江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐

第二次パーマストン内閣(1859~1865)においても武力にモノを言わせる外交姿勢は変わらなかった。鈴木荘一氏の『開国の真実』にはこう記されている。
「第二次パーマストン内閣は万延元年(1860)には清国に2万人の大軍を送って、天津を奪い、北京西郊の離宮円明園に入り略奪の限りを尽くして火を放って焦土とし、北京条約を結んで香港対岸の九龍の割譲と賠償金8百万両を召し上げ、清国を完全に屈服させた。
第二次パーマストン内閣の対日政策は、当初は駐日公使オールコックの進言によりロンドン覚書を調印するなど柔軟に対応したものの、生麦事件が起きると本来の武断的性格を剥き出しにし、文久3年(1863)には薩英戦争を、元治元年(1864)には四国連合艦隊による下関攻撃を行ない賠償金3百万ドルを幕府に請求した。」(『開国の真実』p.269)
と、相変わらずひどいものである。
鈴木氏によるとイギリスの伝統的植民地政策は、「相手側の民族対立・宗教対立等の国内的軋轢に乗じて、その一方を支援して分割統治を行ない、植民地として支配する」というもので、国内に内紛があれば、イギリスは反政府勢力を支援して政権転覆後に親英政権をつくってイギリスの影響力を再度強めようとしたという。そしてイギリスはわが国においても同様のことを行なおうとしたことは間違いないだろう。

薩長同盟が成立した3カ月後の慶応2年(1866)4月、横浜で発行されている英字新聞ジャパンタイムズ紙に、イギリス公使館の通訳官であるアーネスト・サトウが『英国策論』を発表した。しばらく鈴木氏の解説を引用する。
「アーネスト・サトウは有能な通訳官で日本語に堪能で独自の情報を入手できたから、イギリス公使パークスの判断は、アーネスト・サトウの意見に大きく依存するようになった。こうしてアーネスト・サトウは、イギリス公使パークスの片腕とも、助言者とも言うべき立場になった。その後、イギリス公使館の対日政策はほぼアーネスト・サトウの『英国策論』のシナリオどおりに展開していった。そうした意味でアーネスト・サトウは、駐日イギリス公使館における対日政策立案者というべき重要な立場にあった。
『英国策論』の内容は、
『私の提案なるものは、大君(将軍)を本来の地位に引き下げてこれを大領主のひとりとなし、ミカド(天皇)を元首とする諸大名の連合体が、大君(将軍)に代わって支配勢力となるべきだ』
というものである。更にアーネスト・サトウは、
『外国人は大君を日本の元首と見るべきでなく、早晩、ミカドと直接の関係を結ぶようにしなければならぬ、という確信を強くした』
とも述べている。アーネスト・サトウ『英国策論』で展開した『幕府の政権担当を否認し天皇を元首とする諸大名の連合意見樹立論』は、幕府政権を否定する長州藩や薩摩藩の主張と合致している。」(同上書 p.272-273)
アーネスト・サトウの『英国策論』は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、次のURLで全文を読むことが可能だが、いささか読みづらい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900382

