江戸無血開城の真相を追う
渋沢栄一の『徳川慶喜公伝 巻4』にはこう解説されている。
「陸海軍人殊に海軍副総裁榎本和泉守(武揚)、陸軍奉行並小栗上野介(忠順)、歩兵奉行大鳥圭介(純彰)及新選組の人々などは概ね戦を主とし(戊辰日記、彰義隊戦史)、兵を箱根、笛吹に出して、官軍を待たんというものあれば、軍艦を以て直に大阪を衝かんというものもあり(海舟日記)、又関八州占拠の策を献じ、軍隊の新組織法を建白し(七年史所載陸軍調役並伴門五郎・同本多敏三郎等嫌疑)、或は輪王寺宮(公現親王、後に北白川宮能久親王)を奉じて、兵を挙げんというものもあり(彰義隊戦史)、或は君上単騎にてご上洛あらば、士気奮いて、軍機忽ちに熟せんと激語する者もあり(海舟日記)。老中等も是等の説にや同じけん。…
主戦派の人々は激論に激論を重ねて、いつ果つべしとも見えず。有司はこもごも公に謁して其説を進め、論談往々暁に達し、諸士相互の議論に至りては鶏声を聞かざれば已まず。(海舟日記)。正月17日若年寄堀内内蔵頭(貞虎、信濃須坂藩主)は、身要路に居て此の難局を処理する力なく、御委任を全くすること能わずとて、遂に殿中に自刃せり。其の意、死を以て幕議を恭順に定めんとするにありという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953149/214

【小栗忠順】
またWikipediaにはこう記されている。
「慶喜の江戸帰還後、1月12日から江戸城で開かれた評定において、小栗(忠順)は榎本武揚、大鳥圭介、水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は『新政府軍が箱根関内に入ったところを陸軍で迎撃、同時に榎本率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅する』という挟撃策を提案した…。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86
小栗上野介らが提案した策は、後にこの策を聞いた長州藩の大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかった」と恐れたほどのものであったようなのだが、徳川慶喜は小栗の案をしりぞけ、15日には小栗を罷免してしまっている。
江戸城では朝敵とされようが、錦の御旗が敵方にあろうがかまわず薩長を討つべしとの考え方が大半であったようなのだが、そのなかで徳川慶喜はともかくも恭順論を貫き通したのである。

【福地源一郎】
主戦論者の中には、外国の支援を得て戦おうとする意見も少なくなかったようだ。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に福地源一郎の回顧録である『懐往事談』の文章が引用されている。
「故に或は仏国に税関を抵当として外債を起こし、以て軍資に充て、援兵を乞うべしと言えば直に同意し、米国より廻船の軍艦を、海上にて歎き受取るべしと言えば、異議なく左袒*し、横浜の居留地を外国人に永代売渡にして、軍用金を調達すべしと言えば、これ以て名策なりと賛成したるが如き、今日より回顧すれば、何にして余はここまで愚蒙にてありしかと、自から怪しまるる程なりき。」
*左袒(さたん):同意して味方すること
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/41
わが国の領土を売却して軍資金を捻出し、フランスやアメリカとともに薩摩・長州と戦おうというのだが、薩摩・長州にはイギリスがついていた。そんなことをしていれば、両軍から多数の死傷者が出たことは確実で、またどちらが勝利したとしても借金の返済が出来ないために多くの国富や領土を外国に奪われるところであったのだが、こんなバカな話が江戸城で真面目に議論されていたことを知るべきである。

