「鳥取県」の消滅から再置以降の時代と鳥取の不平士族の動き
2014年の県内総生産額で比較すると島根県が23,823億円に対し鳥取県が17,791億円、人口で比較しても島根県が697千人に対し鳥取県が576千人なので、経済力も人口も島根県のほうが上である。県庁所在地である松江市と鳥取市を比較しても、松江市の人口は206千人に対し鳥取市の人口は193千人。経済規模を調べても松江市の市内総生産8541億円に対し鳥取市は6419億円であり、いずれにおいても松江市の方が優位にある。
では、明治の初めの頃はどうであったのか。
Wikipediaの『府藩県三治制下の日本の人口統計』に明治維新から廃藩置県までの人口統計
が紹介されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E8%97%A9%E7%9C%8C%E4%B8%89%E6%B2%BB%E5%88%B6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
そのデータ(『明治史要』)を見ると、鳥取県の中心となった旧鳥取藩の人口が379千人であるのに対し、島根県の中心部となった旧松江藩は297千人で、総人口だけでなく華族の人口においても士族の人口においても旧鳥取藩の方が多かったことがわかる。
また、石高でいうと旧鳥取藩は32万5千石の大藩で、旧松江藩は18万6千石にすぎず、明らかに旧鳥取藩の方が格上であったのである。
にもかかわらず、明治9年の第二次府県統合で鳥取県が島根県に編入されて「鳥取県」という名前が消滅してしまった。

【廃藩置県(1871)第一次府県統合 斎藤忠光氏作成地図】
もう少し詳しく見ていこう。
上の地図は明治4年(1871)の廃藩置県(第1次府県統合)後の地図である。廃藩置県による府県統合の経緯については『日経電子版』の記事に地図とともに詳しく解説されている。この時点で3府302県から3府72県となり、現在の山陰両県の範囲に、鳥取県、島根県のほかに浜田県が存在していた。
http://college.nikkei.co.jp/article/51521018.html

【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】
ところが明治9年(1876)の第2次府県統合で、鳥取県、島根県、浜田県が統合され「島根県」と呼ぶことになった。
旧藩時代に鳥取藩は山陰地方で最大の藩であったのだが、明治9年(1876)の9月6日に、格下であったはずの島根県令から鳥取県庁に宛てて「今般鳥取県は本県と合併される」旨の布告が届いたのである。
鳥取の人々はこの布告をどう受け止めたのか。国会図書館デジタルコレクションに昭和7年(1932)に出版された『鳥取県郷土史』が公開されていて、この頃のことについてこう記されている。
「この飛報は実に青天の霹靂(へきれき)であって、県民誰一人として信ずることは出来ない位であった。特に因幡人士の驚愕は言語に絶し、爾来これが再置を計るため、いろいろ計画することとなった。懐かしい『鳥取県庁』の門標は下ろされて、墨蹟も新しく『島根県支庁』と代えられた。時の長官伊集院権参事は、高知県に転任のため鳥取県を去ることになった。多数の先輩が氏を叶の茶屋まで見送っての帰り路、眼前に聳ゆる城山を涙なくして眺め得たであろうか。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918542/664

