江戸幕末期にお金で武士身分を獲得する相場が存在した背景を考える
菊池寛の『大衆維新史読本』という本を電子書籍で見つけて読んでいると、面白いことが書かれていたので紹介したい。文中の「ペルリ」とは嘉永6年(1853)に浦賀沖に姿を現した、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーのことである。

「甲子夜話*に『米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠(いんろう)、小倉の合羽の装束のごとき、みな下下細工をいたし、第一それに精をいだし、博奕(ばくえき)する隙なく、第二に身持堅気(かたぎ)になり、仕置も致し能(よ)く候』とあるが、これは各藩に於ける下級貧窮の武士の内職をあばいたものである。
ペルリの来た年の井上三郎右衛門の上書(じょうしょ)にも、旗本**の貧困ぶりを叙して、
『旗本困窮仕(つかまつ)り候者、五百五十石にても、窮迫(きゅうはく)仕り候者共、夏の蚊帳(かや)調え候儀も行き届かず、冬の夜寒気を凌(しの)ぎ候夜具も無之(これなく)』
という有様で、結局金のある婿養子でも探したほうが良いということになる。その金額は大体きまっており、百石***五十両、急養子は百石七八十両から百両という相場である。
この株があるため、金を持っているものは金で株を買って武士になれるわけであり、そのため民間の偉材が武士になれるという拾い物もあるわけだ。伊藤博文なども、この持株の買い手で彼が百姓だったら、恐らくあれだけの仕事はできなかっただろう。」(『大衆維新史読本(上巻)』p.30~31)
*甲子夜話:江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)により書かれた随筆集。
**旗本:幕府に直接、仕えるえる家来を 旗本・御家人といい、旗本は石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。
***石(こく):大人一人が1年で食べる米の量。1石=約180ℓ=約150kg。

【伊藤博文】
Wikipediaによると伊藤博文は百姓・林十蔵の長男として生まれ、「12歳ころから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
伊藤博文の場合は貧しい農家の生まれで、武士身分を得るにあたり誰がどの程度の対価を払ったかはどうかはよくわからなかった。長州藩のケースとは異なるとは思うが、菊池寛の叙述によれば徳川家の家臣である旗本身分を得るための相場は百石あたり50両~100両だったという。
金を払って武士身分となることができたことに興味を覚えて調べていくと、この時代に武士身分を得た人物には著名な人物が結構いる。

【近藤勇】
新選組組長の近藤勇はWikipediaによると、「武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる。」とあり、嘉永2年10月に、剣豪・近藤周助の養子となり、「周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る。のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。」と複雑な過程を経て武士となり、のちに幕臣となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%8B%87

【土方歳三】
新選組副長の土方歳三も武蔵国多摩郡石田村の農家に生まれ、天然理心流の剣術道場で近藤勇と出会い、新選組での活躍ののち慶応3年(1867)に幕臣に取り立てられている。

【榎本武揚】
箱館五稜郭に立てこもって明治新政府に最後まで抵抗した旧幕府軍のリーダーである榎本武揚も、父の円兵衛は備後国深安郡湯田村の庄屋の出で、代々の幕臣である榎本家の株を買って武士身分を得た経緯にある。

【渋沢栄一】
また、第一国立銀行お東京証券取引所などの設立・経営に関わり「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一も武蔵国榛沢郡血洗島村の農家の出身で、交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に仕えることになったという。
武士という身分を得るために対価を払ったとの事例が各地で記録されているようで、その相場は藩によって差があるようなのだが、金額の多寡により獲得できる武士の地位が違っていたというのは面白い。

