京北の常照皇寺と山国隊の歴史を訪ねて
https://www.kyokanko.or.jp/jidai/gyoretsu_1.html
Youtubeで検索すると、時代祭の先頭を進む山国隊の多くの動画が紹介されており、陣羽織に袴姿で刀を差し、錦の御旗を掲げて鼓笛隊が軍楽を奏でて行進していく凛々しい姿を観ることが出来る。
御所から30km以上も離れた山奥にある山国村の有志が、なぜ明治維新の時に立ちあがったのかを調べていくと非常に興味深かったので、ずっと以前から山国隊を生んだ京北の地を訪れようと考えていたのだが、この地域は桜が有名であるので桜の咲く季節に訪れることに決めていた。
山深い京北の桜の開花は京都の中心部より1週間程遅いようだが、今年は例年よりもかなり遅れていて、おそらく4月下旬に入っても楽しめる場所があると思われる。
京北商工会館が「京北桜情報」を毎日アップされているので、これから行かれる方は、次のURLで開花状況を事前にチェックされた方が良いだろう。
http://keihoku.sakura.ne.jp/%E4%BA%AC%E5%8C%97%E3%81%AE%E6%A1%9C%E6%83%85%E5%A0%B1/

また京北の桜の名所は京都市がよくできたマップを作成されているので、次のURLから「花降る里けいほく SAKURAめぐりマップ」を印刷して出かけられることをお勧めする。
http://www.city.kyoto.lg.jp/ukyo/page/0000178772.html
京北では訪問先の電話番号ではカーナビが反応しないところが多かったので、今回の記事には訪問先の住所を付記しておく。

最初に訪れたのは常照皇寺(じょうしょうこうじ:京都市右京区京北井戸町丸山14−6 ☎075-853-0003)。
南北朝時代に光厳上皇が出家されたのち、貞治元年(1362)にこの地に庵を結んだのがこの寺のはじまりで、その後戦国時代に入って天正七年(1579)に明智光秀の軍勢によって寺域が焼き打ちにあったようだが、江戸幕府の第二代将軍徳川秀忠が寺領を寄進したのち朝廷の保護を受けるようになり、安永十年(1781)には開山堂が建立され、幕末以降に方丈や庫裏が整備されたという。なお背後の山腹には光厳・後花園両天皇の御陵(山国御陵)と後土御門天皇の分骨所がある。

参道の長い石段を登り、山門を抜け次の勅願門を抜けると、正面に勅使門と方丈の屋根が見えてくる。勅使門への昇り階段の手前を左に折れて書院に向かう。

有名な「御車返しの桜」はまだ蕾がふくらんだ程度だったが、今年の満開は4月の下旬になるのではないだろうか。

常照皇寺の有名な桜は他にもあって、国天然記念物の「九重桜」(右)と「左近の桜」(左)だが、九重桜がようやく開花したばかりだった。

秋には紅葉も美しいと聞くが、方丈から観る庭の景観は素晴らしかった。中央の楓が紅葉し、山全体が色づく季節にまた訪れてみたいものだ。

常照皇寺をあとにして上桂川の道沿いの477号線を東に進むと春日神社(京北宮町宮野90)があり、その鳥居の左に「黒田百年桜」がある。この桜も今年はまだ蕾の状態であったのだが、この駐車場にあった黒田地区の案内板にこの地域と皇室との関わりについて記されていたので紹介したい。この歴史が冒頭で記した「山国隊」と関わってくるのである。
「黒田を含む周辺地域は、平安時代に禁裏御料*(山国杣[やまぐにそま])に指定され、平安京の造営や新築用材の供給地となった。その後、紆余曲折はあったものの、大局的に見れば禁裏御料として朝廷や天皇家との関係を一貫して保ちながら、明治維新を迎えた。黒田は山国杣にあっても大堰川上流域(上桂川)の大布施杣に所属し、その中心的存在であった。…
黒田は、月ごとあるいは緊急時に禁裏へ木材を貢納する一方で、禁裏との間には日常的な付き合いも生まれた。天皇の側近の女官が室町中期から江戸末期まで書き継いだ『御湯殿上日記(おゆとのうえにっき)』には、宮中の年中行事の際はもとより、頻繁に鮎・粽(ちまき)・餅・柿・菜・檜皮・樒(しきみ)などを持参した記録が残っている。鮎は夏には活き鮎を夕刻から翌朝にかけて御所まで運んだという。
…
木材の搬出は筏(いかだ)流しが主流であり、平安時代から禁裏への貢納材を輸送し、近世における市場への移出も専らこれによった。黒田から嵯峨・梅津・桂の三ケ所の材木屋に移出された年間筏流送数は、幕末期で約三百乗(一乗とは筏の幅、約2.4m長さ54m)である。農地の少ない黒田では、農作業の主な働き手は女性で、男性は筏流しや製炭を含む山林労働により、それぞれ生活を支えた。また女性は炭俵二俵を背負い、貴船等の問屋にそれを卸した。」
*禁裏御料:天皇の直轄地でみだりにその中に入ることを禁ずる場所。「禁裏」とは天皇の常在する場所。
**『御湯殿上日記』:御所に仕える女官達によって書き継がれた当番制の日記。正本・写本・抄本を合わせると室町時代の文明9年(1477年)から文政9年(1826年)の350年分の日記が途中に一部欠失があるもののほとんどが伝わっている。

