長崎の原子爆弾の「不発弾」を、ソ連に差し出そうとした大本営参謀の話

その中に、昭和20年(1945)8月27日付で関東軍から大本営参謀次長河辺虎四郎宛に「特別緊急指定」で送られた機密電報がある。
上の画像がその機密文書のコピーであるが、ここにはこう記されている。
「原子爆弾保管の件 長崎より東京に持ち帰りたる不発原子爆弾を速やかに『ソ』連大使館内に搬入保管しおかれたし」
この電文を素直に読めば、長崎に落とされた原爆は2つあり、1つが不発弾であったということになる。その不発弾を終戦の日から12日後の日付で、速やかにソ連大使館に運んでほしいと大本営の河辺次長に指示しているのである。

【瀬島龍三】
この電報の主任の欄には「瀬島」と書かれているが、当時大本営参謀であった瀬島龍三のことである。若い世代の方はこの人物を御存知ないかもしれないが、戦後は伊藤忠商事の会長や、中曽根康弘元首相の顧問などの多くの要職に就任し、長い間わが国の政治経済界に大きな影響力を持った人物なのだが、平成19年(2007)に95歳でこの世を去った。
瀬島は終戦直前の昭和20年7月に関東軍作戦参謀として満州に赴任し、わが国が降伏した4日後の8月19日以降、ジャリコーウォで行われたソ連軍との停戦交渉に参加している。
長崎に落とされた原子爆弾の1つが不発弾であったという話はにわかには信じがたいところだが、旧ソ連軍の通訳であったチタレンコの手記に「不発原子爆弾」についての記述があるという。

共同通信社社会部記者が著した『沈黙のファイル』に、その手記の該当部分の概要が紹介されている。
不意に日本軍の大本営の代表がソ連軍司令部を訪れてきて、チタレンコは司令官から30分ほど相手をするようにと命じられ、相手が退屈しないように広島と長崎に落とされた原爆を話題にしたところから話が始まっている。チタレンコの手記では交渉した相手の名前を失念したために、文中では『彼』と記している。
「応接室でチタレンコは彼に尋ねた。
『あなた方、日本の最高幹部では米軍の新兵器をどう評価しているのか? また、それは日本の降伏にどんな役割を果たしたのか?』
『原爆は実に強力な兵器だ。本当に想像を絶する破壊力だ』
『彼』はそう答え、原爆の犠牲者を挙げた後で続けた。
『降伏の原因となると、主な役割を果たしたのは原爆でなく、関東軍の急激な敗北だった。これで日本は後方を奪われ、抵抗不能となった……米国は日本に原爆を3個投下してストックを使い果たしてしまった。』
『日本に落とされた原爆は3個ではなく、2個だ。1つは広島に、もう1つは長崎だ』とチタレンコ。
『いいや』と『彼』は首を振った。
『米国は日本に3個投下した。広島に1つ、長崎に2つだ。うち1つが爆発しなかった。』
チタレンコが興味をそそられ『その不発弾はどうしたのか』と聞くと、『彼』が答えた。
『われわれの現状で何ができるのだ。不発弾はあるが、米軍が来て持ち去る。それですべてが終わる』
『彼』はチタレンコを見詰め、一呼吸置いて付け加えた。
『われわれは喜んでそれをあなた方に渡すのだが』
チタレンコは大笑いした。信じられない話だった。
『なぜ日本は急にわれわれに原爆を渡そうとするのか? しかも、喜んで』
『彼』が真剣な表情で言った。
『われわれの国を占領するのは米軍だろう。もし米軍が原爆を独占したら、われわれはおしまいだ。われわれをひざまづかせ、隷属させ、植民地にして日本は二度と復興できなくなる。もし原爆がソ連にもあれば、われわれは近い将来大国間でしかるべき地位を占めることができる』
チタレンコは手記に『この論拠は非常に説得力があるように思えた』と書いている。
…私と彼は話がついた。直接電話で東京都連絡を取り、原爆を我々に渡すという確証を得て、受け取りに東京に飛ぶだけだ。私は彼に提案の礼を言い、その提案を司令部に報告すると言った。『報告してください』と彼は言った。『どうかわれわれにはもう何日ではなく、何時間しか残っていないことを考慮してください。ソ連がわれわれから原爆を受け取ることを決定したら、なるべく早く行動しなくてはいけない。米国人が日本人に上陸する前、原爆がわれわれの支配下にあるうちに』
大本営代表の『彼』が出て行った後、チタレンコはすぐ執務室にいた政治将校フェデンコに報告した。
説明を聞き終えたフェデンコはすっと立ち上がり、窓辺に向かった。チタレンコの耳につぶやきが聞こえた。
『信じられない。日本がわれわれに原爆譲渡の提案をするとは。これはとてつもないことだ。』」(『沈黙のファイル』p.169~172)

