洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い
慶喜は必ず勝てるとは考えていなかったようだが、城内の将士たちは、江戸で薩摩藩を懲らしめることに成功したのだから、京都でも戦えば幕府軍が勝てると単純に考えたのだろう。
一方、薩摩を中心とする新政府軍は、勝算があったわけではなかったが、士気は極めて高かった。
徳富蘇峰は『近世日本国民史 第66巻』で、こう述べている。
「…数を以てすれば、大阪対京都は、ほとんど十対一である。而して質を以てすれば、大阪側には、フランス教師直伝の伝習兵がある。更に大阪側は、二百六十年の伝統に依りて、既成の惰力を利用すべき便宜がある。彼等が必勝を期したのも、決して無理ではなかった。
これに反して如何に京都側は、勤皇の正気に燃えるも、多勢に無勢。一挙直ちに大阪側を撃滅すべき見込みは、到底立つべき様もなかった。此の如く勝算無きに拘らずなお武力解決の初一念を抛(なげう)たなかったのは、畢竟此れにあらざれば、復古の鴻業は到底成立すべからざるを認めたからだ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/141

【戊辰戦記絵巻 長州兵】
幕府軍は兵の数では新政府軍を圧倒的に上回っていたものの、会津・桑名その他の諸藩兵や新選組の武器は刀槍を中心とする旧式の軍隊で、銃も保有していたが旧式のゲベール銃が大半であったという。
一方薩摩・長州軍は新型の銃機を大量に保有していた。以前にもブログで書いたが、新型の銃(ミニエー銃など)は、旧式のゲベール銃よりも飛距離、命中精度、破壊力が格段に優っていて極めて殺傷力の強い武器であった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html

【竹中重固】
もっとも幕府の歩兵の一部はフランスの訓練を受けた伝習隊で、彼らは最新鋭の銃を装備していたのだが、指揮官の竹中重固*(しげかた)は近代的軍事については無知であったし、大量の最新銃器を持つ薩長軍と戦って勝てる戦術を練っていたわけでもなかったのである。
*竹中重固(しげかた):戦国時代の軍師竹中半兵衛の子孫。陸軍奉行
このような幕府軍の甘さに危機感を持つ兵士もいたようだ。
徳富蘇峰の同上書に桑名藩士・中村武雄の手記が引用されているので紹介したい。
「(慶喜)親書して薩藩の罪を責め、遽(にわか)に出兵の令を下し給いけり。時に戊辰正月元日なり。嗚呼敵の計る所に陥り、その勝算をも定めず、卒然出兵に決し給いしは、何らの軽忽なることにや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/185
1月1日、慶喜は朝廷に提出するために「討薩の表」を作っている。
徳富蘇峰の同上書にその内容が紹介されているが、簡単に意訳すると、
「先月9日以来のことは、すべて薩摩の奸臣どもの陰謀であり、各地の騒乱・強盗の類もまた彼らの仕業である。したがってこの奸臣ども引渡しを命じて頂きたい。万一御採用頂けない場合は、止む無く誅戮を加える」
とあり、その文章のあとでこれまでの薩摩藩の罪状が列記されている。

さらに慶喜は1月3日付で外国公使に対しても、討薩にあたり船の取締りを厳しくする旨の公文を発し、そして会津藩を先鋒とする部隊は鳥羽街道を進み、桑名藩を先鋒とする部隊は伏見街道を進んで、京へ向かっていった。
この動きを阻止するために薩・長軍は鳥羽街道と伏見奉行所方面を封鎖していた。
そして3日に鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と幕府軍先鋒との間で小ぜり合いが起こり、街道の通行を求める幕府軍に対し薩摩藩兵は京都から許可が下りるまで待つように返答したのだが、何度か押し問答を繰り返しているうち、午後5時頃薩摩軍は砲撃を開始し、同じ頃に伏見の薩摩兵も戦端を開いて、ついに全面的な戦争となったのである。
幕府軍は再三攻勢を掛けるのだが、薩摩藩兵の優勢な銃撃の前に死傷者を増やしていくばかりであった。奇兵隊の参謀としてこの戦いに参加した長州藩の林半七(友幸)は、伏見の戦いをこう語っている。