Google検索で「盛岡藩」「売禄」というキーワードで検索すると、半澤周三氏の著書『大島高任』(PHP研究所刊)の一部を読むことができる。大島高任は安政4年(1858)にわが国で最初の商用高炉を建造し、鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功した人物で、明治期においても鉱業界の第一人者として活躍し「日本近代製鉄の父」と呼ばれている。父の大島周意は盛岡藩の藩医で、大島高任が父から聞いた話として盛岡藩の財政は北方警備の出費がかさみ、資金捻出にあたって、藩は身分を買える売禄制度を認可したことが書かれている。
「父の話によれば、この売禄なるものは嘉永元年ころから始まっている。百姓、町人でも十五両で一生名字帯刀、五十両で御与力格、九十両で御給人、すでに御給人であるものは三十両で御城下支配となれる。無禄の町医者も二十両で医格、さらに十両の上乗せで御役医である。」
盛岡藩の貧しさがよくわかる話だが、ではこの当時、現在価値にしてどの程度のお金があれば武士になることができたのであろうか。
日本銀行金融研究所の『貨幣博物館』というサイトによると、1両の価値についてこう解説されている。
「1つの目安として、いくつかの事例をもとに当時のモノの値段を現在と比べてみると、18世紀においては、米価で換算すると約6万円、大工の賃金で換算すると約32万円となります。なお、江戸時代の各時期においても差がみられ、米価から計算した金1両の価値は、江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円、幕末で約4千円~1万円ほどになります。」
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/a5.html
幕府に仕えるか、どこかの藩に仕えるかにより金額は異なるようだが、幕末時期に武士の資格を得ることは、豪農や豪商にとってはそれほど難しいことではなかったようなのだ。
また、この『貨幣博物館』の解説を米価の推移という視点から考えると、江戸時代の後半期、特に幕末期に随分米価が高騰していたことがわかる。しかし米価が急騰したというだけでは武家が貧しくなったことの説明にはならない。
武士の俸給は石高をベースに米や現金で支給され、自家消費を除いた米は換金して様々な支払いに充てていたのだが、武士には俸禄に匹敵する軍役を義務付けられており、部下の雇用のみならず刀や弓矢などの多数の武器を備えておくことが必要であった。もし、米価が他の諸物価と比較して突出して高いという状態であったなら、武士はそれを換金することで今まで以上に豊かになっていただろうし、その逆のケースなら、武士の生活は困窮状態に陥ることになる。
次のURLに戦国末期から江戸幕末までの諸物価の推移がまとめられているが、例えば天保元年(1830)から慶応元年(1865)の35年間の間に、米価は2倍程度上昇したが、酒は4倍程度、砂糖は3倍程度、卵は5倍程度、木綿は10倍程度、木炭は6倍程度と生活必需品の価格が米よりもかなり高くなっていたことがわかる。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J078.htm

【菊池寛】
菊池寛は武士の窮乏の原因についてこう解説している。
「それは一言で言うならば、米の経済の破綻なのである。すでに相当に高い程度に発達した貨幣経済の当時にあって、武士は相変わらず領主からその俸禄を米で支給され、これを貨幣に替えてその生活を維持しているわけである。しかも、米はその本質上価額が不定であり、他の物価が高くなる割には、高くならない。その差が全部武家経済の台所を脅かすにいたるのは当然である。
封建社会の中堅ともいうべき武士が、こんな困窮の中に段々と追い込まれるとすれば、その社会が早晩大きな変革を要求するであろうことは、誰の目にも明らかなわけである。」(同上書 p.32)