『英国策論 遠い崖―アーネスト・サトウの日記抄3』を取り寄せて読むと、サトウがこの『英国策論』を著した基本的な考え方が、彼の日記にわかりやすい言葉で記されている。
「われわれは、厳粛且つ真剣に根本的な変革を提唱する。われわれが望んでいるのは、ただひとりの有力者との条約ではなくて、この国のすべてのひとにたいして拘束力を持ち、且つ利益をもたらす条約である。われわれは、将軍を日本の唯一の支配者なりとする陳腐な虚偽を捨てて、他の同等な権力者の存在を考慮に入れなければならない。言いかえれば、われわれは、現状の条約を、日本の連合諸大名との条約によって補足するか、あるいは、前者を後者と取り換えるかしなければならないのである。
…
現行の条約が永久不変のものではないことを、いまではだれもが確信している。
最近、われわれは、天皇の勅許なくしては、条約は実行されず、大名たちによって認められもしないことを、将軍が自らの行動によって是認するのを知ったのである。
…
このことから、天皇は将軍よりも上位にあると、ひとびとが結論したのは当然であり、理屈にかなっている。」(『英国策論 遠い崖―アーネスト・サトウの日記抄3』p.255-257)
徳川幕府はペリー来航以降の相次ぐ列強からの開国要求に対し、当初は朝廷の承認を得て和親条約を締結する方針をとったのだが、攘夷主義の朝廷は通商条約の締結に反対して勅許を与えなかったために、大老井伊直弼は幕府の専断で通商条約に調印した。そのために各地で攘夷事件が起こり、列国は幕府の統治能力に疑問を持つに至り、武力を行使して条約勅許の獲得を幕府に迫って、幕府は朝廷を説得して慶応元年10月にようやく朝廷より勅許を得たのだが、この一連の動きからイギリスは、幕府は日本国の元首ではなく条約を批准する権利を持たないと判断し、また幕府と結んだ条約は将軍の管轄地でしか効力を持たず、他の大名たちに対しては拘束力がないと理解した。現状の条約では日英貿易の自由な拡大は難しいため、アーネスト・サトウは幕府に期待するのではなく、条約を締結する相手の切り替えを通して天皇をいただく雄藩連合に政権を移すという意見を表明していたのである。単刀直入に言えばサトウの考えは討幕論だ。
しかしながら、1865年10月に第二次パーマストン内閣が退陣して、その後イギリス本国では対日政策が軌道修正される動きがあった。
新外相クラレンドンは1866年4月9日付で公使パークスに宛てて「日本における政治的影響力の行使を求めるのではなく、たんに通商の発展だけを求め、内乱の際には厳正な中立政策をとる方針」と指示したのだが、船便のためその公信がパークスの手元に届いたのは6月であったという。
ところが、すでに述べたようにアーネスト・サトウの『英国策論』が発表されたのは同年の4月で、イギリスの対日政策は、サトウの描いたシナリオ通り反幕府・薩長支持で動き始めていてそれを逆転させることは困難な情勢にあった。というのは5月に幕府と長州との談判が決裂し、6月には幕府軍が長州に向かっていて第二次長州征伐がいよいよ目前に迫っていたからである。
パークスが新外相の中立指示に従う意思がどれだけあったかはよくわからないが、結局イギリス公使館はサトウの『英国策論』のシナリオ通りの路線を進めることとなる。
再び鈴木氏の著書を引用させていただく。文中の「幕長戦争」とは、「第二次長州征伐」のことである。

「こうして幕長戦争が間近に迫ると駐日イギリス公使館は長州藩支持の立場で活発に動き始めた。実は既にこの年の正月、イギリス武器商人グラバーが薩摩藩を訪れ、島津久光の次男島津久治から手厚い接待を受けた。このときグラバーは、薩摩藩とイギリスの友好関係を一層深めるためパークス公使を鹿児島に招くように提案し、薩摩藩は快諾してパークスに招待状を送った。この仲介により…5月20日頃横浜を出帆して薩摩藩訪問の旅に出たパークスは下関に立ち寄り、5月24日、秘かに高杉晋作、伊藤博文と会見し『帰路に長州藩主と正式に会見する』と約束した。その後、パークスは長崎へ向かい長崎にしばらく滞在した。
一方、第二次長州征伐の開戦が迫ってきた。慶応2年(1866)6月初旬に老中小笠原長行が幕府九州方面軍の主将として小倉に布陣し、6月5日には幕府先鋒総督徳川茂承(もちつぐ)が広島に到着して長州藩包囲態勢が完成し、幕府軍の戦闘準備が整ったからである。
慶応2年6月7日朝、幕府軍艦富士山丸が長州藩領の周防大島を砲撃し、翌6月8日以降幕府歩兵、幕府砲兵、松山藩兵が周防大島に上陸し、第二次長州征伐が始まった。
長崎に居たパークスは幕長間の開戦を見届けると、早速、活発に動き出した。
パークスは、6月14日長崎を出帆し、同月16日鹿児島湾に入った。翌日、パークスは島津久光や薩摩藩主島津忠義(当時は茂久[もちひさ])と会見して交歓し、その後、数日にわたってパークスと薩摩藩の交換は続いた。この時西郷隆盛は薩摩藩代表としてパークスと懇談を行い、時局認識について腹を割った意見の擦り合わせを行った。この席でパークスは、
『ミカド(天皇)と大君(タイクン:将軍)の二人の君主があるような姿は外国では決して無いことで、いずれは日本も国王ただ一人とならなければ済まないだろう』
と述べ、薩長等雄藩による討幕を示唆し、さらにパークスは、
『このようなことを外国人が言い出すと、日本人は不満を持つようになる。日本人がこれをおのずから決すべきである』
とも述べた。これに対して西郷隆盛は、
『なんとも外国人に対して面目ないこと』
と答えた。パークスは西郷隆盛に対し『イギリスは直接介入は避けるが間接的支援を惜しまない』ことを示して薩摩藩を激励したのである。」(同上書 p.275-277)
イギリスのハモンド外務次官がパークスに宛てた文章に「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない」と記されていることをこのブログで何度か紹介したが、パークスが西郷に話した「(元首をただ一人にするという問題は)日本人がこれをおのずから決すべきである」「直接介入は避けるが間接的支援を惜しまない」という部分は本国の指示の通りとなっていることは注目して良い。
ところで、幕府軍と長州軍との戦いはどんな戦いであったのか。
以前も書いたが、長州の武器の多くはアメリカの南北戦争で用いられた最新鋭のもので、幕府軍のものよりはるかに射程距離が長く命中精度が高かった。薩摩藩も最新鋭の武器を大量に保有していて幕府から出兵を要請されていたのだが、薩摩藩は出兵を辞退している。一方、幕府軍および幕府軍の要請で出兵した諸藩の武器は一時代古いものが大半だったようだ。