【仏公使 ロッシュ】
もちろんフランスは黙ってはいなかった。フランス公使ロッシュは1月18日に将軍に謁見を申し入れ、19日に登城している。この時の慶喜との会話が如何なるものであったのか。徳富蘇峰の同上書に徳川慶喜の『昔夢会筆記』が引用されている。
「…(ロッシュ曰く)『此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし』と、いとも熱心に勧告したり。予は『好意は謝するに余りあれども、日本の国は他国に異なり、たとい如何なる事情ありとも、天子に向かいて弓ひくことあるべからず。祖先に対して申し訳なきに似たれども、予は死すとも天子には反抗せず』と断言せしに、ロッシュ大に感服したるさまにて後言う所なかりき。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/45
また慶喜は、19日に在江戸諸藩主を恭順の意を伝えて協力を要請し、20日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請を行い、23日には、徳川家人事を大幅に変更し、庶政を取り仕切る会計総裁に恭順派の大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁に同じく恭順派の勝海舟を抜擢している。
そして27日には、慶喜は紀州藩主の徳川茂承らに、朝廷に隠居。恭順を奏上することを告げ、2月9日には鳥羽伏見の戦いの責任者を一斉に処分し、翌日には松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城登城を禁じ、そして12日には江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺に移って、その後謹慎生活を送っている。
では、新政府軍の西郷隆盛や大久保利通は慶喜をどうするつもりであったのだろうか。
西郷が大久保宛に書いた2月2日付の書状を見ると、「…慶喜退隠の歎願、甚以不届千万。是非切腹迄には、参不申候ては不相済」とあり、西郷は慶喜を生かしておくつもりはなかったようだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/93
また、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした新政府の東征軍は、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍し、駿府で行われた3月6日の軍議で江戸城総攻撃を3月15日と決定している。
そして勝海舟は、差し迫る東征軍との江戸における内戦を避けようと、西郷との交渉を考えていた。勝は、西郷が徳川家の歎願を受けいれなかった場合や、屈辱的な条件を要求してきた場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防ぎ、焦土とする作戦であったようだ。

【勝海舟】
3月10日付の『海舟日記』にはこう記されている。
「もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を挙て進まんとせば、城地灰燼、無辜死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼暴挙を以て我に対せんには、我もまた彼が進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177471/75
勝は江戸湾にあらかじめ船を用意して、火災が起こった際に避難民を救出する計画まで立てていたようだが、ここまで覚悟して西郷との交渉に臨もうとしていたのである。
一方の新政府軍だが、不案内な江戸城下で戦うとなると大量の負傷者が出ることが想定されるので、西郷の命を受けて、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)が横浜の英国公使官へ向かい、公使パークスに面会をして傷病兵の為に病院の世話を依頼している。薩摩藩からすれば、これまで英国の支援により最新鋭の武器を大量に購入してきた経緯があり、京都で負傷者の治療を要請したこともあるので、今回の戦いの負傷者のための病院の世話ぐらいなら引き受けてくれるだろうと軽く考えていたのだが、この時のパークスの反応は西郷の想定を大きく越えるものであったようだ。
徳富蘇峰の前掲書に、渡辺清の談話が紹介されている。

【イギリス公使 パークス】
「パークスは如何にも変な顔つきを致して、これは意外なることを承る。吾々の聞く所に依ると、徳川慶喜は、恭順ということである。恭順している者に、戦争を仕掛けるとは、如何という。
木梨いう、それは貴君の関する所ではない。吾々はどこまでも戦えという命令を受けてきた。ともかく用意してくれといったところが、そんなことは出来ませぬ。いずれの国でも恭順即ち降参という者に向かって戦争せねばならぬということは無いはず。その上いったい今日は誰から命を承けて来られたか。大総督から。それは如何なることか。…いったい今日貴国に政府は無いと思う。
…もし貴国で戦争を開くなら、居留地の人民を統括している領事に、政府の命令が来なければならぬ。それに今日まで何の命令もない。また素より命を発するに際しては、居留地警衛という兵が出なければならぬ。その手続きが出来た以上に、戦争を始むるべき道理。かくありてこそ、始めて其国に政府があるというものである。しかるに、それらの事は一つもしてない。それゆえ、自分は無政府の国と思う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/178
こんな調子でパークスは激怒して途中で面談を中止してしまい、木梨と渡辺は品川に戻ってこのことを西郷に報告したのだが、さすがに西郷も、官軍側に手落ちがあったことを認めざるを得ず、渡辺にこう述べたという。
「自分も困却している。かの勝安房が、急に自分に会いたいと言い込んでいる。これは必ず明日の戦争を止めてくれというじゃろう。彼じつに困っている様子である。そこで君の話を聞かせると、全くわが手元に害がある。故にこのパークスの話は、秘しておいて、明日の打ちいりを止めねばならぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/181