だから下級武士が、少しでも支出を減らそうと屋敷に畑を開き鍬を握って野菜などを作ったり、また現金収入を得ようと内職に励んだわけで、それが多くの地域で地元の名産品となっている。
『甲子夜話』に武士の内職仕事として「米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠、小倉の合羽の装束」が紹介されていたが、小田原提灯や大和郡山の金魚、山形天童市の将棋の駒なども有名なところで、幕府の旗本や御家人も、下谷の金魚、御徒町の朝顔、牛込の提灯などの稼ぎで苦しい生活をやりくりしていた。
あるいは金持ちの家から養子をとってその持参金を当てにしたということも多かったようで、その相場までもが存在していたのである。
一方、藩主や将軍の財政状況はどんな状態であったのか。引き続き菊池寛の文章を紹介する。
「また武士にこんな不自由をさせている領主や将軍はどんな生活振りかというに、これは台所が大きいだけ、その不足も目に立つわけである。
経済禄に、
『今の世の諸侯は、大も小も皆首をたれて、町人に無心を言い、江戸、京都、大阪そのほか処々の富商をたのんで、その続けばかりにて世を渡る』
とあるが、要するに領内の金持ちに、借金の相談ばかりで、寧日なしである。
安政三年には、御三家の尾張大納言が領内の町人を集めて、直々の金銭を試みるという仕末である。
諸侯貧しくして、幕府だけが独り富んでいるわけはない。幕府の財政も、一路その衰亡のコースを辿っている。これを数字でいえば、安政五年に、勘定奉行が大老井伊直弼に報告した財政状態は、文化八年から十年までの歳出入の不足分は金で二十二萬両、米で四萬石もある。それが天保五年から六年になると、赤字が金で五十九萬両にも達している。現代の人間から見るとたった五十九萬両と言うかも知れぬが、当時の幕府の総収入が百十五萬両であるから丁度その半分にあたる。もって幕府の困窮振りも察せられるわけである。
武士階級の貧困化は、直ちに農民の上に掩(おお)いかぶさってくる。田祖の取り立ての過酷さとなって現れてくるのである。
徳川幕府の対農民政策のモットーは、家康以来一貫しており、
『郷村の百姓は死なぬように、生きぬように』
『農民は五穀の価を知らざるを良農とす』
『農(のう)は納(のう)なり』
『胡麻(ごま)の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』
等々の原則が厳として存在して、その人間的な再程度の要求さえ認められていないのである。脱胎、離村による農村人口の減少、田地の荒廃、そして農民の暴動など、農村の暗黒面はいよいよ封建社会の末期的症状の一つとなって表れてきているのである。
単純なる一揆の外に、天誅組や、水戸天狗党などに、その地方の農民が沢山加わっていたことなど、維新史の展開とともに、われわれの注意を惹(ひ)くものが多い。」(同上書 p.32~34)
米以外の商品の価格が高騰して最も困るのは、自家消費分を除いた米を換金することで部下の雇用や軍役にかかわる諸経費を支払い、その残りを生活費に回していた武士階級であろう。その影響が回りまわって農民や町人に及ぶことになるわけだが、多くの歴史書は幕府が農民を抑圧したという視点で江戸時代を描いていることに違和感を覚えるのは私ばかりではないであろう。「階級闘争史観」で単純に論じることは、この時代の本質をとらえているとは思えないのだ。
私には菊池寛のこの解説が分かりやすい。
「武士や農民の貧窮化に比して、時代の寵児として、経済生活の上に浮かびあがってきたのは、町人階級である。しかしそれだけの筋力を要した商人や高利貸しが、傲然として社会生活の上に立っていたかというと、これがまた四民の最下位に置かれていたのである。農民より低いとされているのである。だから百二十萬両の巨富を得た淀屋辰五郎でさえ、わずかの欠点を指摘されて闕所(けっしょ)にされても、文句一つ言えない時代なのである。金力を以て、相当羽振りを利かせているだけに、政治的に無力化されればされるほど、彼ら町人の不平は大きいわけである。
まず嘉永末期の日本は、ざっとこうした状態にあったのである。文字通りの四民困憊である。
どの階級も現状不安であり、現状不満である。行き詰っているのである。
武士の商人化、商人の僭上、それを取り巻いた一般的な下剋上の精神。現在から抜け出ようとする革新思想、復古思想など、かろうじて作られた三百年の封建の殻は、今や内部的に熟れ切って、一撃の下に、崩れ出しそうな時代なのであった。
そこへ、ペルリの率いた黒船が来たのである。かろうじて支えられていた、封建制度の鎖の一筋はたち切られたのである。徐々ではあるが、社会的の地すべりが始まった。断層がそこにも此処にも、不気味な肌をあらわにして来た。」(同上書 p.34~35)
徳川幕府は幕藩体制の財政基盤として徹底した米本位制度である石高制を実施し、藩の規模から武士の給与に至るまで、すべてが米の生産能力で換算され、それに基づいて年貢が課せられていた。各領主は自家消費分を除いた米を換金して必要なものを購入していたのだが、この制度は諸物価が安定していた時代にはあまり問題が生じなかった。
しかしながら、米の生産量が増え貨幣経済が発達して、米の相場以上に生活必需品の価格が高騰したことから、石高制の矛盾が露呈していくこととなる。
また公家も武士階級と同様な収入構造にあった。
中には和歌や書など学問の家元としての副収入のある者もいたのだが、多くの公家の収入は公家領から得られる年貢に依存していて、下級公家や新しい公家は下級武士並みの収入だったという。幕末の諸物価の高騰は公家の生活を困窮状態に陥らせたことは確実だ。
江戸幕府を倒し明治維新に導いた中心メンバーの多くは下級武士や公家であったのだが、なぜ彼らが討幕運動にのめり込んでいったのかというと、幕末に生活必需品の価格が急騰し、彼らの支給米では厳しい生活に追いやられていたことと無関係だとは思えない。
いつの時代もどこの国でも、普通の人々が普通の努力をして普通の生活を営むことが絶望的になったときに、若い世代を中心に、世の中を変革させようとするエネルギーが蓄積されていくのだと思う。
**************************************************************

