紅葉を訪ねて播州清水寺から生野銀山へ

最初に訪れたのは兵庫県加東市にある西国三十三所巡礼観音霊場第二十五番札所の清水寺(0795-45-0025)。上の画像はその仁王門である。
この寺の建物は大正2年(1913)の山火事で全焼し、現在の建物はすべてその後に再建されたものなのだが、寺の歴史はかなり古く、寺伝によると景行天皇のころに法道仙人が創建し、推古天皇35年(627)に推古天皇の勅願で根本中堂を建立し、さらに神亀2年(725)聖武天皇が行基に命じて講堂を建立したと伝えられている。

文化元年(1804)に出版された『播磨名所巡覧図会』の第2巻に、焼失するかなり前のこの寺の境内が描かれていて、国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも見ることができる。これを見ると以前は多宝塔や阿弥陀堂などもっと多くの建物があったことがわかる。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563455/52

最初に昭和59年(1984)に再建された薬師堂に入る。
この建物の中に奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」の作者として知られる薮内佐斗司氏制作の十二神将が安置されている。あまり武将らしくなく、どこか愛らしいところが良い。

大正6~9年(1917~20)に再建された根本中堂、大講堂、本坊、客殿は京都大学武田五一博士の設計によるもので、いずれも国の登録文化財に指定されている。

上の画像は大講堂だが、100年前にはこのような立派な建物を設計し、後世に文化財に指定されるような価値ある建物を建てるだけの技術の伝承と人材が残されていたのだが、今は大丈夫なのだろうか。

大講堂は西国二十五番の札堂で、聖武天皇の勅願所なのだそうだ。この大講堂の西側の紅葉が実に素晴らしい。

紅葉を楽しみながら大講堂から石段を下りて本坊に向かう。ここに清水寺の寺務所がある。

上の画像は本坊付近から大講堂を写したものだが、かなり落葉していても充分に楽しめる。この寺の紅葉は上から眺めても、下から見上げても美しい。

階段を上って再び大講堂の前に出て、さらに上にある根本中堂に向かう。ここは推古天皇の勅願所で、開山の法道仙人が彫ったと言われる十一面観音像(加東市指定文化財)が本尊として安置されている。本尊は秘仏なので観賞することはできなかったが、30年に一度の御開帳が、いよいよ来年(平成29年)なのだそうだ。寺のHPで来年の11月1日より1か月間特別拝観が出来ることが公開されている。
http://kiyomizudera.net/gokaityou.html
この根本中堂よりさらに奥に以前は多宝塔があったのだが、大正2年(1913)の山火事で他の堂宇とともに焼失したのち、大正12年(1923)に再建されたのだそうだが、昭和40年(1965)の台風で大破してしまい取り壊されてしまった。寺のホームページでは「現在再建予定」とだけ記されている。

minagaさんの『がらくた置場』に多宝塔が現存していた時代の写真が数枚紹介されているが、上の画像は根本中堂から撮影したものである。かなり大きな多宝塔であり、再建するとなると巨額な建築資金が必要となるが、いつしか再建される日が来ることを祈りたい。
次の目的地はドライブの休憩もかねて道の駅「杉原紙の里・多可」(0795-36-1919)に向かい、地元の農産物や菓子などを購入後近くにある和紙博物館に入る。

今でこそ紙は安価で容易に手に入るが、昔は1枚1枚手で漉いて生産されるものであり、かなり高価なものであった。
ここ杉原谷で紙を漉き始めたのは7世紀の後半と推定されていて、当時の播磨国は、出雲・美作・美濃・越前・尾張などと並ぶ製紙の先進国とされ、特に播磨の紙は需要が高く珍重されたことが次のURLで詳述されている。
http://www.town.taka.lg.jp/sugiharagami/rekishi2.html
平安時代中期から室町時代末期までは、藤原摂関家荘園の「椙原庄(すぎはらのしょう)」があったことから、この地で生産される紙は「椙原(すぎはら)紙」と呼ばれ、写経などに用いられる高級紙として贈答品や献上品として用いられたほか、鎌倉時代には幕府の公用紙として用いられていた。江戸時代には300軒も余りの製糸業者がこの地域に存在していたそうなのだが、機械漉きの西洋紙が急速に普及したため、大正期にはこの地で紙漉きが行なわれなくなってしまったという。
しかしながら杉原紙研究のためにこの地を訪れた寿岳文章氏、新村出氏がこの地を訪れたことをきっかけにして、半世紀ぶりに再び紙漉きが行なわれるようになり、今では県の重要文化財、伝統工芸品に指定されている。

道の駅の向いに青玉神社という古い神社があり、その境内にある杉の巨木のうち7本が兵庫県の指定文化財になっているので立ち寄ってみた。

この神社の杉の樹は、高いもので50~60mあり樹齢は一番古いもので約1000年というのだが、このような巨木が林立している場所はそう多くはないだろう。

こういう巨木は何世代にもわたり神聖なものとして大切にされなければ残りえないことは言うまでもない。見ているだけで不思議なパワーを授かったような気になる見ごたえのある大樹なので、この近くに来られた時に立ち寄られることをお勧めしたい。鳥居の近くの紅葉もまた良かった。

上の画像は昼食をとった大名草庵(おなざあん: 0795-87-5205)。道の駅から8km程度走れば到着する。
茅葺の家で石臼挽き・手打ちの美味しい十割蕎麦がいただけるお店で、テレビでも紹介されたことがある人気店舗なので、平日でも早目の予約が必要だ。
http://blog.livedoor.jp/onazaan_sobadokoro/archives/51103974.html

