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戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した

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Category大政奉還から戊辰戦争
前回の記事で戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』の冒頭部分を紹介した。この檄文はやや長文だが、明治維新を推進したメンバーがどんな連中であったかが、新政府に敵対する立場から述べられていて興味深い。
もちろん内容に誇張もあるだろうが、この檄文に賛同して多くの武士たちが命がけで官軍と戦ったことを考えると、かなりの真実がこの檄文に織り込まれていると考えるほうが自然だと思う。
今回は雲井龍雄の書いた文章の内容を少し詳しく紹介したい。

雲井龍雄

檄文の冒頭部分は前回の記事で書いたとおり「彼らが攘夷を主張したのはただ幕府を傾けて政権を奪う野望であったことを知るべきだ」という内容で、原文は前回の記事で引用したので省略させて頂いてその続きから読んでいこう。
原文とその大意は前回紹介したWikipediaの記事に出ているが、文中の「大意」の部分は僭越ながら筆者が若干の修正を加えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%96%A9%E6%AA%84

「皇朝、陵夷(りょうい)極まると雖も、其の制度典章、斐然(ひぜん)として是れ備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫(そぞろ)に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謀を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。
薩賊、擅(ほしいまま)に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥(みだ)りに諸州群不逞の徒、己れに阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ。綱紀錯乱、下凌ぎ上替る、今日より甚しきは無し。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」

【大意】
我が国には海外勢力による国防の危機があると言っても、わが国には固有の制度があり、それらが機能してきたことを知るべきである。しかるに、薩摩が権力を握ってからは急激で無理な変革を推し進め、長い歴史の中で培われてきた制度や慣習を破壊してしまった。この罪をどうして問わずにおれよう。
薩摩は、公家や皇族を捨て去り、自分の意に沿わぬものは排斥し、諸藩の不逞の輩が、自分たちにつき従うものばかりを出世させて取り立て、下克上の綱紀紊乱の世を招いている。その罪を問わずにはいられない。

「公家や皇族を捨て去り」という部分は分かりにくいが、孝明天皇・明治天皇の摂政であった親幕派公卿の二条斉敬(にじょうなりゆき)や、親幕派の賀屋宮朝彦親王らが王政復古時に朝廷から排除されたことを指していると思われる。

鳥羽伏見の戦い
【鳥羽伏見の戦い】

次に雲井龍雄は鳥羽伏見の戦いの官軍の戦いぶりについてこう述べている。
「伏水(鳥羽・伏見の戦い)の事、元暗昧、私闘と公戦と、孰(いず)れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其の公論を定め、罪案已に決して、然る後徐(おもむろ)に之を討つべし。然るを、倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して、征東の兵を調発す。是れ、王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
 薩賊の兵、東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せざることなく、或は人の鶏牛を攘(ぬす)み、或は人の婦女に淫し、発掘殺戮、残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず、猶且つ、靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則と称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」

【大意】
鳥羽・伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから征討軍を起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。これは、天皇の意思を自分勝手にコントロールして私怨を報いようとしている邪な謀略だ。その罪を問わなくてはならない。
薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、進軍した先々で略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。しかるに、官軍を名乗って、それを太政官の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。その罪を問わなくてはならない。

引用部分の後半で、雲井龍雄官軍の乱暴狼藉が甚だしかったことを指摘しているのだが、この点について他にどのような記録が残されているであろうか。

戊辰戦争 裏切りの明治維新

星亮一氏の『戊辰戦争 裏切りの明治維新』(静山社文庫)に、『相馬市史』に解説されている『吉田屋覚日記』が紹介されている。この日記は相馬の御用商人・吉田屋鈴木庄右衛門の手代が記録したものだという。

「8月14日
官軍側の分捕品は、武器弾薬米穀並びに主だった家財や金蔵、土蔵などは太政官に、武器や家財は各藩に、小物や家財など見当たり次第、金銭衣類や家具などは中間小者、人足のものになる。もっとも後で持主から願い出れば、元値百両位の品は二十両位で買い戻される。」(『戊辰戦争 裏切りの明治維新』p.144)
分かりやすく言えば、彼らは分捕り品を販売して収入を得ていたわけで、官軍とは名ばかりで夜盗の集団のようなものであった。

星亮一
【星亮一】

星氏はさらにこう解説しておられる。
「官軍に徴発された馬は、雨覆いもなく野外につながれたままだったので、数十疋も死んだ。また馬の飼料として、近在の青豆や野菜を採ったので、野菜が一切なくなるなど、農民は断腸の思いだった。
 酒屋の従業員は皆、官軍の炊き出しに使われ、酒造りができなくなった。
 治安の悪化もおびただしいものがあり、強盗事件が頻発した。討ち取った死体から服をはぎ、肉を割くような残酷な振る舞いもあった。
 女性も徴発され、給仕役に後家が召し出された。
 これは単なる給仕ではなく、指揮官クラスの夜伽の相手であった。一般兵のために小高村、浪江村、鹿島村などの宿には遊女を置くことが求められた