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓



【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-493.html
明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html
明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html
江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html
韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-233.html
伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html
なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-235.html


「甲子夜話*に『米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠(いんろう)、小倉の合羽の装束のごとき、みな下下細工をいたし、第一それに精をいだし、博奕(ばくえき)する隙なく、第二に身持堅気(かたぎ)になり、仕置も致し能(よ)く候』とあるが、これは各藩に於ける下級貧窮の武士の内職をあばいたものである。
ペルリの来た年の井上三郎右衛門の上書(じょうしょ)にも、旗本**の貧困ぶりを叙して、
『旗本困窮仕(つかまつ)り候者、五百五十石にても、窮迫(きゅうはく)仕り候者共、夏の蚊帳(かや)調え候儀も行き届かず、冬の夜寒気を凌(しの)ぎ候夜具も無之(これなく)』
という有様で、結局金のある婿養子でも探したほうが良いということになる。その金額は大体きまっており、百石***五十両、急養子は百石七八十両から百両という相場である。
この株があるため、金を持っているものは金で株を買って武士になれるわけであり、そのため民間の偉材が武士になれるという拾い物もあるわけだ。伊藤博文なども、この持株の買い手で彼が百姓だったら、恐らくあれだけの仕事はできなかっただろう。」(『大衆維新史読本(上巻)』p.30~31)
*甲子夜話:江戸時代後期に肥前国平戸藩第9代藩主の松浦清(号は静山)により書かれた随筆集。
**旗本:幕府に直接、仕えるえる家来を 旗本・御家人といい、旗本は石高が1万石未満で、儀式など将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称。
***石(こく):大人一人が1年で食べる米の量。1石=約180ℓ=約150kg。

【伊藤博文】
Wikipediaによると伊藤博文は百姓・林十蔵の長男として生まれ、「12歳ころから父が長州藩の蔵元付中間・水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
伊藤博文の場合は貧しい農家の生まれで、武士身分を得るにあたり誰がどの程度の対価を払ったかはどうかはよくわからなかった。長州藩のケースとは異なるとは思うが、菊池寛の叙述によれば徳川家の家臣である旗本身分を得るための相場は百石あたり50両~100両だったという。
金を払って武士身分となることができたことに興味を覚えて調べていくと、この時代に武士身分を得た人物には著名な人物が結構いる。

【近藤勇】
新選組組長の近藤勇はWikipediaによると、「武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる。」とあり、嘉永2年10月に、剣豪・近藤周助の養子となり、「周助の実家である嶋崎家へ養子に入り、嶋崎勝太と名乗る。のちに正式に近藤家と養子縁組し、嶋崎勇と名乗ったのちに、近藤勇を名乗った。」と複雑な過程を経て武士となり、のちに幕臣となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%8B%87