鳥取県は東西に長く、地域によってこの問題の受け止め方は異なっていたようだ。文中の「因幡」は律令制に基づいて設置された「因幡国」があった地域で鳥取県の東部を指し、鳥取県の西部は「伯耆」と呼んでいた。
「合併後における県民の態度は、因伯二国によって自ずから異なるのは、止むを得ぬことであった。隠岐は明治4年12月本県(鳥取県)に合併されたが、元来松江藩の治下に属していたものであるから、この合併は望むところであった。伯耆は因幡の者ほどには思わなかったようである。それは伯耆は出雲に近く、前から生業風俗習慣においても出雲と親密な関係があり、また中には県庁が近くなって険阻な坂道を往復する苦痛もなくなるなどと考えるものもあったらしい。従ってこの合併を憤った者は、主として因幡人士、殊に士族階級のものであった。しかし一般的に考えれば、二百数十年間政治の中心であった鳥取から、その政治機関を取り去られることは、堪えられない寂しさであるのに、まして維新の当時、我が藩の尽力によって救われた松江に併合される事は、この上もない屈辱であると考えた。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918542/664
少し補足すると、幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずであったために、慶応4年(1868)に山陰道鎮撫使が派遣され、鎮撫使は松江藩の意向を確認したうえで、2月13日には同藩に最後通牒を突き付けている。この最後通牒の全文が次のURLで読める。
https://ameblo.jp/k2600nen/entry-10083168983.html
これに驚いた松江藩は家老の大橋筑後が切腹して鎮撫使に謝罪することに決めたのだが、鳥取藩主池田慶徳が鎮撫使との仲介を申し出て、松江藩の藩世子及び家老等の血誓書を提出させることで許されるとの鎮撫使の内諾をとりつけ、家老の命と松江藩の危機を救った歴史がある。
『鳥取県郷土史』で、鳥取の人々が「維新の当時、我が藩の尽力によって救われた松江に併合される事は、この上もない屈辱であると考えた」と記されているのは、このような歴史を知るとよくわかる。
しかし、因幡の人々は、ただ「鳥取」という県名を失っただけではなかった。できたばかりの島根県の行政にも大いに不満があったようだ。昭和18年に出版された『鳥取市史』にこう解説されている。
「当時島根県当局においては因伯両国に対し、道路の改修、流行病の防圧。租の低減等に対し、何らの対策を講ぜず、島根県へ対するものとの間に差別があった。加うるに封建政治の崩壊は同時に武士階級の勢いを衰えせしめ士族の生活は日々に窮迫し、廃県以来官衙は松江に移され鳥取は日に日に衰頽を来たし商家及び士族の倒産する者が続出するに至った。
ここにおいて鳥取の疲弊は廃県によるはもとよりであるが、島根県当局が因伯両国の施政に無関心であるとなし士族の救済、道路及び教育に対する施設、租税の軽減を図り、また県令をはじめ首脳部は鳥取地方を巡視して明細に地方の事情を洞察し、以て其の振興を図るべしと訴うるに至った。足立長郷(あだちながさと)が共斃社(きょうへいしゃ)を組織して県政に対する不平士族を糾合するに至ったのはこれに起因するのである。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042221/610
鳥取だけでなく全国でも同様だったのだが、士族たちは廃藩置県で今まで生活の本拠となっていた藩を失い、さらに明治6年(1873)1月に徴兵令で、陸海軍の採用を士族に限定しないことが決まったために、本来の職能であった軍役からも離れることとなって士族たちはその存在意義を失い、さらに明治9年(1876)の秩禄処分で士族の禄制が廃止され、士族の収入は激減した。その上に山陰の政治の中心地としての役割を失い経済も衰退して、多くの失業士族が発生した。鳥取藩が大藩であっただけに、その数はかなり多かったのだが働く場がなかったのである。
足立長郷が明治13年(1880)に設立した共斃社は、困窮していた鳥取士族の生活を安定させる目的で組織され、社員の数は2~3千名に達したという。幹部の中には因幡における反政府派の領袖で、かつて同志ととも弾薬を製造し、武技を鍛錬し、西南戦争に参加しようとした詫間護郎の名前もある。
共斃社によって県当局を非難攻撃する演説会が各所で開かれ、明治13~14年の米価格の高騰の原因は因伯米を他地方に持ち出すためと考え、地主や米商人に対し米の移出を暴力的に阻止するなど、過激な行動が当時から問題になっていた。

【岡崎平内】
このような状況を憂えた島根県会議長・岡崎平内(へいない)らは愛護会を結成し、士族救済はもとより、産業・交通を盛んにして疲弊した民力を回復するには、鳥取県を島根県より分離し、鳥取県を再置するしかないと主張するようになり、県再置について政府の要人に対する組織的な活動を開始した。また明治13年3月に徳島県が高知県より分離したことから、鳥取県の再置問題について世論も関心を持つようになり、13年の秋には鳥取で再置促進の町民大会が開催されたという。
そして翌明治14年に岡崎平内ら3名が陳情書を携えて山縣有朋に鳥取県再置を嘆願したのだが、その時の陳情書の内容が『鳥取市史』に要約されている。そこには風俗人情の違いが大きいことや、県庁までの距離が遠すぎること、課税が鳥取の人々が割高となっていることなどが述べられている。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042221/612