 病院の看護人にも大勢の女性が動員された。
 相馬藩はじっと耐えた。」(同上書 p.145)

仙台戊辰史

ネットで古い記録が残されていそうな本を探していると明治44年刊の『仙台戊辰史』という本が見つかった。仙台藩は、新政府から会津藩に対する追討軍への参加を命じられていたのだが、藩では次第に会津藩・庄内藩と協調して新政府と敵対すべきだとの意見が多数となっていく。なぜ、仙台藩で錦の御旗の官軍と戦おうという意見が広がっていったのか。

官軍の奥州鎮撫使九條道孝総督の目付であった戸田主水という人物が、慶応4年(1868)4月25日に九条総督に宛てて建策した文書の一部を引用する。文中で戸田は鎮撫使参謀の大山綱良(薩摩藩)と世良修蔵(長州藩)を強く批難しているが、戸田は建策したのちに姿を消したという。

世良修蔵
【世良修蔵】

「…人民を鎮め撫つるは殿下の御職掌にして、みだりに兵威を以て人民を圧服し給うの謂いにあらざるや明らかなり。…殿下御東下以来大山・世良両参謀の為すところを観察するに、殿下の為に痛嘆せずばあるべからざるものあり。請う、これを陳せん。寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。これ奥羽の人望を失うの基を開く一なり。
薩長の兵士本営門外に乱暴実に驚くべき者あり。あるいは路傍に臣士を侮辱し、あるいは市井に商賈を嚇怒し、あるいは山野に婦女を強姦し、あるいは仙台誹謗の歌謡聞くに忍びざることを白昼大道に高吟するの類、両参謀知りて而して措て問わず。士民の怨みいつこにか帰す。これ殿下の人望を失うの二なり。
したがって討会*出兵の遷延するも両参謀本営において人中に大藩の君公老臣を嘲笑するの類、その臣子たるもの誰が心に快とせんや。これ殿下の人望を失うの三なり。

世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。…」
*討会:会津藩追討のこと
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/217

戸田主水という人物は仙台藩とつながっていたという説もあり、記されていることの真偽の判断は読者にお任せするが、ほかにも同様な記録が残されていることからすると、雲井龍雄の『討薩檄』に書かれているような官軍による乱暴狼藉がひどかったことは、ある程度は真実であったと理解してよいだろう。
多くの住民が殺され、富を奪われ、女性の多くが強姦される被害が東北各地で続発し、官軍と言ってもやっていることは中世の山賊集団と同様で、東北諸藩の武士たちはこのことを黙って見過ごす訳にはいかず、命がけで官軍と戦うことを決意したのだと考える。

討薩檄
討薩檄

雲井龍雄の『討薩檄』に話を戻そう。続いてこう記されている。
「井伊・藤堂・榊原・本多等は、徳川氏の勲臣なり。臣をして其の君を伐たしむ。尾張・越前は徳川の親族なり。族をして其の宗を伐たしむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり、父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り*、今上陛下の初政をして、保平(保元の乱・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。」
*三綱五倫:三綱とは. 臣下の王に対する忠; 子の親に対する孝; 妻の夫に対する烈. 五倫とは. 父子有親(孝行); 君臣友義(忠誠); 夫婦有別(男女の役割); 長幼有序(上下の秩序); 朋友有信(信義)

【大意】
徳川の勲臣を臣下に討たせたり、徳川の親族に宗家を討たせたり、諸藩の親子兄弟を討たせたりしている。そのことを、飾り立てた言葉で正当化しているけれど、こういうことは人道に反することであり、今上陛下の統治に傷をつけることになる。その罪を問わなくてはならない。

そう記して、最後に雲井龍雄はこう結んでいる。

「右の諸件に因って之を観れば、薩賊の為す所、幼帝を刧制して其の邪を済(な)し、以て天下を欺くは莽・操・卓・懿(王莽や曹操や董卓や司馬懿)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず、再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せらるるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。
是(ここ)に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此の義挙を唱ふ。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾(こひねがはく)は、我が列藩の逮(およ)ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝(やぶ)るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし、若し尚、賊の篭絡中にありて、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾(こひねがはく)は、勇断する所を知るべし。」