大名草庵から次の目的地の大明寺(079-679-2640)に向かう。
大明寺は南北朝時代に、美濃の僧・月菴宗光(げつあんそうこう)が開山となって創建されたと伝えられ、室町時代には但馬の守護山名氏の援助を受け、江戸時代には幕府から朱印状を受け、多くの末寺を有した寺だという。

この寺の方丈と庫裏と開山堂が朝来市の有形文化財に指定されているのだが、茅葺の開山堂の屋根は相当傷んでいた。山深い里で施設を維持することは大変だと思うが、こんな状態だと雨漏りがして柱や仏像が腐食しないかと心配になってくる。

大明寺から銀山湖に向かう。銀山湖は黒川渓谷をせき止めた人造湖で、所々紅葉が美しい場所があり、車を停めて撮ったのが上の画像。他にも綺麗な場所がいくつかあったが、駐車スペースが無くて通り過ぎてしまった。
銀山湖から山道を下って次の目的地である史跡生野銀山(079-679-2010)に到着。

生野銀山は石見銀山(島根県)とともに、戦国時代以降のわが国を代表する銀山で、江戸時代元禄期に書かれた『銀山旧記』という書物に、「但州生野銀山は、天文十一年(1542)壬寅(みずのえとら)二月上旬に城山の南表に銀石初めて掘り出し、蛇間歩(じゃまぶ)と号す」と記されている。
但馬守護の山名祐豊(すけとよ)が、古城山南麓に城を築いて銀山を守ったが、その後竹田城主の太田垣氏が支配するようになり、播磨の赤松氏との対立が続いたという。
そして天正5年(1577)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が但馬に兵を進め、まず生野銀山を没収し竹田城を攻略し、続いて山名氏の本拠出石城を攻めて勝利し、これを機に生野銀山は織田氏の管掌下となったが、本能寺の変の後は豊臣氏の直轄地とされている。銀の採掘は活発に行われ、慶長二年(1597)の記録によると、生野の運上銀は全国の78%にも及んだという。

江戸時代には生野奉行所が銀山と南但馬の天領を支配し、明治維新後は日本初の官営鉱山とされ、フランス人技師ジャン・フランソワ・コアニエを鉱山師兼鉱学教師として招き、近代化を推進。明治22年(1889)に皇室財産とされた後、明治29年(1896)に三菱合資会社に払い下げられ、以後国内有数の大鉱山として稼働してきたが、昭和48年(1973)に閉山している。その間に掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mに及ぶという。
生野銀山のホームページによると坑道の総延長距離は、新大阪から静岡駅までの距離に相当するとあるのだが、それだけ多くの銀の鉱脈があったということだろう。
坑道の中を見学できるので入ったが、観光客用の坑道だけでも出口まで1kmもある。
江戸時代の坑道は人がやっと通れる程度の大きさしかなく、こんな狭い場所でノミを使って採掘していたことには驚きを禁じ得なかった。

生野銀山からさらに3kmほど西に行くと、旧生野鉱山職員宿舎(079-670-5005)がある。
官営生野鉱山時代の建物が4棟を修復し残されていて、朝来市の重要文化財に指定されている。
昭和の日本映画の名優・志村喬さんはこの宿舎の1棟に生まれて育ったのだが、残念ながらその家は残されておらず、庭にあった松の木だけが残されている。そして現存の建物のうち1棟(甲7号)を「志村喬記念館」として、彼が生野に住んでいた頃の写真や俳優時代の資料などが展示されている。

志村喬さんは本名を島崎捷爾といい、島崎家は代々土佐藩に仕える士族であった家柄で、捷爾の祖父は土佐藩主・山内容堂の小姓から250石取りの祐筆にあがり、鳥羽伏見の戦いには隊長として参戦した経歴を持つ武士だったそうだ。しかしながら、明治維新後に士族は冷遇されることとなり、祖父は財産を失ってしまうことになる。
捷爾の父親は苦労して夜間の工手学校を卒業して冶金技師となり、明治から大正時代にこの生野銀山に勤務していて、この北隣の官舎(甲11号)に住んでいたという。その家で彼は生まれ、多感な時期を過ごしたのである。
捷爾少年の父親は生野銀山の上級職で収入も多く、女中さんも雇う裕福な暮らしをしていたようだが、生野尋常小学校を卒業すると、親元を離れて兄の通っている神戸第一中学校に入学することとなる。しかし2年の時に体調を崩して休学し、その後父が宮崎に転勤して捷爾少年は宮崎県立延岡中学校に転校することとなったのだが、そこでも家族と一緒に暮らしてはおらず、3年の時に亡くなった母の死に目には会えなかったという。

【『七人の侍』の志村喬】
中学卒業後の大正12年(1923)に関西大学予科に入学するが、まもなく父が退職したことから学資の援助が得られなくなり、夜間の専門部英文科に転じて大阪市水道局の臨時職員として生計を立てようとしたが、次第に芝居に熱中するようになり、仕事も欠勤が続いてクビになり大学も中退して劇団に飛び込んだのだがうまくいかず、昭和9年(1934)に映画俳優に転向することを決意し新興キネマ京都撮影所に入社し『赤西蠣太』などに出演。昭和12年(1937)に日活京都撮影所に移籍以降から芸達者な時代劇の脇役として認められ、昭和18年(1943)の東宝入社後黒沢明監督との出会いがあり、『姿三四郎』『醉いどれ天使』『羅生門』『生きる』『七人の侍』などに出演し、その演技力が高く評価された。

志村さんが生涯で出演した映画は443本にもなるのだそうだが、二枚目でもなく三枚目でもない、朴訥だが人間味があり風格もある志村さんのような俳優が、若い世代から出てきてほしいものである。
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