この案内板では黒田地区を中心に書かれているが、平安時代に禁裏御料となった「山国杣(そま)」は京北の山国地区、黒田地区から滋賀県境の左京区広河原地区に至る、広大な山林を指している。広河原地区は「桂川」の源流で、この川は黒田地区、山国地区へと流れて行き、日吉ダムから亀岡盆地に向い、さらに京都盆地に出てから伏見区で鴨川と合流し、大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となる川である。この川は、京北では「上桂川(かみかつらがわ)」と呼ばれ、南丹市八木から亀岡市では「大堰川(おおいがわ)」、保津町から嵐山までは「保津川」と呼ばれることが多いが、行政上の表記はいずれも「桂川」で統一されているようだ。この桂川の存在が、大量の材木の運搬に好都合であったことは言うまでもない。桂川流域とその歴史については『空から見た桂川の表情』というサイトが写真が豊富でわかりやすい。
http://www.geocities.jp/hinatacobo/page015028.html

国立国会図書館デジタルコレクションで『京都府北桑田郡*誌』という本が公開されていて、山国村の歴史が記されている部分がある。それによると、
「桓武天皇の御宇山城国長岡へ御遷都御造営につき、丹波国北山中郷山国庄を御杣御料地と定められ、平安京奠都に際しても良材を奉りて御造営の工を成就し…」とあり、長岡京の造営の頃からこの地は御料地に指定されていたようである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925931/320
*北桑田郡:今の右京区京北と南丹市、左京区広河原を郡域とした。昭和30年に北桑田郡の周山町、細野村、宇津村、黒田村、山国村、弓削村が合併して京北町が発足したが、平成17年に京北町全体が京都市右京区に編入され、翌年に美山町、園部町、八木町、日吉町が合併して南丹市が発足して、北桑田郡は消滅した。
山国村はそれ以来、皇室に御用材を納め奉り、歴代の大嘗祭に際しては「悠紀主基両殿の造営に用いられし材を上納し、時には主基斎田を命ぜられて新穀を上り、大堰川に産する年魚を毎年禁裏に献じ奉りし」とある。
『京都府北桑田郡誌』には触れられていないが、Wikipediaによると戦国時代に宇津頼重(うつよりしげ)が山国庄を押領した時代があり、朝廷より依頼を受けた織田信長が明智光秀に命じて宇津氏を討伐し、朝廷による山国庄の支配が回復したのだが、江戸時代に入ると幕領とされ、朝廷による支配は解体されている。
ところが徳川綱吉により一部が禁裏領に復したため、以降明治まで禁裏領と旗本の知行地などが山国庄内に混在する状態となってしまう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E8%8D%98
地域の人々は、以前のように山国庄全体が禁裏領に復古することを強く願っていたのだが、慶応四年(1868)に鳥羽伏見の戦いがはじまり、それからまもなく山陰道鎮撫総督の西園寺公望から勤皇の士を募る檄文が届いて、それに応えて83名をもって編成されたのが「山国隊」である。東征大総督有栖川熾仁親王の京都出陣に伴い、山国隊に1小隊東征の指令が下り、2月13日に隊士35名が東山道の鳥取藩部隊に加わって京都を出発している。山国隊は各地で転戦を重ね、中山道を進み江戸に向かう途中、4月22日の壬生、安塚(栃木県宇都宮南辺り)の激戦で3名の戦死者を出し、さらに江戸の戦いでも犠牲者を出している。
明治二年(1869)二月に山国隊は鼓笛を鳴らして山国への凱旋を果たし、山国神社に参拝したのだが、1年以上の派兵に関わる軍費は自弁であり、そのためにできた膨大な借金は名主仲間の共有の山林を売り払うなどして賄われたという。多くの犠牲を出しながら、山国庄が再び禁裏領となる夢を果たすことにはならなかったのだが、以後山国隊は郷土の誇りとされ、この軍楽は今もこの地域の青少年に受け継がれている。

「黒田百年桜」から桂川に沿って477号線を10kmほど下流に進むと山国神社(京北鳥居町宮ノ元1)がある。
社伝によると光仁天皇の宝亀年間(770~780年)に創立したとされるが、延喜式神名帳にも明記されているので、かなり古い神社であることは間違いがない。
この神社は源平合戦以降何度か戦災に巻き込まれ、現在の本殿は元文二年(1737)の建築だという。毎年10月の第二日曜日に還幸祭があり山国隊鼓笛行進が奉納されるのだそうだ。

山国神社から1kmほど東に山国護国神社(京北辻町清水谷10)がある。
山国隊が明治二年二月に故郷に戻り山国神社に凱旋参拝した後に、犠牲者の招魂場を設けることが決議され、死亡した七隊士の墓標を立ててここで招魂祭が催されたという。
以来、この神社には山国隊だけではなく、日清日露戦争から太平洋戦争に至るまで、その身を国に捧げた郷土出身者の御柱も祀られているのだそうだ。
この地域では山国隊の軍楽が今も青少年に受け継がれていて、無人の神社のパンフレットによると「毎年4月22日に近い日曜日」に例祭日が行なわれ、山国隊の鼓笛行進が行われていることが記されている。
ネットで見つけた2013年の山国隊の動画を紹介しておく。
今年の例祭日の日程はあまりネットでは案内されていないようだが、パンフレットの通りだとすると4月23日に挙行されるということになる。この時期なら、今年の場合は、まだ黒田地区や常照皇寺の桜が楽しめる時期ではないだろうか。
今回紹介した常照皇寺と黒田百年桜は満開の写真をお見せできなかったが、京北の桜の名所は数多くあって、満開の桜の写真は次回に紹介することに致したい。
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【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。よかったら覗いてみてください。
端午の節句と「鯉のぼり」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-143.html
端午の節句は「ちまき」か「柏餅」か
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-231.html
鳥居は神社のものなのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-56.html
五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-11.html
天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-12.html
明治維新の魁(さきがけ)とされる生野義挙のこと
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-479.html

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