【大意】
上記のことから考えれば、薩摩のなすところは、幼い天皇を利用強制して邪悪な政治をし、天下を欺き、残虐をなし、道徳を破壊し、長い伝統や制度を破壊している。奥羽列藩同盟はこれを座視するに耐えないので、再三朝廷にその不当を訴えてきたが、天皇にはその旨は届かなかった。もし、手をこまねいて薩摩を討たなければ、天下はどうして再び晴れることがあろうか。
よって、勝ち負けや利害を問わずに、この義挙を主張する。天下の諸藩は、もし本当に忠や誠を持っているならば、奥羽列藩同盟に協力して、日本のために薩摩を倒し、失われた道義を復活させ、万民を塗炭から救い、外国からの侮りを絶ち、先祖たちの心を安んじて欲しい。もし、薩摩に篭絡されて、何が正義かも弁えず、薩摩を助けるような邪悪な徒がいるならば、軍も規律があり、許すわけにはいかない。天下の諸藩は、勇気ある決断をして欲しい。

以上が『討薩檄』の内容なのだが、この檄文の存在や戊辰戦争で官軍が乱暴狼藉を働いた記録が残されていることを知ったのはつい最近の事である。
教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)と、キレイごとが書かれているだけだ。

最近になってようやく薩長史観とは異なる視点で描かれた歴史書が出版されるようになってはきたが、明治維新からもう150年も経つというのに、教科書やマスコミなどの明治史の解説では未だに薩長本位で、これでは東北出身の方は納得できないだろう。

維新雑史考

そんなことを考えながら面白そうな本を探していると、昭和9年に出版された高梨光司著『維新雑史考』に、戊辰戦争に関する薩長本位の歴史叙述に苦言を呈しておられる文章が見つかった。高梨氏は官軍による乱暴狼藉の事例を紹介したのちに、こう記されている。

然るに従来の薩長本位の戊辰戦記には、これらの事に関し、何ら記せざるのみならず、東北人の手になるものと雖も、概ねこれに触れるを避けたかの観がある。或いは他に憚るところあって、かくせりやとも思わるるが、歴史的事実は飽くまでその真相を伝うべきであり、その結果が当年の官軍なるものの不名誉に帰するも、致し方あるまい。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1232273/82

この本は明治維新から66年後に刊行されているのだが、それから84年経った今も大半の歴史書が薩長史観で叙述されているのは、戦後の日本史学者の怠慢であると言うしかないだろう。
いつの時代もどこの国でも、勝者は「歴史」の叙述の中で自らの支配の正当性をアピールすることによって、政権の長期安定をはかろうとするものであり、勝者にとって都合の良い歴史を広く伝えようとするのは当たり前のことなのである。

勝者が編纂した歴史や記録に偏らず、さまざまな立場の人々が書き残した記録を読み比べながら、本当は何があったのかを考察することが重要だと思うのだが、教科書などのわが国幕末から明治までの歴史が全面的に書き換えられる日は来るのか。

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王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった
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武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
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江戸無血開城の真相を追う
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イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
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17Comments

ラングドック・ラングドシャ  

天田愚庵

天田愚庵は、元々は(現)福島県の平藩士でした。
愚庵は、明治になってから日本中を旅したのですが、その目的は戊辰戦争中に行方不明となった両親と妹を捜すことだったそうです。明治10年には北陸に出かけていますが、当時は「戊辰戦争の時に掠われた人が00に売られたらしい」などの情報が流れていたのかもしれませんね。
明治12年には、旅をしながら収入を得るために写真術を身につけたりもしています。この過程で一時、清水の次郎長の養子となりました。その縁で「東海遊侠伝」を書いたために、次郎長が「東海一の大親分」として知られる切っ掛けの一つになりました。俳人としても知られ、子規とも交流があったようです。
結局、家族との再会は叶わなかったとのことです。

2018/01/26 (Fri) 14:24 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 天田愚庵

ラングドック・ラングドシャさん、コメントありがとうございます。
いろんな人物の事をご存じなのですね。

売る目的で攫われたのなら、まだ戻ってくる可能性があったような気がします。余程遠くに逃げたのなら、世の中が落ち着いたら帰って来たでしょう。何年探しても見つからなかったということは、自害したか、官軍に見つけられて殺されたか、いずれかのような気がします。

春陽堂文庫の『愚庵和尚』を読むと、両親と妹は自害する覚悟をしていて、甚作という友人からそれを思いとどまるよう説得されますが、その翌日に家族をつれて「人知れぬところに身を隠す」として甚作の家を去り、それ以降行方不明だと記されています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1111318/13




2018/01/26 (Fri) 20:37 | EDIT | REPLY |   

ラングドック・ラングドシャ  

愚庵和尚

『愚庵和尚』のことは知りませんでした。ありがとうございます。甚作の話は、おそらく真実を告げていると思います。それにも関わらず、少なくとも15年間は家族を捜す旅を続けた愚庵の心境も、いかばかりだったかと考えさせられました。