【土方歳三】
新選組副長の土方歳三も武蔵国多摩郡石田村の農家に生まれ、天然理心流の剣術道場で近藤勇と出会い、新選組での活躍ののち慶応3年(1867)に幕臣に取り立てられている。

【榎本武揚】
箱館五稜郭に立てこもって明治新政府に最後まで抵抗した旧幕府軍のリーダーである榎本武揚も、父の円兵衛は備後国深安郡湯田村の庄屋の出で、代々の幕臣である榎本家の株を買って武士身分を得た経緯にある。

【渋沢栄一】
また、第一国立銀行お東京証券取引所などの設立・経営に関わり「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一も武蔵国榛沢郡血洗島村の農家の出身で、交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に仕えることになったという。
武士という身分を得るために対価を払ったとの事例が各地で記録されているようで、その相場は藩によって差があるようなのだが、金額の多寡により獲得できる武士の地位が違っていたというのは面白い。

Google検索で「盛岡藩」「売禄」というキーワードで検索すると、半澤周三氏の著書『大島高任』(PHP研究所刊)の一部を読むことができる。大島高任は安政4年(1858)にわが国で最初の商用高炉を建造し、鉄鉱石製錬による本格的連続出銑に成功した人物で、明治期においても鉱業界の第一人者として活躍し「日本近代製鉄の父」と呼ばれている。父の大島周意は盛岡藩の藩医で、大島高任が父から聞いた話として盛岡藩の財政は北方警備の出費がかさみ、資金捻出にあたって、藩は身分を買える売禄制度を認可したことが書かれている。
「父の話によれば、この売禄なるものは嘉永元年ころから始まっている。百姓、町人でも十五両で一生名字帯刀、五十両で御与力格、九十両で御給人、すでに御給人であるものは三十両で御城下支配となれる。無禄の町医者も二十両で医格、さらに十両の上乗せで御役医である。」
盛岡藩の貧しさがよくわかる話だが、ではこの当時、現在価値にしてどの程度のお金があれば武士になることができたのであろうか。
日本銀行金融研究所の『貨幣博物館』というサイトによると、1両の価値についてこう解説されている。
「1つの目安として、いくつかの事例をもとに当時のモノの値段を現在と比べてみると、18世紀においては、米価で換算すると約6万円、大工の賃金で換算すると約32万円となります。なお、江戸時代の各時期においても差がみられ、米価から計算した金1両の価値は、江戸初期で約10万円前後、中~後期で4~6万円、幕末で約4千円~1万円ほどになります。」
https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/a5.html
幕府に仕えるか、どこかの藩に仕えるかにより金額は異なるようだが、幕末時期に武士の資格を得ることは、豪農や豪商にとってはそれほど難しいことではなかったようなのだ。
また、この『貨幣博物館』の解説を米価の推移という視点から考えると、江戸時代の後半期、特に幕末期に随分米価が高騰していたことがわかる。しかし米価が急騰したというだけでは武家が貧しくなったことの説明にはならない。
武士の俸給は石高をベースに米や現金で支給され、自家消費を除いた米は換金して様々な支払いに充てていたのだが、武士には俸禄に匹敵する軍役を義務付けられており、部下の雇用のみならず刀や弓矢などの多数の武器を備えておくことが必要であった。もし、米価が他の諸物価と比較して突出して高いという状態であったなら、武士はそれを換金することで今まで以上に豊かになっていただろうし、その逆のケースなら、武士の生活は困窮状態に陥ることになる。
次のURLに戦国末期から江戸幕末までの諸物価の推移がまとめられているが、例えば天保元年(1830)から慶応元年(1865)の35年間の間に、米価は2倍程度上昇したが、酒は4倍程度、砂糖は3倍程度、卵は5倍程度、木綿は10倍程度、木炭は6倍程度と生活必需品の価格が米よりもかなり高くなっていたことがわかる。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J078.htm

