寺第3世・覚如(かくにょ)上人の高弟・愚咄(ぐとつ)坊とされ、初めは犬上郡石畠(現豊郷町石畑)にあったが、慶長の頃にこの地に移ったと伝えられている。一説では愚咄は、平家物語巻十一で弓矢で扇の的を落とした人物として描かれている那須与一の嫡孫と言われていて、表門の瓦をよく見ると扇がデザインされている。

本堂(国重文)は入母屋造・本瓦葺の立派なものでは寛政8年(1796)頃に完成したと推定されている。

鯉の泳ぐ通り沿いに北東に進むと、近江商人屋敷の外村繁邸がある。近くに外村宇兵衛邸・中江準五郎邸があるので、3館セットの入館券を購入する。

外村繁邸は明治28年(1895)に、4代外村宇兵衛の分家として始まり、東京日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を営んだ家なのだが、この家に生まれ育った外村繁は大学卒業後父親が急逝したため家業を継ぐが、やがて弟に家業をゆずり小説家として再出発し『草筏』(第5回池谷信三郎賞)『筏』(第9回野間文芸賞)、『澪標』(読売文学賞)がその代表作だ。邸内には外村繁の作品原稿などの展示がある。

この家の庭は幕末から明治前期に活躍した勝元鈍穴が作庭したものだそうだが、よく整備されていて、今もなかなか趣がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%85%83%E9%88%8D%E7%A9%B4

昔は私の実家にも大きな竈があり「おくどさん」と呼んでいた。「おくどさん」のある空間を見るとなぜか心が落ち着く。

花筏通りをはさんで向かい側には外村宇兵衛邸がある。この建物は万延元年(1860)に建てられたものだという。
宇兵衛家は呉服類の販売を中心に商圏を広げ、明治時代には全国長者番付に名を連ねて近江を代表する豪商としての地位を築き、2723㎡という広大な敷地に主屋・書院・大蔵・米蔵など十数棟が立ち並んでいたそうだが、建物や庭が半分程度取り壊されてしまったことは残念なことである。

五箇荘町が主屋や庭の改修をしたのだそうだが、ただ樹木を植えればよいものでもなかろう。

中に入ると、五箇荘在住の人形師である東之湖(とうこ)さんの作品が展示されていた。
いずれの人形もとても愛らしく、じっと見ていると語りかけてきてくれそうなリアリティがある。
東之湖さんの高校時代はラグビーで国体に出場し活躍した選手だったのだそうだが、高校卒業後家業の人形屋の手伝いを始めて数年後に、顔の皮膚が壊死する難病(膠原病)を患い、入退院を繰り返す生活が彼の人生観を変えた。毎日新聞の今年3月19日の記事によると、彼はこの闘病生活によって「一生懸命生きることの大切さ、人の優しさのありがたみを知りました。人にとって最も大切なのは愛。『人の形』とは『愛の形』だと思うようになりました。」という。
http://mainichi.jp/articles/20160319/ddl/k25/040/614000c
そして平成23年(2011)に東日本大震災が起き、被災された地域の人々の苦しみが今までの自分の境遇と重なり、何か自分に出来ることはないかと考えて、毎年一対のひな人形を製作して被災地に贈っておられるのだそうだが、実にすばらしい心がけだと思う。

外村宇兵衛邸から北西に向かう。上の画像は花筏通り街並みを写したものだが、左手は中江準五郎邸だ。
あきんど通り沿いに昭和8年に建てられた中江準五郎邸の入口がある。

中江家は近世に呉服小間物商を営み、明治時代に近江商人の家に奉公していたというが、その後明治38年(1905)に三中井呉服店を発足させ、昭和9年(1934)には三中井百貨店と改称。戦前には朝鮮半島・中国大陸に20余店舗を擁する大百貨店として隆盛を誇ったのだが、昭和20年(1945)の敗戦により対外資産の全てを失ってしまった。

中江家の中には、五箇荘が生んだ郷土玩具である小幡(おばた)人形と全国の土人形が多数展示されている。小幡人形は享保年間(1716~36)に初代細居安兵衛が作りはじめ、いまも伝統の技法が当地で受け継がれているのだという。
http://www.ayaha.co.jp/spe-b23.htm

中井家の庭は外村繁邸と同様に勝元鈍穴の作庭によるもので、よく手入れされていてなかなかいい雰囲気だ。
近江商人博物館の駐車場に戻り、藤井彦四郎邸(東近江市宮庄町681 ☎0748-48-2602)に車で向かう。ここには20台程度駐車できるスペースがある。

藤井彦四郎は明治40年(1907)に藤井糸店を創業。日本で最初にレーヨンを輸入し、手編み毛糸「スキー毛糸」の製造販売を手掛けて一代で財を成した人物である。上の画像は玄関である。
中に入るとすぐに総ヒノキ造りの客殿に案内される。
この客殿は昭和8~9年(1933~34)に京都から宮大工を呼び寄せて建築された建物で、釘は1本も使われておらず、どの部屋も細部にいたるまで手を抜かずに造りこまれているのに驚く。この建物と洋室が滋賀県の有形文化財に指定されている。

客間は3つあり、最初の客間には三代の総理大臣の直筆の書が飾られている。上の画像の左から鈴木貫太郎、平沼騏一郎、田中義一が揮毫したものである。

上の画像は客間からみた藤井邸の庭だが、琵琶湖を模した池を中心に作庭された雄大なもので、個人の邸宅でこれほど広くて美しい庭は少ないと思う。この庭は東近江市の名勝に指定されている。
上の画像は東側にある客間で、この部屋で賀陽宮恒憲王や徳富蘇峰らが接待されたという。

この家の敷地面積は8155㎡にもおよび、外村宇兵衛邸のほぼ3倍の広さがある。庭を歩いていると、どこかの有名なお寺の庭を散策しているような気分になる。

客間から「山小屋」とも呼ばれている洋間に入ると、まるで一流ホテルのロビーのように重厚感がある。調度品のそれぞれが素晴らしいものばかりで、ピアノは大正時代の最高級の国産ピアノだという。
この素晴らしい場所で、毎年数回ピアノとフルートによるコンサートが行われるのだそうだが、一度生演奏をここで聴きたいものである。ネットで探すと2014年の6月に行われたコンサートがYouTubeで紹介されている。

この藤井彦四郎邸は、昨年封切された『日本の一番長い日』のロケで、役所広司扮する陸軍大臣・阿南惟幾宅として用いられ、この部屋もロケで用いられたことが、映画の公式サイトの次のURLで確認できる。
http://nihon-ichi.jp/about/location.html
主屋には近江商人の帳場が再現され、台所用品や食器など生活資料の外に、この屋敷を訪れた皇室からの下賜品など展示品も随分見ごたえがあった。
五箇荘金堂地区から離れているために訪れる観光客は少ないようだが、読者の皆さんが五箇荘近辺に来られた際には、この藤井彦四郎邸にも立ち寄ることをお勧めしておきたい。
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【ご参考】古い街並みを歩くことが好きな方に、こんな記事はいかがですか。
五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html
鞆の浦周辺の古い街並みを楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-96.html
白骨温泉から奈良井宿、阿寺渓谷を散策のあと苗木城址を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-165.html
郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-334.html
京都伏見歴史散歩~~御香宮から大倉記念館
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-37.html
又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-443.html
また弓の名人・那須与一は平家滅亡後に頼朝と不和になり、浄土宗を開いた法然に弟子入りしたようです。よかったら覗いてみてください。
武士であることを捨てた弓の名人、那須与一
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-62.html
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