【山縣有朋】
また鳥取にいた同志たちも島根県令・境二郎を訪ねて、県当局自らが鳥取県再置の建議を行うことを陳情している。そして境県令はエスカレートしていた共斃社の動きなどを考慮して、5月中旬に明治政府に鳥取県再置の建議書を政府に差し出したという。
これらの行動が功を奏して、同年7月に山縣有朋が実状を調査するために島根県を巡視することが決定し、山縣は約2週間をかけて鳥取の交通の不便さや生活に困窮する士族の様子を視察したうえで、「島根県を割って鳥取県を置くことが急がれる」と報告したという。
そして8月30日に、太政大臣三条実美や山縣有朋を含む5人が集まった会議で鳥取県再置が決定し、9月12日付けで鳥取県を再置し因幡・伯耆の一円を管轄して県庁を鳥取市に置くことを定めた布告が出されている。

【伯耆地図】
しかしながら、鳥取県再置運動に反対する人も少なくなかったようだ。
因幡と伯耆は藩政時代からの対立があり、特に伯耆では鳥取士族に対する反発が強かったという。そしてこの地域では鳥取県再置に反対する運動が、再置が決定する前後に激しくなったという。
各地で鳥取県再置に反対する建白書が出されていたが、久米郡選出の県会議員岩本廉蔵はさらに伯耆一致で反対の請願をまとめようとして河村郡選出議員・中原慎太郎を倉吉に会同することを求めたところ、中原は同調しなかった。それは何故だったのか。
河村郡が鳥取県再置反対に同調しなかったのは、過激化していた共斃社の活動と関係があった。中原はその理由についてこう記しているという。
「鳥取は追年衰頽し市民糊口困苦。為に旧藩士一社を結び共斃社と名付くその乱暴、名状すべからず。県書記官星野輝賢来鳥せし時恐怖して匆々帰程に就き倉吉に至りたるも後難を恐れて宿泊せしむるものなく遂に徹夜帰庁せりと言う。殆んど無警察の姿にて実に惨怚たる光景なり。これを救うこの道他なし。再置県あるのみなり。」
www.yurihama.jp/uploaded/attachment/4975.doc

河村郡は現在の東伯郡三朝町・湯梨浜町および倉吉市の一部だが、もし河村郡が鳥取県再置に反対し、伯耆一致の請願書が出されていたら、鳥取県の再置がすぐには実現しなかったかもしれない。皮肉なことに、共斃社の過激な活動が鳥取県の再置に反対する伯耆の人々の団結を崩すことに繋がったのである。

【山田信道】
再置後の初代鳥取県令となったのは熊本藩出身の山田信道であった。
鳥取県元気づくり総本部発行の『鳥取県ができるまで』という12ページのパンフレットに、廃藩置県により鳥取藩が鳥取県となり、明治9年(1876)に鳥取県が島根県に併合されて14年(1881)に再置され、再置後の山田県令の県づくりまでが簡潔にまとめられている。
そのパンフレットには山田県令の業績についてこう記されている。
「山田は、生活に苦しむ士族に仕事を与えること(士族授産)、道路網の整備、産業や教育の振興を目標に新しい県づくりに力を注ぎました。山田が最初に着手したのは、道路網の整備でした。
明治16年から大規模な道路解説事業が始まり、現在の国道9号線をはじめとする主要15路線500kmを改修しました。
また、士族授産として、北海道移住政策を行い、釧路や岩見沢に士族を移住させました。その一方で、鳥取に残った士族に、養蚕・製紙業に取り組ませることにしました。」
明治9年(1876)に熊本で士族が反乱を起こし、熊本鎮台司令官種田政明、熊本県令安岡良亮らが殺害された「神風連の乱」があった。山田信道は熊本でこの乱が起きた時は政府協力派であったが一時期は神風連に所属していて、生活に困窮していた士族に理解のある人物であった。