【朝枝繁春(左)と周恩来(中央)と辻正信(右)[1957年に国交のない中華人民共和国を訪問]】
『沈黙のファイル』によると、この時にチタレンコに対して不発の原子爆弾提供を申し出た人物は瀬島龍三ではなく、大本営参謀の朝枝繁春だったという。
朝枝は、8月18日に東京から満州国の首都・新京に出発する前に、羽田空港で長さ1.5m、直径約30cmのジュラルミンの円筒状の物体を見て、長崎の原爆の不発弾との話を聞いている。飛行機の中で、もしこの不発弾をソ連に渡したらどうなるかと考え、電報用紙に文案を書いて、権限のある瀬島に頼んで打電してもらったと証言しており、冒頭の電文はその時のもののようである。
この電文で記されている通り不発弾が存在しそれがソ連に渡ったために、ソ連は随分短期間で原爆開発に成功したと考える人もおられるようだが、ネットでいろいろ探してもソ連にその「不発弾」を入手したという記録もなければ、アメリカが長崎に2発の原爆を落として一つは失敗したという記録もない。
元全国紙社会部記者であった新恭(あらた・きょう)氏のブログ『永田町異聞』によると、朝枝繁春は、冒頭の機密文書が斎藤六郎氏が持ち帰った大量の書類の中から発見された時に、メディアのインタビューに対し「それは原子爆弾と違う。ラジオゾンデである」と答えたという。
https://ameblo.jp/aratakyo/entry-10157993563.html
「ラジオゾンデ」というのは原爆投下と共に落下傘で投下され、爆風や熱線の威力を計測してそのデータを自動送信する装置で、実際に長崎では3個が投下されている。
『永田町異聞』によると、平成19年12月7日の衆議院外務委員会で、衆議院の松原仁議員がこの機密電報のコピーを出席者に配布して、「(ラジオゾンデは)わずか200gや300gのものであり、不発原子爆弾と間違えるだろうか」と朝枝証言に疑問を投げかけたそうだ。
衆議院の議事録で確認すると、松原議員は「原子爆弾の技術というのは極めて重要でありますから、恩義を売ることによって日ソのいわゆる終戦交渉を有利にしようという、瀬島さんの一つの判断があったと思う」と述べ、斎藤六郎氏が持ち帰った膨大な文書を精査し、国立公文書館に資料を移管すべきではないかと提案している。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000516820071207005.htm