【西郷隆盛】
江戸城無血開城については西郷隆盛と勝海舟の二人がクローズアップされて、まるでわが国を救った英雄のように描かれることが多いのだが、実は西郷はパークスが激怒したことを知って考え方を改め、二人が談判を始める前から江戸城総攻撃を中止する肚を固めていて、勝と談判に及んだということなのである。
以前このブログで、イギリス公使館のアーネスト・サトウが西郷に対し、『兵庫・大坂が幕府の手で開かれてしまえば、その地の平和と安全とは、諸外国の関心事となるから、これらの土地の争奪、これらの土地での戦闘は、諸外国が、艦砲と陸戦隊との力にかけて、防止するであろう』と述べたことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-488.html
兵庫港はすでに慶応3年12月7日に開港しており、サトウの言葉を借りると、諸外国のわが国における関心事は、開港地における平和と安全の維持に関心が移っていたのである。
したがって、横浜や神戸など開港地に近い場所で幕府軍と新政府軍が戦う状態が長引くことは外国の干渉を招く危険が高かったのだが、前述したとおり、幕府軍にはフランスの支援を得て新政府軍と戦おうと考える者が少なからずいた事実がある。
当時神奈川にはイギリス兵2大隊、フランス兵1大隊がいたという。もし幕府が正式にフランスの軍事支援を要請していたら、イギリス軍はおそらく新政府軍を支援したことであろう。もしそうなっていたらわが国は、それから後も独立国家であり続けることは難しかったのではないだろうか。

【『江戸開城談判』聖徳記念絵画館壁画 】
西郷隆盛と勝海舟の談判によって江戸城の無血開城が決定し、当時人口100万人を超えていた世界最大級の都市であった江戸が、戦火に巻き込まれることから救われたことは間違いがない。二人とも立派な人物であったことは私も同意するところなのだが、江戸無血開城はこの二人の歴史的大英断によって成し遂げられたという見方は単純にすぎる。そもそも徳川慶喜という人物が最後の将軍でなければ、江戸城無血開城が実現することはなかったのであり、慶喜にもっと着目すべきだと思う。

【徳川慶喜】
慶喜は、自らをそして徳川家を犠牲にして大政奉還したのち、ひたすら朝廷に恭順し、大坂城、江戸城で徹底抗戦を主張する大多数の幕臣達に抗し、鳥羽伏見の戦いを止めることは出来なかったが、江戸に入ると主戦派の幹部を罷免し、恭順派の勝海舟らを幹部に抜擢し、またフランスの支援の申し出を断り、一貫して戦うことを避けようとしたことは何のためだったのか。
英仏軍が駐留するなかでその両国の干渉を排除して平和裏に政権交代を成し遂げさせるということは、当時の世界においては奇跡に近い出来事であったと思う。それが実現できたことは、徳川慶喜の決断によるところが極めて大きかったと私は考える。
慶喜が徳川幕府の最後の将軍であったことはわが国にとっては非常に幸運なことであり、彼のお蔭でわが国は独立を維持できたという見方はできないか。
鈴木荘一氏は著書『開国の真実』の最後をこう締めくくっている。
「確かに幕府主戦派の主張どおり、幕府は全力で戦えば決して簡単には負けなかったかも知れない。
しかしイギリスが薩長を支援し、フランスが幕府を支援する構図の下での内戦が激化すれば、やがてイギリスやフランスをはじめ外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても、わが国の独立は制約を受けただろう。
徳川慶喜はそのことに気付いていたようである。
条約勅許を獲得し兵庫開港を実現して『第一の開国』を完成させ、更にイギリス型議会制度を想定して大政奉還を断行した徳川慶喜としては、人情においては、自分の手で日本近代化を成し遂げたかっただろう。
しかし徳川慶喜は自分に課された最大の政治課題である開国の大業を成し遂げた後、みずから恭順謹慎して政権を捨てた。
徳川慶喜のこの無欲の心こそ、1860年代当時の厳しい国際情勢下において、わが国が独立を護る唯一の道だったのである。」(『開国の真実』p.334)
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【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
西郷との会談で江戸城の無血開城を実現させた勝海舟は西郷の遺児支援に奔走した
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-164.html
明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html
明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html
江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html
静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html
徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html

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