2018/01/26 (Fri) 21:19 | EDIT | REPLY |   

ラングドック・ラングドシャ  

平藩主 安藤信勇

愚庵が仕えていた、最後の平藩主安藤信勇のwikipediaの項に、
(隠居の安藤信正が佐幕側に付いたため、明治元年12月になって)『陸中磐井郡3万4千石への移封も命じられた。それに対し、信勇は新政府に旧領復帰を働きかけた。明治2年(1869年)8月3日、7万両の献金と引き換えに信勇は旧領に復帰』
とありました。
私の母方の曾祖母は南部藩士の娘で、昭和15年まで生きていました。母は、『殿様が賊軍とされたので、名誉を回復するために、家臣たちがお金を集め新政府に工作した。そのため家臣たちは、明治の初めにはとても困窮した』と聞かされたとのことです。
安藤信勇の献金にも、家臣たちの供出分が多そうです。士族(特に賊軍とされた藩士)が困窮した理由には、禄を失ったということだけではなく、主君の名誉の回復などの要因も大きいのではないかと思いました。

2018/01/26 (Fri) 21:55 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: 平藩主 安藤信勇

磐城平藩は幕末期は4万石で、安藤信勇が明治元年に陸中磐井郡3万4千石へ移封された程度なら、それほど大きな収入減ではなかったと思われます。

武士の生活困窮が深刻化するのはもう少し後のことで、廃藩置県や増税や秩禄処分などの施策で収入が激減したことのインパクトの方が大きかったと思います。

とはいえ、磐城平藩が集めた7万両は半端な金額ではありません。資金調達にかなり苦労したことは間違いないでしょうが、廃藩置県で安藤信勇は知藩事を免官されてしまいました。せっかく旧領に復したにもかかわらず、随分気の毒な話ですね。

2018/01/26 (Fri) 22:49 | EDIT | REPLY |   

某  

らしくないエントリーと思います

薩長史観の次は会津史観に染まる気ですか。
それはいいとして、引用させて頂く部分は完全に矛盾しています。

>多くの住民が殺され、富を奪われ、女性の多くが強姦される被害が東北各地で続発し、官軍と言ってもやっていることは中世の山賊集団と同様で、東北諸藩の武士たちはこのことを黙って見過ごす訳にはいかず、命がけで官軍と戦うことを決意したのだと考える。<

東北諸藩の武士たちが戦いを決意した頃って、新政府軍は東北に僅か1000人足らずしかおらず、東北諸藩に会津や庄内討伐を命じるのがせいぜいなのに、そして何より戦自体もまだ始まってないのに、どうやって住民を虐殺し、婦女を強姦するのですか?奥羽列藩同盟を主導した仙台や米沢は、撤退抗戦と呼べるような戦をしたのでしょうか。

史実として東北戊辰戦争開戦当初、北越戦線では、会津藩による民衆からの収奪が激しく、米沢藩の厭戦を誘い、宇都宮戦線では、撤退する会津軍が街道筋の村を放火してまわり(戦の常道とはいえ、会津藩の撤退時の放火は多く、戦後、猪苗代を放棄せざるを得ない一因もここにある。)、山形秋田戦線では庄内軍の全戦全勝、新政府軍はほぼ戦わずして撤退を繰り返す体たらくです。

東北戊辰戦争の新政府軍と言ったら、悪名高い長州藩の世良修蔵ですが、長州征伐の折に彼の地元が幕府軍に何をされたか、調べてみるのも一興でしょう。

私は新政府軍の略奪非行を全否定する訳ではありません。そうした史実も確かにあります。残酷なことです。しかし、星亮一氏のような史実を捻じ曲げることで有名な作家の引用を借りてまで、新政府悪玉論に貴殿が陥るのは、とても残念だと思います。

尚、余談ですが、勝者が歴史を云々といつも仰っておられますが、薩長善玉の明治維新観は、大正の頃には既に力はなく(故に禁門の変の会津藩戦没者の靖国合祀がなった。これは明治から会津藩がずっと請願していたが、明治の頃は却下された。)、以来、資本主義の矛盾と中国の民族運動の勃興、青少年の赤化などが相まって、明治維新批判が燎原の火のごとく広がり、昭和維新や新体制運動に繋がります。満州事変の石原や板垣、大東亜戦争の東條や山本五十六が、悉く、戊辰戦争で賊軍とされた人々の子どもたちであることは、決して偶然ではありません。

2018/05/25 (Fri) 16:52 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: らしくないエントリーと思います

コメントありがとうございます。

北越戦線における会津藩の収奪のことや世良の地元で起きたことは不勉強であったことは認めますが、雲井龍雄の『討薩の檄』や、奥州鎮撫使九條道孝総督の目付であった戸田主水という人物が、慶応4年(1868)4月25日に九条総督に宛てて建策した文書を普通に読むと、新政府軍は東北に少数しかいない段階から商人の富を奪い、婦女を強姦していたことになります。もちろんある程度割り引いて読む必要のある部分ですが、東北諸藩が列藩同盟を結んで新政府に対抗した理由は、このようなことがあったことを知らないと理解できないという意味で書きました。