今日のラジオゾンデはかなり軽量化が図られていて今では100g以下になっているようだが、当時のものはかなり大型であったことを松原議員は御存知ではなかったようだ。長崎の原爆資料館にその現物が展示されていて、ネットでその画像を見ることが出来る。
画像だけでは正確な大きさはわからないが、説明板の活字の大きさから推定して、朝枝証言の「長さ1.5m、直径約30cm」に近く、彼が羽田空港で見たのはおそらくこのラジオゾンデと同一のものであったと思われる。この大きさなら、知識のない人間は「原爆の不発弾」だと考えてもおかしくないと思う。次のURLにその画像がある。
http://ichyamada.jugem.cc/?eid=716
ネットでいろいろ探していると作家の檜山良昭氏の『閑散余録』というサイトに、8月6日の広島原爆の時にこのラジオゾンデの1つが広島の北に位置する亀山村の山林に落ちて、村では「不発弾が落ちた」と大騒ぎになり、陸軍が回収して陸軍の有末調査団に送られ、団員である新妻清一技術中佐によってすぐにラジオゾンデであることが認定されたことが書かれている。
http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/kansanyoroku/200708090922-9592430.html

【ラジオゾンデ落下地点(旧戸石村上川内)】
長崎でも同様なことが起こったようだ。
長崎のラジオゾンデ落下地点の1つである旧戸石村上川内に長崎市が制作した説明版があり、その解説文が次のURLの画像から読める。文中の「田結」、「江の浦」は残りの2つが落下した地点である。
https://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/54075559.html
「ここに飛来した落下傘は谷間の柿の木にかかり、ラジオゾンデはその下の水田の中に落ちた。
谷間の上にあった民家9軒は、この不意の飛来物を新型爆弾の不発弾と思い、村では半鐘を打ち鳴らし大騒ぎになった。同じような騒ぎは隣村の田結、江の浦でも起こった。その後、落下物は海軍等によって調査のため持ち去られた。」
現地で「不発弾」だと騒いでいたものを海軍等が回収し、羽田空港から調査団に引き渡される前に朝枝がそれを見て、「不発弾」との説明を受けて、そう思い込んだままソ連との交渉に向かっただけのことではなかったか。
そのあとでこの物体は、陸軍の専門家によってラジオゾンデであることが判明し、朝枝が瀬島に送らせた機密電報に対して大本営からは、「原爆の不発弾ではなく、ラジオゾンデである」との返事が届いたことと思われる。
おそらく朝枝はその時初めて「ラジオゾンデ」という名の測定機器の存在を知ったのであろう。そう理解すれば、戦後になってこの機密電報が発見された際に朝枝がマスコミのインタビューに対してこの機器の名前を即座に答えることができたことが納得できるのである。
結局、ソ連に不発弾を譲渡する話は朝枝の事実誤認が判明して流れてしまったのだが、今回私が問題にしたいのは、朝枝繁春にせよ瀬島龍三にせよ、ソ連に対して有利となるような情報を積極的に提供しようとした姿勢である。
実はこの時のソ連との交渉で、朝枝がソ連に有利な提案をしたのはこればかりではなかった。
再び『沈黙のファイル』の文章を引用させていただく。
「(朝枝は)終戦12日目の45年8月26日、新京のソ連軍司令部で朝枝は政治将校のフェデンコにこう申し入れた。
『米軍が上陸する前に朝鮮半島を全面占領し、対馬海峡を封鎖すべきだ』
フェデンコは朝枝の提案を極東軍総司令官ワシレフスキーに極秘で報告した。その報告書がモスクワの公文書館に残っている。
本日、参謀本部のアサダ(朝枝)中佐と会談した。…彼の報告内容は次の通りである。
『…ソ連軍が大陸、対馬、済州島を押さえ、対馬海峡の艦船の出入りを封鎖すれば、日本を占領した米軍との関係でより有利な立場を得る。それだけでなく、ソ連がこのとおりに展開すれば米軍の大陸進出を阻み、国際社会でのソ連の重みを増すことになる。このため参謀本部、軍中枢部は上記の地域について連合国が最終決定を下す前に、連合国抜きにソ連の利益となる決定に持ち込むべきだと考えている。…この参謀本部と軍中枢部の意見は国防大臣、外務省、天皇側近には秘密にされている。日本は完全に敗北した。大陸に残された約200万人の軍隊は抵抗の力がない。』」(同上書 p.173~174)
8月24日にソ連軍は朝鮮半島の平壌を占領したばかりで、米軍は太平洋を北上中であったようだが、大本営参謀とは言えわずか33歳の朝枝が、国防大臣、外務省、天皇側近の意向を確認することもなく、軍を代表する立場でソ連と重要な交渉が可能であったのはなぜかと誰でも思う。