北海道新聞の連載記事『大楽毛物語③』*(平成26年2月18日付)に、山田県令が鳥取士族たちの北海道移住に尽力したことが記されている。当時鳥取士族たちは働く場所もなく、三食にも事欠く状態で餓死者も多かったという。
「山田県令は、狂暴な行動の多かった不平士族団体共斃社の人々を、なんとか正道につかせ、共斃社を解散させようという意図をもっていた。明治15年12月、共斃社3人と県属田代修敬が県貴で北海道視察を行ったが、眼付も態度も良くない彼らの言動に業を煮やした北海道は、鳥取士族は移住まかりならぬと、時の農務省西郷従道に上申した。
しかし山田県令の努力で、ようやく許可されたのである。政府も北海道開拓に熱意を持ち、士族の移住を奨励し『他県の士族(貧困にして自力移住できない人)は、本県管轄下への移住とし、農業及び漁業に従事することを希望する者に限る』と。…」
*『大楽毛物語』:大楽毛は釧路市の地名で、当初鳥取士族が入植するはずであった場所。丹波新聞店のHPに連載記事の全て(①~⑩)を読むことができるので興味のある方は覗いていただきたい。
http://www.otappi.jp/publics/index/8/page64=2/page55=30
そして明治17年(1884)6月に、鳥取県士族移住者41戸207人が、第1次として人跡未踏のベツトマイ原野(現在の北海道釧路市鳥取)の一角に集団移住帰農して、「鳥取村」を創始し、翌18年5月14日には、第2次鳥取県士族移住者64戸306人が移住し、総戸数105戸、総人口513人の村落が形成された。

この時に釧路に移住した鳥取士族の御子孫の方が、祖母の「……あの『おしん』より辛かった………」との言葉から、釧路の開拓が大変な苦労の連続であったことを記しておられる。
今でこそ釧路は人口173千人の都会だが、当時は道もなく、ただの原野が広がっていたという。
「見渡す限り一望千里の草原と柳。ハンやタモの巨木が川岸より鬱蒼として生えて昼尚暗い森林。
今もって民家がない湿地帯で、人も棲まない野地だった。
与えられたバラック作りの家屋。
木造平屋建ての柾葺、壁は四分板を外側に打ち付けた一重の薄い一枚板。
天井板もなく雨露を凌ぐだけの粗末なもの、畳もわずか、筵かゴザを敷いたものだった。」
http://www.mahoroba-jp.net/about_mahoroba/tayori/oriorino/oriorino200903tottori.htm

【移住者の家屋 明治18年移住藤代家(昭和18年の写真)】
今まで鍬も鋤も握ったことのない士族たちが、厳寒の季節には零下30度にもなる土地に移住して原野を開拓していくのに大変な苦労があったことは言うまでもないが、彼らをして難事業をやり遂げさせたものは、武士の矜持と考えればよいのだろうか。
鳥取県の士族たちにとって明治維新は悪夢のような日々の連続であった。
旧藩時代は山陰随一の大藩で、12代藩主・慶徳は15代将軍・徳川慶喜の異母兄という関係から親幕派でありながら尊王という微妙な立場を取り、戊辰戦争では官軍について転戦している。
明治の世になって、藩主は明治2年(1869)の版籍奉還で鳥取藩知事に就任したが明治7年(1874)の廃藩置県で免職となり、鳥取城は明治6年(1873)に陸軍省の管轄となったのち明治11年(1878)に破壊され、心の拠り所であった因幡東照宮は明治7年(1874)に神仏分離が強行されて『樗谿神社(おうちだにじんじゃ) 』という名前にかえられ、山陰地方最大の祭りであった権現祭りも行われなくなり、明治9年(1876)になると士族は刀を身に着けることを禁じられ、鳥取県は島根県に編入されて『鳥取県』という名前も失い、さらに秩禄処分で収入は激減し、山陰の政治の中心地が松江に移って鳥取は衰頽していくばかりで、鳥取士族たちは働きたくとも働く場所が見つからなかったのが現実である。彼らが明治政府に強い不満を持ったのは当然のことだと思う。
明治政府がもっと早い段階で鳥取士族に働き場所を提供していれば別の展開になっていたのかもしれないが、プライドの高い彼らがいきなり辺境の地を新天地に選ぶことは考えにくく、ギリギリまで追い詰められたからこそ、北海道の開拓に行く決断ができたのだと思う。
鳥取士族たちが開拓したという釧路市の鳥取地区は今の市の面積の4分の3を占め、市の人口の約半分が現在この地区に住んでいるという。釧路市の礎を築いたのは鳥取士族であったと言っても過言ではないのである。
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【ご参考】
最後の鳥取藩主・池田慶徳は15代将軍慶喜の異母兄であったことと関係があったのかもしれませんが、鳥取士族達は明治政府にかなりひどい目にあわされました。
では江戸幕府の旧幕臣達はどうだったかというと、彼らもひどい目に遭っています。興味のある人は覗いてみてください。
明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html
明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html
江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html
静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html
徳川家と共に静岡に移住した士族が記した「士族の商法」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-366.html
徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html
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