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大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由

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Category大政奉還から戊辰戦争
前回は石川県の「不平士族」が大久保利通を暗殺したことを書いたが、「不平士族」と言う言葉を用いると、普通は「不平」を持つ側は少数で「悪い」側と受け取られることになる。
歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、「勝者」に正当性、正統性があると描かれるものであり、対立する勢力は「悪者」にされるか、「抵抗勢力」「不平分子」などとレッテルが貼られるのが常であるのだが、かといって「勝者」側に「正義」があったのかを問うと、必ずしもそうではなかったということが往々にしてある。もし「敗者」側に「正義」があったとしても、「勝者」は歴史叙述の中で「敗者」を悪しざまに描くものなのである。

討幕の密勅

徳川慶喜が朝廷に大政奉還を申し出た慶応3年(1867)10月14日に薩摩藩・長州藩に対して「討幕の密勅」が下されたことを学んだのだが、この密勅をよく読むと「幕府を倒せ」とは一言も書かれていない。ポイントとなる部分は「汝宜しく朕が心を体して賊臣慶喜を殄戮(てんりく=全滅)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山嶽の安におくべし、これ朕の願いなり、敢えて懈る(おこたる)ことなかれ」だが、簡単に言えば将軍慶喜を殺してしまえという命令文書である。しかしながら、大政奉還が成就してこれまで権力の中枢にあった「徳川幕府」は存在しないのだから、普通に考えると「討幕」という言葉はありえない。
「徳川家を全滅させよ」というのはつまるところ私闘以外の何物でもなく、しかもこの密勅は正式な手続きを経ていない「偽勅」であったことが今ではわかっているのだ。
この「偽勅」に対して「討幕の密勅」などという言葉を未だに歴史学者が用いるのは、学会という特殊な集団においては「薩長中心史観」が主流であるということの証左なのだろう。

聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)
【聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)】

12月9日は岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定したのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かっている。

山内容堂
【山内容堂】

諸侯の大多数は平和解決を望んでおり、12日には土佐藩の山内容堂が朝廷に以下のような意見書を奏上した。
「いまや市中には薩・長・芸と会津・桑名の各藩兵らが対峙し、情勢は緊迫している。このまま日を過ごせば不測の禍乱(からん)が生ずるのは明白である。既に王政一新の基本はほぼ定まったから、すみやかに戒厳を緩め、議事制度を起こし、諸侯に会同を命じて、朝廷の御趣意は公明正大でいささかも偏頗(へんぱ)でないことを宣明せらるべきである。また慶喜が官一等を下り政府の経費を献上すべきは勿論であるが、慶喜にそうさせるのならば、諸侯一同もこれにならうべきである。」(『開国の真実』p.322)
その同日に阿波、筑前、肥後、久留米、盛岡、柳川、二本松、肥前、対馬、新発田の諸藩連名の同様の意見書が二条城に届けられて、薩長は方針転換を余儀なくされることとなった。

開国の真実

幕府方の会津桑名兵を挑発して、旧体制を粉砕するきっかけを得ようとした目論見が外れたのみならず、諸藩からの意見書が出たことで薩摩藩は、次いで江戸市中攪乱により内乱のきっかけを作ろうとした
鈴木荘一氏は『開国の真実』でこう解説している。

相楽総三等は五百人からなる浪士団を組織し、富商・富豪に押し入って金品を強奪する非合法活動を行った。毎夜のように鉄砲をかかえ抜刀した正体不明の無頼の浪人集団が三十人、五十人と徒党を組んで押し入った。日本橋金吹町の公儀御用達播磨屋(はりまや)新右衛門方に押し入った賊は一万八千両の大金を強奪した。浅草蔵前の札差(ふださし)伊勢屋では、大胆にも舟で乗りつけた賊三十余人に襲われ、三万両を奪われる被害に遭った。こうした時節柄、充分な警戒を怠らなかった本郷追分の高崎屋も被害にあった。
 このように毎夜のように富豪の町屋に押し入る正体不明の無頼浪人集団には三つの特徴があった。
第一は『御用金を申し付ける』と言うことである。第二は言葉に薩摩訛(なま)りがあることであった。第三の特徴は金品強奪後に逃げ込む先が薩摩藩江戸藩邸だった
ことである。」(『開国の真実』 p.325-326)