【2013年8月11日付の産経新聞の記事】
このブログで何度も書いてきたが、終戦の少し前には共産主義者が日本軍の枢要な地位を占めていたことをまず知る必要がある。上の画像は昭和20年(1945)6月にスイスのベルン駐在の中国国民政府の陸軍武官が米国からの最高機密情報として、『日本政府が共産主義者達に降伏している』と重慶に機密電報で報告していたことが、ロンドンの英国立公文書館所蔵の最高機密文書ULTRAに保管されていたことを伝える新聞記事である。
また、昭和29年(1954)に在日ソ連大使館の二等書記官という肩書を持つラストヴォロフKGB中佐が東京から米国に亡命した事件があった。(ラストヴォロフ事件)
彼はソ連の工作員で日本の共産化のための工作を行なっていたのだが、ラストヴォロフは米国で、モンゴルのウランバートルにあった「第七〇〇六俘虜収容所」という偽装看板の特殊学校で、11名の厳格にチェックされた共産主義者の日本軍人を、共産革命のための工作員として養成したという証言をしたという。
その11名のうち氏名が判明しているメンバーには、朝枝繁春と瀬島龍三のほか、現在の日本共産党委員長・志位和夫の叔父の志位正二や、終戦工作の原案である『今後の対ソ施策に対する意見』で、(1)米国ではなくソ連主導で戦争終結 (2)領土を可能な限りソ連に与え日本を包囲させる (3)ソ連、中共と同盟結ぶ――と書いた種村佐孝がいたことが分かっている。朝枝も瀬島も志位も種村も、ソ連お墨付きの共産主義思想の持主であったことを知るべきである。
なぜ日本軍の中枢部に共産主義者が多数入り込んだかについては、1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内容を読めば見当がつく。
「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…
帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」

このような考え方はレーニンが最初に考案したもので『敗戦革命論』と呼ばれているのだが、わが国の軍隊はこの決議通りに、わが国で共産主義革命を成功させるために多くの若者が入隊し、日本政府の方針を無視して暴走して戦争に突入させ、資本主義国同士を戦わせて双方を疲弊させたのちに革命を仕掛け、ソ連が参戦すると国境周辺の領土をソ連に差し出し、あわよくばわが国の共産主義国化をはかろうと考えていたのだと思う。
少し考えればわかる事だが、いつの時代もどこの国でも、ある国家を転覆させることを狙っているような勢力にとっては、情報収集や世論誘導のためマスコミや政治家、労働者などの工作も重要だが、武器と兵士を合法的に使える軍隊の工作が最も重要かつ不可欠である。

第6回コミンテルン大会は1928年(昭和3年)7月17日から9月1日までモスクワで開かれたのだが、神戸大学付属図書館デジタルアーカイブで新聞記事を検索すると同年の10月19日付の国民新聞にソ連の日本軍工作について書かれた記事を見つけることが出来る。
その記事には、その年の6月以降ソ連がハルピンで露骨な日本軍工作を始めたことが書かれているので、ターゲットは明らかに関東軍である。終戦の17年も前から、関東軍はソ連の赤化工作に曝されていたことを知らねばならない。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071350&TYPE=HTML_FILE&POS=1
前回の記事で、ソ連参戦後に関東軍が満蒙開拓団をはじめ多くの在留邦人を見捨てて朝鮮国境付近まで一気に退却したことを書いたが、このような関東軍の行動は、ソ連軍にわが国土を存分に占領させ、いずれわが国を共産主義国家たらしめようとした思想の持主が、この時期に日本軍の主導権を握っており、また関東軍に対してソ連が重点的に工作活動をしていたことを知ってはじめて腑に落ちる話なのである。