【菊池寛】
菊池寛は武士の窮乏の原因についてこう解説している。
「それは一言で言うならば、米の経済の破綻なのである。すでに相当に高い程度に発達した貨幣経済の当時にあって、武士は相変わらず領主からその俸禄を米で支給され、これを貨幣に替えてその生活を維持しているわけである。しかも、米はその本質上価額が不定であり、他の物価が高くなる割には、高くならない。その差が全部武家経済の台所を脅かすにいたるのは当然である。
封建社会の中堅ともいうべき武士が、こんな困窮の中に段々と追い込まれるとすれば、その社会が早晩大きな変革を要求するであろうことは、誰の目にも明らかなわけである。」(同上書 p.32)

だから下級武士が、少しでも支出を減らそうと屋敷に畑を開き鍬を握って野菜などを作ったり、また現金収入を得ようと内職に励んだわけで、それが多くの地域で地元の名産品となっている。
『甲子夜話』に武士の内職仕事として「米澤の筆、鍋島の竹子笠、秋月の印籠、小倉の合羽の装束」が紹介されていたが、小田原提灯や大和郡山の金魚、山形天童市の将棋の駒なども有名なところで、幕府の旗本や御家人も、下谷の金魚、御徒町の朝顔、牛込の提灯などの稼ぎで苦しい生活をやりくりしていた。
あるいは金持ちの家から養子をとってその持参金を当てにしたということも多かったようで、その相場までもが存在していたのである。
一方、藩主や将軍の財政状況はどんな状態であったのか。引き続き菊池寛の文章を紹介する。
「また武士にこんな不自由をさせている領主や将軍はどんな生活振りかというに、これは台所が大きいだけ、その不足も目に立つわけである。
経済禄に、
『今の世の諸侯は、大も小も皆首をたれて、町人に無心を言い、江戸、京都、大阪そのほか処々の富商をたのんで、その続けばかりにて世を渡る』
とあるが、要するに領内の金持ちに、借金の相談ばかりで、寧日なしである。
安政三年には、御三家の尾張大納言が領内の町人を集めて、直々の金銭を試みるという仕末である。
諸侯貧しくして、幕府だけが独り富んでいるわけはない。幕府の財政も、一路その衰亡のコースを辿っている。これを数字でいえば、安政五年に、勘定奉行が大老井伊直弼に報告した財政状態は、文化八年から十年までの歳出入の不足分は金で二十二萬両、米で四萬石もある。それが天保五年から六年になると、赤字が金で五十九萬両にも達している。現代の人間から見るとたった五十九萬両と言うかも知れぬが、当時の幕府の総収入が百十五萬両であるから丁度その半分にあたる。もって幕府の困窮振りも察せられるわけである。
武士階級の貧困化は、直ちに農民の上に掩(おお)いかぶさってくる。田祖の取り立ての過酷さとなって現れてくるのである。
徳川幕府の対農民政策のモットーは、家康以来一貫しており、
『郷村の百姓は死なぬように、生きぬように』
『農民は五穀の価を知らざるを良農とす』
『農(のう)は納(のう)なり』
『胡麻(ごま)の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり』
等々の原則が厳として存在して、その人間的な再程度の要求さえ認められていないのである。脱胎、離村による農村人口の減少、田地の荒廃、そして農民の暴動など、農村の暗黒面はいよいよ封建社会の末期的症状の一つとなって表れてきているのである。
単純なる一揆の外に、天誅組や、水戸天狗党などに、その地方の農民が沢山加わっていたことなど、維新史の展開とともに、われわれの注意を惹(ひ)くものが多い。」(同上書 p.32~34)
米以外の商品の価格が高騰して最も困るのは、自家消費分を除いた米を換金することで部下の雇用や軍役にかかわる諸経費を支払い、その残りを生活費に回していた武士階級であろう。その影響が回りまわって農民や町人に及ぶことになるわけだが、多くの歴史書は幕府が農民を抑圧したという視点で江戸時代を描いていることに違和感を覚えるのは私ばかりではないであろう。「階級闘争史観」で単純に論じることは、この時代の本質をとらえているとは思えないのだ。
私には菊池寛のこの解説が分かりやすい。
「武士や農民の貧窮化に比して、時代の寵児として、経済生活の上に浮かびあがってきたのは、町人階級である。しかしそれだけの筋力を要した商人や高利貸しが、傲然として社会生活の上に立っていたかというと、これがまた四民の最下位に置かれていたのである。農民より低いとされているのである。だから百二十萬両の巨富を得た淀屋辰五郎でさえ、わずかの欠点を指摘されて闕所(けっしょ)にされても、文句一つ言えない時代なのである。金力を以て、相当羽振りを利かせているだけに、政治的に無力化されればされるほど、彼ら町人の不平は大きいわけである。