「伏見では戦争は市街で始まった。伏見の市街は碁盤の目同様だから、何れから来るも知れぬ。それで長州は南の方へ向かって撃つ。薩摩は横の方から西へ向かって砲撃した。此の如く南は長、西は薩で丁度十文字に撃った。先方の兵隊は騒動するばかりで、怖れて出て来ぬが、士官がヒョイヒョイと進んで来るから、皆に撃たれて斃れてしまう。それが日没頃であった。」
「伏見の戦争は市街戦だ。長兵は馬関戦争で実戦に慣れているから、市民が逃走して空き家になっている家から畳を引き揚げ、道端へ七八枚重ねて横に立てかけて楯となし、それを右側と左側と差い違いに六七間毎にやって、その間から撃ったので、怪我人や死人の数が割合に少ない。畳の上へ頭を出して撃つから眉間をやられた者ばかりだった。その中に向こうの陣屋が焼けだしたから、此方は暗中より向こうを狙撃することが出来た。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/206
午後8時ごろには薩摩藩砲兵が放った砲弾が伏見奉行所の弾薬庫に命中し奉行所が炎上し、周囲の民家にも火が放たれて、新政府軍は炎を照明にして猛烈に銃撃したため幕府軍はこらえきれずに退却を開始し、深夜0時頃には新政府軍は伏見奉行所に突入し、幕府軍は堀川を越えて中書島まで撤退し、竹中重固は部隊を放置したまま淀まで逃げ落ちたという。
幕府軍は狭い街道で縦隊突破を図るばかりで、優勢な兵力を活かすことができなかったのだが、そもそも指揮官が逃亡するような軍が戦に勝てる筈がない。
一方、新政府軍は綿密な計画を立てていたようだ。
西郷隆盛が1月3日付けで大久保利通に宛てた書状を読むと、万が一のことを考えて天皇陛下を山陰方面に御遷幸することまで計画していたことが分かる。その書状には、初日の勝利をみて、御遷幸の件を当分の間見合わすことを記している。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139471/213

【仁和寺宮嘉彰親王(中央)】
そして4日には仁和寺宮嘉彰親王が征東大将軍に任ぜられ、錦の御旗*が授けられている。
この旗は岩倉具視と薩摩藩が事前に作成していたものだが、使用に際して前日に朝廷の許可を取っていることは確かなようである。この旗が新政府軍に渡されたことで慶喜は明らかに朝敵とされ、その後幕府軍で裏切りが相次いでいる。
*錦の御旗(にしきのみはた):朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与える旗

5日には伏見方面の幕府軍は淀千両松に布陣して新政府軍を迎撃したが、乱戦の末に敗退し、鳥羽方面の幕府軍も富ノ森を失い、現職の老中であった稲葉正邦の淀藩を頼って淀城に入って戦況の建て直しを図ろうとしたのだが、淀藩は朝廷と戦うことを嫌って幕府軍の入城を拒んだという。

6日には幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山に布陣したが、対岸の大山崎を守備していた津藩が寝返り、津藩から砲撃を受けて幕府軍は総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れたという。
そして、その夜に徳川慶喜は僅かな側近と老中板倉勝静、老中酒井忠惇、会津藩主松平容保・桑名藩主松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊していた幕府軍艦開陽丸で江戸に退却し、幕府軍は戦闘意欲を失って大坂を放棄してしまう。
このように幕府軍は人数では新政府軍を圧倒していたのだが、わずか4日で惨敗してしまっている。敗因は徳川慶喜に戦意が乏しかったことや、幕府兵の士気が新政府軍よりも劣っていたことも重要なポイントではあるが、最大の敗因はやはり幕府軍の戦術の稚拙さにあったのだと思う。
幕府軍の多くは刀槍を武器とし個人的に武勇を誇る旧式の武士の集まりで、銃を持っている場合も多くが旧式のゲベール銃であった。遠方から高い精度で敵を狙い撃つ新式のミニエー銃を大量に保有する新政府軍に対しては、刀や槍はもちろんのこと、ゲベール銃では勝てないことは以前このブログで書いた第二次長州征伐で証明されていたことなのである。幕府軍は同じ誤りを繰り返してしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html