私は決して新政府悪玉論者ではありませんが、明治政府が東北鎮撫使の人選を誤って東北の人々の怨みを買ったことは間違いないでしょう。その後の東北地方で明治政府批判の論調が広がっていったことはご指摘の通りだと思います。

薩長閥については、山本権兵衛、寺内正毅、田中義一が首相になったことを考えると大正の頃もまだまだ強かったのではないでしょうか。しかし藩閥の強さがいくら衰えたとしても、歴史というものはそう簡単に書き換えられるものではありません。「薩長善玉の明治維新観」はとっくに力を失っているはずの今日においても、教科書などではまだまだ「薩長にとって都合の良い歴史」が描かれているのではないでしょうか。

2018/05/25 (Fri) 21:22 | EDIT | REPLY |   

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会津観光史学Q&A

Q会津観光史学って何ですか?
A会津を独善的に正義の被害者と位置づけ、薩長土肥を何の証拠もないのに悪の加害者だと位置づける中国や韓国の反日政策に類似した被害者商法です。

Q会津恨文化ってなんですか?
A会津観光史学をベースに土着した日本で唯一、会津地方のみに根付いてる文化です。

Q会津が京都守護職に就いたのは、会津が誠実で正義感溢れる土地柄だったからというのは本当ですか?
A嘘です。まず、京都守護職に推されていたのは福井です。天皇が直々に指名しただのなんだのは会津観光史学による誇張です。そもそも何を根拠に任命した側が、会津=正義感があり、誠実だと判断したのか不明です。どこにもそのような史料はありません。

Q会津は京都守護職に就いて何をしましたか?天皇を護っていたというのは本当ですか?
A会津は新撰組などを使って志士の惨殺を行ったり、新撰組の内ゲバ(芹沢鴨等の殺害等)を内密に処理したりしていました。会津は天皇を護っていたのではなく、新撰組などを使い、京都の市街地を警備してたに過ぎません。天皇の身辺を警護してたわけではありません。会津観光史学による誇張です。

Q池田屋騒動は天皇を拉致する山口の企てであり、その企てをキャッチした新撰組が成敗したというのは本当ですか?
A嘘です。まず新選組は、そのような情報をキャッチしてはいません。たまたま発見した会合であると新撰組の永倉の手記に記されています。山口の木戸の日記にも、新選組に捕縛されている滋賀の古高を救うために集まった会合だと記されています。経緯は以下の通りです。屋敷に武器を隠していた古高が新撰組に捕縛され天皇を山口に連れ去る画策を尋問されますが、古高が否定したので、新撰組の土方が五寸釘を使い古高に拷問を加えます。逆さづりにされ、脚を五寸釘で刺しまくられた古高は拷問に絶えかね天皇の拉致計画を認めてしまいます。が、これは拷問自白ですので本当ではありません。天皇を山口に連れ去るという企ては、古高の拷問自白以外に明確な根拠は、幕府側にも尊攘側にもありません。直ぐに永倉が古高の自白通りに行動しますが、1人の浪士に出くわすこともなかったので、片っ端から旅籠を捜索してます。が、結局何も出てこないので諦めて帰ろうとした時に偶然池田屋に浪士が集結してるのを発見し、その後踏み込んでいます。池田屋と四国屋で張っていたというのも創作です。

Q会津が天皇と幕府の忠臣だというのは本当ですか?
A嘘です。まず、会津は公儀に近い大名領でありながら贋金を製作したりシナと密貿易を行っていました。次に会津は、徳川幕府が崩壊しそうになると、ドイツに対して国土(新潟・北海道)売却を条件に後ろ盾になるように打診しています。会津が天皇と幕府の忠臣だったという嘘は、会津観光史学以前の会津名誉回復運動から言われだした嘘です。

Q恭順を示してる会津に薩長がなだれ込み会津戦争になったのは本当ですか?
A嘘です。新政府は、奥羽・北越に対して和平交渉から入ってます。交渉に応じなかった地域が反政府として討伐されました。会津が恭順を示していたのは嘘で、前途でも述べた通り、ドイツに国土を売ってまで戦争しようとしたのは会津ですし、奥羽・北越の同盟も、戦争に躍起な会津・仙台等について行けない東北の小さな地域が次々に離脱しています。会津戦争は、新政府との和平を蹴った会津から白河や今市に侵攻して勃発しています。

Q会津戦争では薩長が蛮行を働いたといわれてますが本当ですか?
A嘘です。鹿児島・山口が蛮行を働いたという史料はありません。あるのは会津系作家や会津贔屓でアンチ薩長の作家の著作物だけです。逆に会津の蛮行は、北関東・東北・北越・道南の史料に掲載されていますし、外国人の報告書にも会津兵による蛮行が記されています。また、会津を討伐したのは、鹿児島・高知を主力に新政府に恭順した東北の地域です。山口は北越に主力を送っています。