薩摩藩邸焼打ち事件
【薩摩藩邸焼打ち事件】

江戸市中取締りを命じられていた庄内藩主酒井左衛門忠篤は、それまで薩摩藩を刺戟しないよう厳命されていたのだが薩摩藩の非合法活動が一段と活発化し、12月22日には庄内藩屯所が銃撃され、23日未明には江戸城二ノ丸で不審火があり、同夜には庄内藩見廻隊に数十発の銃弾が打ち込まれて、隠忍自重してきた老中淀藩主稲葉正邦もついに堪忍袋の緒が切れ、酒井左衛門忠篤に薩摩藩邸の焼打ちを命じ、12月25日早朝に旧幕府軍は、浪士団の策源地である芝三田の薩摩藩邸を包囲して下手人の身柄を渡すように要求し、薩摩藩邸が拒否すると、狼藉の巣窟である薩摩藩邸を焼打ちしてしまったのである。

大阪にいた慶喜はこの報告を聞いた後も「此の如き有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂には徒に朝敵の汗名を蒙るのみなれば、決して我より戦いを挑むことなかれ」と、当時旧幕臣の大多数が主戦派に傾いていたのを斥け、ともかくも恭順論を貫くことを命じたのである。

教科書などでは戊辰戦争の緒戦の鳥羽伏見の戦いについて「1868年1月、薩摩・長州軍藩兵を中心とする新政府軍と、旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍とのあいだに、兇徒の近くで武力衝突が起こった。これに勝利を収めた新政府軍は、徳川慶喜を朝敵として追討し、江戸へ軍をすすめた。」などと開戦責任を曖昧にしているが、当時の記録を読むと、慶喜に上京を命じておいて京に向かう警護の行列に新政府軍が一方的に発砲したのが真相であり、この時旧幕府軍には戦う意思はなかったようなのだ。

維新前後の政争と小栗上野の死

国立国会図書館デジタルコレクションで関連書籍を探していると、『維新前後の政争と小栗上野の死』という本が目にとまった。著者の蜷川新(にながわあらた)氏は法学者・外交官を歴任し、旗本小栗上野介の義理の甥にあたる人物だという。今日ではこのような視点に立った記述が紹介されることはほとんどないのだが、一部を引用させていただく。

岩倉、西郷、大久保等は、慶喜が大兵を擁して、大阪に在るを自己等の為に危険視した。もしも大阪を根拠として、京都にある薩軍に反抗せられたならば、交通路は絶たれ、京都の薩軍は甚だ危うしと心配した。彼らは一大権略家であるが故に、自己の心を以て、徳川方を猜疑したのである。
 岩倉らは流石に智者である。即ち一策を案じ、慶喜に軽騎上京を命じ、会桑*に向かっては、その本国に帰還すべきを命じた。この命は、天皇の大命として伝えられた。
 慶喜としては、この大命に反くを得ない。慶喜の立場は困難に陥った。上京せざれば、反逆者の如くに取扱わるべく、軽率に上京すれば、危険身に迫るべきは当然であった。慶喜を擁護する者より見れば、武士の習いとして、その主と仰げる慶喜を見殺しにするを得ざるは当時の武士的道徳であった。親藩たる会桑は、慶喜を守護して上京すべしということに一決した。これ武士として正しい考慮であった。薩長を討伐するがためではなく、唯だ警護者として随伴するにすぎなかった。岩倉等一味の権略陰謀甚だしきに対しては、これより以外に取るべきの途はなかったであろう。
 慶喜は命により上洛した。慶喜は戦闘隊形を以て、上洛したのでは決してなかった。勿論武士であるが故に、武器は各人何れも携帯して行った。しかるに薩長の兵は、此の上洛者を鳥羽伏見に阻止した。而して付近の高地をあらかじめ占領し、発砲を以て徳川方に挑戦した。これ天人ともに怒らざるを得ない暴状ではないか。彼らは此の機会を利用して、慶喜以下を全滅せしめんと策動したのであろう。」
*会桑:会津藩、桑名藩のこと 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/124

薩摩軍は慶喜の上洛を待ち伏せて大砲を打ち込んだとあるが、その点については会津藩の永岡清治が『旧夢会津白虎隊』でこのように記している。文中の「伏水」というのは京都市伏見区の地名で明治12年に「伏見」の表記に統一されている。