「ソ連などの共産主義国家にとって都合の悪い」史実はその気になって探せばいくらでも出てくるのだが、戦後の長きにわたり左寄りの学者や日教組やマスコミや官僚がこのような史実を徹底的に隠蔽して、「わが国だけが悪かった」とする「自虐史観」を固定化させる役割を果たしてきた。彼らにとってはそういう歴史をわが国民に広めることが好都合であったのだろうが、こんな歴史観に国民がいつまでも洗脳されていては、わが国の富はいつまでたっても反日国家から毟り取られ続けることになる。
今年2017年はロシア革命からちょうど100年にあたる年である。
ロシア革命が成功した後、レーニンは世界革命を遂行すべくコミンテルン(共産主義インターナショナル)を結成し、世界各国の軍隊、マスコミ、政治家、労働者などに工作員を送り込んでいる。
20世紀の歴史はソ連やコミンテルンの活動を抜きには語れないと思うのだが、そういう観点からわが国や世界の近現代史が全面的に書き替えられる日は来るのだろうか。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓



【ご参考】
学生時代には張作霖爆殺事件(満州某重大事件)は関東軍が仕掛けたと学んだのだが、ロシア人のドミトリー・プロホロフという歴史家がGRU(旧ソ連赤軍参謀本部情報総局)の未公開文書に基づいて、張作霖爆殺事件の実行犯はコミンテルンの工作員であったことを明らかにしている。当時のイギリスの外交文書においてもこの事件はソ連の犯行であり日本軍が共謀したと結論付けている。そうだとすれば、関東軍の一部は、昭和3年の時点でにすでにコミンテルンの工作に協力していたことになる。
関東軍に限らず、日本軍はかなりソ連の工作にかかっていたと思われるのだが、このような視点からマスコミなどで報じられることは皆無と言って良い。良かったら、他の記事も覗いてみてください。
「満州某重大事件」の真相を追う~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.html
「満州某重大事件」の真相を追う~~その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.html
昭和初期が驚くほど左傾化していたことと軍部の暴走とは無関係なのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html
盧溝橋事件の後で、なぜ我が国は中国との戦いに巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-250.html
わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-447.html
国内で徹底抗戦と言いながらソ連参戦後すぐに満州を放棄した日本軍~~ポツダム宣言8
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-298.html
なぜ中国大陸に大量の日本人孤児や婦人が残されたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-408.html

- 関連記事
-
-
尾崎・ゾルゲらの一斉検挙とその後 2013/10/28
-
特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか 2013/11/02
-
特高が送り込んだスパイに過剰反応した日本共産党 2013/11/08
-
軍の圧力に屈し解明できなかった、中国共産党に繋がる諜報組織 2013/11/14
-
昭和初期以降、わが国の軍部が左傾化した背景を考える 2015/09/11
-
ロシア革命後、ソ連はいかにして共産主義を全世界に拡散させたのか 2015/09/17
-
日本共産党が軍を工作するために制作したパンフレットなどを読む 2015/09/23
-
なぜわが国が中国との戦争に巻き込まれたのか…興亜院政務部の極秘資料を読む 2015/09/29
-
南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか 2015/10/05
-
日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか 2015/10/11
-
わが国はいかにして第二次世界大戦に巻き込まれたのか 2016/05/06
-
『近衛上奏文』という重要文書がなぜ戦後の歴史叙述の中で無視されてきたのか 2016/05/13
-
長崎の原子爆弾の「不発弾」を、ソ連に差し出そうとした大本営参謀の話 2017/08/17
-
コミンテルンの工作活動を我が国の当時の新聞はどう報じていたのか 2017/08/25
-
尼港事件の大惨事を教科書やマスコミはなぜ伝えないのか 2017/09/01
-