Q白虎隊士中二番隊の自刃は史実ですか?
A飯沼貞吉が老年の時に証言した以外に何の証拠もありません。

Q会津の家臣が斗南に行ったのは山口が決めたのですか?
A会津の家臣団のみで会議され会津の山川が決断しました。山口の木戸は、猪苗代を推していました。

Q斗南に行った会津家臣団は、復興に尽力し、鳩侍と恐れられていたのは本当ですか?
A嘘です。怠けてたので斗南の領民から馬鹿にされていました。そもそも恐れる対象に鳩を持ち出すでしょうか?拾い食いをしてたので鳩みたいだと軽視されていたのが史実です。

Q会津は名誉回復されましたか?
A明治政府によって回復されました。松平は華族になってますし、有能な人材も活躍の場が与えられ、斗南に行った家臣も2年で解放されています。また、松平の長男は山口の女性と結婚してます。本当に賊のままなら嫁がせないはずです。

Q会津戦争時の会津兵の死体は、見せしめに埋葬されなかったのですか?
A埋葬されました。会津兵埋葬禁止は会津観光史学による嘘です。歴史家の大山先生が論破してますし、会津若松の市役所などでも嘘だとしています。また、2008年に会津士族の判の手記が発見され、新政府に金銭を貰い死体を埋葬したと記されていました。そもそも残ってる史料には、どの死体にも触るなというものであり、会津兵の死体を放置せよなどとは記されていません。

2019/02/05 (Tue) 00:33 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: タイトルなし

いろいろ書いておられますが、薩長側ではこう主張することは理解できます。
薩長の蛮行の記録は各地で残されており、会津だけが主張しているわけではありません。
あとは読者の判断に委ねることとします。

2019/02/05 (Tue) 12:27 | EDIT | REPLY |   

ZODIAC12  

会津の隠蔽工作と正当化は、目に余るものがあります。

え~~実はこれで七度目の投稿です。😖😖😖
もしかしたらURLを貼り付けたのが投稿を撥ねられてばかりいる原因かも知れませんので、URL掲示は一部分のみに止めておきます。



さて・・・・私も残念ながらこの記事内容には賛同出来ず、すぐ上に書き込まれた二人、某氏と-氏のコメントに賛成です。
しばやんさんはすぐ上で、


>>>いろいろ書いておられますが、薩長側ではこう主張することは理解できます。<<<


と言われてますが、薩長側ではなくて、長岡市とか郡山市とか仙台市とか、嘗て会津の同盟軍だった土地がそう言ってるのですけど・・・・
つまり戊辰戦争時に東北で蛮行を働いたのは、薩長土肥以上に会津藩兵だったのですよ。

新政府軍兵士が蛮行を働いたという記述(きちんと信用のおける記述)はどの程度だかは知りませんが、それら嘗ての旧幕軍だった土地の公式な史料には、会津が友軍である筈の東北諸藩に対して蛮行を働いた事が多く記述されているそうです。

そのせいで現代でも、長岡市を始めとした他の東北の土地の人たちは、会津人を嫌っていると聞きます。
すなわち「会津が薩長を批難出来た義理か!お前らのした事のほうがずっと酷かっただろ!」という訳です。


会津藩は味方である東北諸藩に対して略奪暴行や苛斂誅求を働いたので、東北諸藩からの恨みを買い、すっかり愛想を尽かされたました。
それが原因で会津藩は、味方だった東北諸藩には新政府軍に降られた挙句、嘗ての友軍から新政府軍と一緒に攻撃されて負けるという体たらくでした。

戊辰戦争時の東北での蛮行って、後世の会津観光史学による捏造のせいで、新政府軍がやった事にされてますけど、実際には大部分が新政府軍よりも会津藩兵のやった事ですよ。
そのような隠蔽工作を仕掛けているようでは、寧ろ新政府軍が本当に蛮行を働いたのかどうかも疑わしくなって来ますよ。
会津はそんな「恥部」とも言える後ろ暗い過去を隠蔽する為に、自分たちを正当化する為に、薩長に酷い目に遭わされた哀れな被害者を偽装しているだけです。


詳細は👇を御覧になれば判りますけど。

【隠蔽されてきた会津藩蛮行の歴史】
minaseyori.blog(👈URLの一部)

そして会津の欺瞞ぶりを裏付けるのが、当時来日していたイギリス人医師ウィリアム・ウィリスの書き記した報告書です。

ウィリス医師は旧幕側・新政府側どちらの陣営でもない、どちらとも利害関係のない中立な立場の人物の書いた事ですし、しかも直接自身で見聞した、いわば「一次史料」ですから、信憑性は十分でしょう。


aizu.sub.jp(👈URLの一部)

biglobe.ne.jp/~eigonou(👈URLの一部)