前述したとおり幕府軍には最新鋭シャスポー銃で武装した幕府伝習隊も加わっていたのだが、その武器の威力を充分に発揮することができなかったのは、旧式の部隊である会津藩、桑名藩の藩兵を幕府軍の先鋒にしたからではなかったか。
会津藩、桑名藩の藩兵は士気も高くよく戦ったとはいえ、刀や槍はもちろんのこと、ゲベール銃では敵に余程接近しなければ相手を倒すことができない。一方新式のミニエー銃ならば遠方から正確に相手を狙い撃つことができる。まともにぶつかれば旧式の部隊では勝てるはずがないのだ。
幕府軍が新政府軍と互角以上に戦うためには、最新鋭の銃を持つ伝習隊を先鋒とし、市街戦で戦う戦術をはじめから立てておかなければならなかったのだが、幕府軍の指揮官はそのような戦い方を知らなかっただけではなく、途中で戦術の変更をする能力もなかった。

岩波文庫に『戊辰物語』という本がある。この本は東京日日新聞が昭和3年(1928)に明治維新を経験した古老からの聞き書きを連載した記事をまとめたものだが、この本の鳥羽伏見の戦いを読めば、幕府軍の敗因がわかりやすい。
「洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の合戦
三日から四、五、六と、鳥羽伏見の合戦は幕軍総崩れ。何しろ洋服鉄砲の兵隊へ鎧兜に陣羽織の幕軍が槍をもって向かったのだからいけない。殊に一人一人名乗りを上げる、敵を斬ると一々首をとって腰へ下げる。その首を幾つも腰へぶら下げた勇士がたった一発で胸板を抜かれて死んでいるという有様(戊辰絵巻)、例の新選組の創設者庄内の清河八郎を、文久三年の四月十三日に、芝の赤羽橋で暗殺した京都見廻組頭の剣客佐々木只三郎などもこの一戦でやられた。はじめ鎧に陣羽織で働いたが、鎧などは何の役にも立たぬのを知って、真裸になって進んで、すぐやられた。」(『戊辰物語』p.30)
もし、幕府軍が江戸で薩摩藩の挑発に乗っていなければ、慶喜は幕府・諸藩の今までの体制を維持したまま新政権に参加する話が進んでいて、その中で主導権を取れた可能性が高かったはずだ。
慶喜は薩摩討伐には賛成ではなかったのだが、城内の将士たちがその許可を強く求めて城内が殺気立ち、慶喜の命令に従おうともしないので、腹を立てて彼らに「勝手にせよ」と言ってしまったことが、大失敗となってしまったのである。しかし慶喜も、幕府軍がここまでひどい負け方をすると考えていなかったのではないだろうか。

【徳川慶喜】
慶喜は晩年このことをこのように述べている。
「やがて錦旗の出でたるを聞くに及びては益(ますます)驚かせ給い、あわれ朝廷に対して刃向うべき意思は露ばかり持たざりしに、誤りて賊名を負うに至りしこそ悲しけれ。最初たとい家臣の刃に斃るるとも、命の限り会桑を諭して帰国せしめば、事ここに至るまじきを。吾が命令を用いざるが腹立たしさに、如何ようとも勝手にせよと言い放ちしこそ一期の不覚なれと、悔恨の念に堪えず、いたく憂鬱し給う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/76
鳥羽伏見の戦いで敗れたとはいえ、幕府兵の戦死者は280名に程度にすぎず、幕府にはまだまだ充分な武器や兵士が残されていた。
慶喜が江戸城に戻ると、小栗忠順、水野忠徳ら多数の家臣が城内で主戦論を主張しており、中にはフランスの協力を得て新政府軍と戦おうとする者もいた。
非戦論者は大久保忠寛、勝海舟などがいたが、極めて少数であったという。
慶喜が東京でどう動いたかは、次回に記すことにしたい。
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
長州藩が攘夷の方針を改めた経緯
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-482.html
薩摩藩・長州藩の討幕活動に深く関わったグラバー商会のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-483.html
なぜ資力の乏しい長州藩が、グラバーから最新鋭の武器を大量に入手できたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-486.html
江戸幕末におけるイギリスの対日政策と第二次長州征伐
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-487.html
薩長を支援したイギリスに対抗して江戸幕府に接近したフランス
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html

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