鳥羽伏見の戦い

田中玄清*は正午淀を発し、伏水に向かう。元来この行は従軍とは思わず、警備の心得なり。余等伏水駅端の街路に憩いし時、商賈両三人来たり。桃山の半腹を指さし、此処には大砲一門、彼処には二門と兵児三四百人戎装して備えりと、一々これを説示し且つ言う。伏水奉行所には会兵、肥後橋にも会兵、奉行所の北及び御香宮などには薩長固め大砲を並び塁を積み関門を設け行人は議して而して之を拒否す。竹田街道には土州これを警衛すと告ぐ。尋て雪空となり、夕陽春く頃、西北鳥羽に当たり大砲二発聞こゆるや否や伏水鳥羽共に天地震撼するばかりなり。」
*田中玄清(はるきよ):会津藩家老。幕末の藩主・松平容保に仕えた。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925910/75

戊辰物語

会津藩の記録をそのまま信じるわけにはいかないとも思うのだが、彼らが「警衛の心得」で臨んでいたことは真実だと思われる。
岩波文庫の『戊辰物語』は、明治維新の動乱を経験した古老からの聞書きを編集した「東京日日新聞」の連載記事をまとめた本だが、ここにはこう記されている。

「鳥羽伏見の合戦は幕軍総崩れ。何しろ洋服鉄砲の兵隊へ鎧兜に陣羽織の幕軍が槍をもって向かったのだからいけない。殊に一人ひとり名乗りを上げる、敵を斬ると一々首をとって腰へ下げる。その首を幾つも腰へぶら下げた勇士がたった一発で胸板を抜かれて死んでいるという有様で、…」(『戊辰物語』p.30)

槍や刀で立ち向かうしかないような陣形をとっていたために旧幕府軍は銃撃戦で大敗したわけだが、そのような陣形をとっていたということは、旧幕府軍は薩長軍との戦いにはならないことを前提にしていたということであろう。
大阪にはフランス教師直伝の伝習兵がいて、ミニエー銃などの最新兵器も大量に保有していたのだから、はじめから薩長との戦いを覚悟していたのなら、近代的兵器を活用できる陣形を取るのが自然である。そうしていればこんなに無様な負け方をすることはなかったであろう。

慶喜は戦う意思はなかったのだが、ならば鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争は、何のための戦いであったのか。

西郷隆盛

西郷隆盛は当時「此度の創業幸いに我勝たば、主として統一を図るべし。彼勝たば、徳川氏の中興正になり、天下靡然として一に期せん。皇国の独立は期して待つべし。故を以て、我れ勝つも好し、彼れ勝つも好し。その勝敗の如きは論ぜずして可なり。兎も角も一戦を賭して、日本の統一を図るにあり」と述べたそうだが、大政奉還がなされたにもかかわらず、徳川方と一戦を交えて勝利して、徳川の経済基盤を奪取し薩長が権力を掌握することにこだわっていたようなのである。のちに慶喜は「辞官納地」も許容したので、それでもなお徳川軍を討伐しようとした薩長の意図は、薩長主導で政府を作ることにあったと考えるしかない。

蜷川新
【蜷川 新】

蜷川新氏は『維新前後の政争と小栗上野の死』で挑発をし続けた薩長を非難しているのだが、この文章を読むと、これまで教科書やテレビの解説などで何度も耳にしてきた歴史叙述に随分偏りがあることに誰しも気づかざるを得ない。不平士族の問題もこのような視点から見直すべきなのだと思う。