👆2本から少々長めに引用します。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「残念ながら、会津藩政の苛酷さとその腐敗ぶりはどこでも一様に聞かれた。
今後十年二十年に返済するという契約で、会津の藩当局が人民に強制した借款についての話がたくさんあった。

会津の国の貧しさは極端なものである。
家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。

この国で生産される米はみな年貢として収められねばならなかった。
戦争で破壊されるまえの若松とその近郊には、三万の戸数があり、そのうち二万戸には武士が住んでいて、あらゆるものがこの特権階級の生活を維持するために充当されたり税金をかけられたりしたということだ」

(中略)


会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか、彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。
その人夫はもし会津兵につかまったならばむごい死に目にあわされていただろう、と私に語った。

そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが、彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ、腹が深く切り裂かれていたのだ。


私は会津の徒党のでたらめな残酷物語をいろいろと耳にした。
長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者をみな殺害したのである。


一方、会津の国では、天皇の軍隊は各地で略奪し、百姓の道具類までも盗んだという話を聞いた。
これらの話の事実がどうであれ、戦闘にともなう無残な人命の犠牲が、戦場が若松に近づくにつれてはげしさの度合いを増していったことは疑いもない。

「若松城の明け渡しののち、会津侯父子と家老たちが囚われの身として暮している寺は若松からちょっと離れた、住み心地のわるそうな小さなあばら家であった。
たまたま私がここを訪れた時、会津侯や息子や家老たちが、約三百名の備前藩士に守られて江戸に向かうところであった。あきらかに侯と息子は大きな駕籠を利用することが許されていた。

しかし、一緒に行く家来たちは粗末きわまりない駕籠があてがわれてはいたが、家老や従者らは徒歩であり、刀を奪われてまる腰のまま、まったくうらぶれて悄然たるありさまだった。
護衛隊の者をのぞけば、さきの領主である会津侯の出発を見送りに集った者は十数名もいなかった。

いたるところで、人々は冷淡な無関心さをよそおい、すぐそばの畠で働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津侯が国を出てゆくところを振り返って見ようともしないのである。
武士階級の者のほかには、私は会津侯にたいしても行動を共にした家老たちに対しても、憐憫の情をすこしも見出すことができなかった。

一般的な世評としては、会津侯らが起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗北の際に切腹もしなかったために、尊敬を受けるべき資格はすべて喪失したというのである」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



以上です。これらが真相のようです。
会津藩士・藩兵は、藩領の内外で非道な真似を繰り返していたので、他藩のみならず、自領の領民からさえも嫌われ、見放されていたというのが真相です。

なので星亮一の言ってる事はデタラメもいい所です。これは「人それぞれの見方」などと、到底認める事は出来ません。
そういう理屈が成り立つのは、前提としている基礎的な事柄が事実である場合の話です。
会津観光史学や星亮一、原田伊織、武田鏡村のように、明らかに事実に反したデタラメの捏造を論拠としているようなのは、単なる嘘吐き、誇大妄想の詐話師に過ぎず、まともに聴くに値しません。

2020/12/21 (Mon) 14:21 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: 会津の隠蔽工作と正当化は、目に余るものがあります。

ZODIAC12 さん、コメントありがとうございます。3年前に書いた記事に、こんなに重たいコメントを頂くとは思いませんでした。
星亮一氏の著書を引用したのは不味かったですね。当時の史料に当たって書き換えた方がよさそうです。

米沢藩出身の雲井龍雄は全国各藩から推挙されて新政府の貢士に抜擢されましたが、鳥羽伏見の戦いのあと東征が始まったのち、『討薩檄』を書き、奥羽越列藩同盟の奮起を促しました。なぜこのような立場の若者が『討薩檄』を起草したかを考えると、この檄文に書かれている内容は真実を含んでいるものと私は理解しています。

イギリス人医師ウィリアム・ウィリスの証言は初めて読みましたが、出典(著書)を御存知でしたらご教示ください。イギリス人は一般的には薩摩贔屓で、この人物の記録をそのまま真実と考えるまえに、もう少し他の記録も探してみるべきだと思います。

勝者も敗者も敵の事を悪しざまに書くことは当然ですし、どちらが真実かは簡単には判定できませんが、東北で戦う前に雲井龍雄が檄文に書いた内容は無視できないと考えています。

2020/12/22 (Tue) 00:05 | EDIT | REPLY |   

ZODIAC12  

どちらの方が客観的かは明らかだと思いますけど・・・

まず最初に・・・・・・前々から思ってたのですが、何故こちらではコメントを承認制にしているのでしょうか?