まず嘉永末期の日本は、ざっとこうした状態にあったのである。文字通りの四民困憊である。
どの階級も現状不安であり、現状不満である。行き詰っているのである。
武士の商人化、商人の僭上、それを取り巻いた一般的な下剋上の精神。現在から抜け出ようとする革新思想、復古思想など、かろうじて作られた三百年の封建の殻は、今や内部的に熟れ切って、一撃の下に、崩れ出しそうな時代なのであった。
そこへ、ペルリの率いた黒船が来たのである。かろうじて支えられていた、封建制度の鎖の一筋はたち切られたのである。徐々ではあるが、社会的の地すべりが始まった。断層がそこにも此処にも、不気味な肌をあらわにして来た。」(同上書 p.34~35)
徳川幕府は幕藩体制の財政基盤として徹底した米本位制度である石高制を実施し、藩の規模から武士の給与に至るまで、すべてが米の生産能力で換算され、それに基づいて年貢が課せられていた。各領主は自家消費分を除いた米を換金して必要なものを購入していたのだが、この制度は諸物価が安定していた時代にはあまり問題が生じなかった。
しかしながら、米の生産量が増え貨幣経済が発達して、米の相場以上に生活必需品の価格が高騰したことから、石高制の矛盾が露呈していくこととなる。
また公家も武士階級と同様な収入構造にあった。
中には和歌や書など学問の家元としての副収入のある者もいたのだが、多くの公家の収入は公家領から得られる年貢に依存していて、下級公家や新しい公家は下級武士並みの収入だったという。幕末の諸物価の高騰は公家の生活を困窮状態に陥らせたことは確実だ。
江戸幕府を倒し明治維新に導いた中心メンバーの多くは下級武士や公家であったのだが、なぜ彼らが討幕運動にのめり込んでいったのかというと、幕末に生活必需品の価格が急騰し、彼らの支給米では厳しい生活に追いやられていたことと無関係だとは思えない。
いつの時代もどこの国でも、普通の人々が普通の努力をして普通の生活を営むことが絶望的になったときに、若い世代を中心に、世の中を変革させようとするエネルギーが蓄積されていくのだと思う。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓



【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-493.html
明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html
明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html
江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html
韓国皇帝が伊藤博文を「韓国の慈父」と呼んだ経緯~~~伊藤博文暗殺その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-233.html
伊藤博文を撃ったのは本当は誰なのか~~~伊藤博文暗殺その2
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-234.html
なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-235.html

- 関連記事
-
-
幕末の孝明天皇暗殺説を追う 2010/09/01
-
「明治天皇すり替え説」を追う 2012/07/01
-
幕末の「ええじゃないか」は世直しを訴える民衆運動だったのか 2012/11/03
-
「桜田門外の変」と、井伊直弼の死が長い間隠蔽された事情 2013/03/02
-
生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか 2014/05/01
-
薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった 2014/05/05
-
薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった 2014/05/10
-
江戸幕末期にお金で武士身分を獲得する相場が存在した背景を考える 2017/10/06
-
攘夷や倒幕に突き進んだ長州藩の志士たちの資金源はどこにあったのか 2018/12/13
-