大政奉還は、既に前年十月を以て成就したのであり、幕府はその時に消滅したのである。『徳川の中興』なぞ断じてあらしむべきものではなかった。然るに西郷は、戦の勝敗にて徳川の中興生じて可也と言明したのである。これ果たして忠誠の言というを得ようか。王政の復古は、既になったのである。進んで為すべきは、各藩何れもその権力を朝廷に奉還すべき一事であった。慶喜は既にこれが範を示したのである。しかるに、他の藩主藩臣に一人としてこの精神なし。島津も毛利もその藩臣も、そのまま藩として引き続き存在し、依然として地方の権力を握り、地方に君主の威を以て存在せんとしたのであった。かくして、天下の統一成ろう筈なし。しからば西郷には『統一』の言のみあって、統一の実を完(まっと)うするの誠意なかりしものと言うべきではないか。統一を欲するならば封建の廃止でなければならなかった。幕府既に亡びたる後において、唯だ一家の徳川氏のみを追窮することが、当時の緊急事業では断じてなかった。伏見鳥羽の戦なぞは国家国民の為に避く可かりしものであり、かかる無益の流血なくして至当の公議を竭(つく)し、諸侯を廃し、王政復古を至誠を以て進行すべきであった。
 もしも徳川方にして、執拗に封建の存続を図り、日本国をして世界の大勢に順応せしむるを阻止する所為もありしとせば、薩長及び公卿らが唯一に武力を以て、徳川方を討滅するは、当然執るべきの処置であった。しかしながら、徳川幕府は国家の為に自ら消滅し去ったのである。幕府方に確にこの正しき行道あり。しかるに、薩長の人々が、幕府亡びしのちの徳川方を圧迫し、故さらに戦乱を起こさしめたるが如きは、何ら是認すべき理由はないのである。…
 自ら権略陰謀これ事とし、王政復古成れる後に於いて、内乱を煽動挑発し、しかる後に、兵力を以てこれを平らげ『王政復古の功労者は我らなり』と宣伝するものありとせば、国民はそれら権謀の徒の弄策を正しからずとして裁判せざるをえないであろう。これ国民的公判である。
 伏見開戦の責任者は、薩長方にある。而して其の初めは私闘であった。それ故にもしも『喧嘩は両成敗なり』というならば、徳川方も薩長方も同じ様に罰せられるべきはずであった。然るに輪王寺宮の御令旨にもある如く、第三日目よりして、錦旗は即妙的に薩長方に掲げられた。而して徳川方の敗北にあらざりしも『形勢不利也』として徳川方はその兵を引き揚ぐるや、この総退却者を以て『逆賊也』と公然宣布せらるるに至った。国民よりしてこの史実を今日において科学的に判断せしむれば、いずれが正、いずれが非なりとなすであろうか。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/125

錦の御旗
【錦の御旗】

旧幕府軍には逆賊となる意思もなく、鳥羽伏見の戦いではただ武士の習いとして応戦しただけであったのだが、この戦いが始まった3日後に錦の御旗が掲げられて、旧幕府軍は『逆賊』とのレッテルが貼られてしまった。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉は明治維新後に広まった言葉なのだが、このような言葉が全国で広まったということは、明治維新政府側が卑怯な手段を用いて政権を掌握したことを、明治人の多くが認識していたということではないのか。
教科書などで描かれているわが国の近代史は、明治維新から150年も経ったにもかかわらず、未だに薩長勢力にとって都合よく描かれていると考えるのは私ばかりではないだろう。ここ数年来ようやく明治維新を見直す著作の出版が相次いでいるが、教科書などの江戸幕末から明治初期の叙述が全面的に書き直される日は来るのだろうか。

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【ご参考】
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にあります。我々が学んできた近代史は「薩長中心史観」というべきもので、特に明治の初期の歴史は薩長にとって都合の悪い史実はほとんど書かれていません。良かったら覗いてみてください。

神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
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3Comments

たつや  

「倒幕の密勅」新称の提案

倒幕の密勅 → 慶喜殺害の偽密勅

2018/01/31 (Wed) 03:03 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: 「倒幕の密勅」新称の提案

たつやさん、コメントありがとうございます。

たつやさんが「偽密勅」と書いておられる部分は「偽勅(ぎちょく)」という言葉がありますので、それを使うべきでしょう。

『討幕の密勅』という言葉を最初に使ったのは、明治維新を推進した勢力なのか学者先生なのかはよくわかりませんが、前者の場合は、文章の内容とは違っても、歴史的経緯からその名称が固定化した可能性はありますね。

ご指摘の通り内容的には『慶喜殺害の偽勅』というべきなのですが、たとえば薩長史観に立たない蜷川新氏は著書『天皇:誰が日本民族の主人であるか』では、『「討幕の密勅」と称する偽勅』という書き方をしておられるようです。

正式な手続きを踏んで作成されたものではないのですから、呼び名に「偽勅」という文字を入れておきたいところですね。




2018/01/31 (Wed) 20:13 | EDIT | REPLY |   

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2018/09/24 (Mon) 18:11 | EDIT | REPLY |   

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  • 「勝てば官軍負ければ賊軍」の隠された意味
  • 大政奉還後、国内は江戸を中心に動乱状態にあったそうだ。大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-543.html この中で、以下の一節に注目したい。/////////////////////////////////////http://shibayan1954.blog101....
  • 2018.01.15 (Mon) 09:02 | 失われた日本史  にきみたまの道