兵の数では幕府軍が長州軍を圧倒していたのが、戦いは最新鋭の武器を大量に持ち、兵の士気の高い長州軍の方がはるかに強かったという。
副将として広島にいた老中本荘宗秀(ほんじょうむねひで)は、大阪にいる老中に宛てて、このように報告している。
「長防御討入については諸大名へ人数を差出し候向きも少人数。少し多き分は農民共が過半にて兵勢甚だもって振わず。鉄砲も幕軍はゲペル甚だ少なく、火縄付の和筒のみ。長州は農民に至るまでゲペル銃を用い必取の英気鋭く、なお薩摩も長州へ心を寄せ、イギリスも長州へ応援致し候様子。この分にては、とてもすみやかに御成功はおぼつかなく」(同上書 p.283-284)
本荘宗秀は「ゲペール銃」と書いているが、この銃は江戸幕府や他藩が西洋軍制を導入した時期に相次いで購入したもので、長州藩はその銃砲身内にライフリングとよばれる螺旋状の溝が施され、銃弾にロケット状のものを装填する最新鋭の「ミニエー銃」を多数保有していた。ミニエー銃は銃弾に回転を与えることで飛距離と命中精度が向上し、有効射程はゲペール銃の3~6倍もあったうえに命中した場合の殺傷力が圧倒的に強かった。ミニエー銃を持つ長州軍は、幕軍の銃の届かないところから幕軍を狙い撃ちすることが可能だったのだ。
国会図書館デジタルコレクションに、明治大正の歴史家である中原邦平が明治42年の講演を書き起こした『忠正公勤王事蹟』という本がある。
そこには芸州口で行われた長州藩と幕府軍との戦いをこう記している。

【長州征討に出陣する高田藩兵】
「そうして小瀬川を渡って、井伊、榊原の兵が陣羽織立烏帽子で押太鼓を打ち、法螺貝を吹き、ブーブードンドンでやって来るところを、不意に西洋の利器で撃ち掛けましたから、ひとたまりもせず、みな崩れて敗走したので、一戦でもって大竹、玖波、小方を占領してしまいました。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782028/312
このように、彦根藩や高田藩は槍や刀で争う時代の戦い方で臨んだために小瀬川ではあっけなく潰滅したのだが、赤坂・鳥越の戦いのように肥後藩細川氏の奮戦で幕府軍が長州軍を圧倒した戦いもあったようだ。

しかし、第二次長州征伐の戦況が厳しい中、7月20日に大坂城在陣中の将軍家茂がわずか21歳で病没し、それを理由に幕府軍の総督・小笠原長行は戦線を離脱し、小倉口に集結していた九州諸藩の兵士達も相次いで帰国して、孤立した小倉城は長州藩の猛攻を受けて8月1日に落城してしまう。
徳川慶喜は朝廷に休戦協定を願い出て幕府軍は撤退し、第二次長州征伐は幕府軍の大敗に終ったのだが、兵士の数では圧倒しながら長州藩に敗れたことで幕府の権威が失墜し、幕府の求心力が急速に低下していくことになる。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-317.html
薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-318.html
薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-319.html
シーボルトと日本の開国
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-30.html
シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-59.html
シーボルトはスパイであったのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-93.html
押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-124.html
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