正直言いますと、投稿してから反映されるまでの間がもどかしく感じます。
万一投稿した後に間違いに気付いた時に、コメントを修正したいと思っても、承認されるまで出来ませんし、削除したいと思った時も同様だからです。

何か理由でもあるのでしょうか?個人的には投稿コメントがすぐに反映される方が有難いのですが。



>>>イギリス人医師ウィリアム・ウィリスの証言は初めて読みましたが、出典(著書)を御存知でしたらご教示ください。<<<

出典は『英国公使館員の維新戦争見聞記』または『英人医師の会津戦争従軍記』というタイトルの物だそうです。
両者は邦題が異なっていても、同一の書物です。


>>>なぜこのような立場の若者が『討薩檄』を起草したかを考えると、この檄文に書かれている内容は真実を含んでいるものと私は理解しています。<<<

檄文の現代語訳に目を通してみましたが、客観性にまるで欠ける、最初から結論ありきの感情論でしたよ。
薩摩憎しの一念で書かれたもので、薩摩を悪者にしたい一念に凝り固まっていましたね。

もっとも檄文というのは、奮起を促す性質のものである以上、皆をその気にさせる為には、ある事ない事織り交ぜて書き込む代物ですからね。
だから冷静な客観的事実なんて元から期待出来ませんよ。記録とか報告書の類ではないのですから。

よってしばやんさんが期待されてる程、討薩檄の内容に「真実」とやらはなさそうに思えます。


>>>イギリス人は一般的には薩摩贔屓で、この人物の記録をそのまま真実と考えるまえに、もう少し他の記録も探してみるべきだと思います。<<<

ウィリアム・ウィリスは単なる医師というだけでなく、イギリス政府の外交官という身分も保有していたみたいです。
しかしイギリス人、イギリス政府筋の人間だからと言って、個人の心情的に必ずしも親薩摩派だと断言出来ますか?

Wikipediaのウィリアム・ウィリスのページから、以下の一文を引用します。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
東北戦争に従軍する。北越戦線軍陣病院に出動。

この時、官軍の総督、公家、大名らを説得して敵兵捕虜の虐殺を防ぎ、博愛精神に基づき、敵味方の区別なく治療すべきと強く主張して、官軍のみならず、旧幕府軍から会津藩兵に至る全ての負傷者の治療に当たり、日本に赤十字精神をもたらした。

会津で住民のために食料や物資が支給されるよう尽力した。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


上記の一節からだと、当人的には中立的な立ち位置だったと思えます。
一方の完全な当事者の一人、すなわち実際に戦闘員として戊辰戦争に参戦していた雲井龍雄よりは、ずっと見方が客観的だと思いますけど。


>>>勝者も敗者も敵の事を悪しざまに書くことは当然ですし、どちらが真実かは簡単には判定できませんが、東北で戦う前に雲井龍雄が檄文に書いた内容は無視できないと考えています。<<<

私の前のコメントを読まれなかったのでしょうか?再度掲載しますが・・・・


『会津の国の貧しさは極端なものである。
家並は私が日本のどこで見たものよりもみすぼらしく、農民も身なりが悪く、小柄で、虚弱な種族であった。』



『会津兵は天皇の軍勢の戦闘員ばかりか、彼らの手に捕らえられた人夫たちまでも殺したといわれる。
この話の確証として、四日間も雪のなかに倒れていて両足の機能を失った一人の人夫にあったことを、私はここに記しておきたい。

その人夫はもし会津兵につかまったならばむごい死に目にあわされていただろう、と私に語った。』



『そのほか、私は若松で世にも悲惨な光景を見た。
たくさんの死体が堀から引き上げられたが、彼らの両手は背中にうしろ手に縛られ、腹が深く切り裂かれていたのだ。』



『長岡で、彼らは天皇側の病院にいる負傷兵や医師たちを皆殺しにした、と聞いた。
会津兵が越後に退却して行く途中、彼らは女たちを強姦し、家々に盗みに入り、反抗する者をみな殺害したのである。』



『若松城の明け渡しののち、会津侯父子と家老たちが囚われの身として暮している寺は若松からちょっと離れた、住み心地のわるそうな小さなあばら家であった。

(中略)

護衛隊の者をのぞけば、さきの領主である会津侯の出発を見送りに集った者は十数名もいなかった。
いたるところで、人々は冷淡な無関心さをよそおい、すぐそばの畠で働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津侯が国を出てゆくところを振り返って見ようともしないのである。

武士階級の者のほかには、私は会津侯にたいしても行動を共にした家老たちに対しても、憐憫の情をすこしも見出すことができなかった。』



これらはウィリアム・ウィリスが従軍医師として、現地で直接自身の目で目撃したり、聞いたりした事ばかりです。
ウィリスの立場的にわざわざ嘘を吐いてまで、会津側を一方的に貶める動機はないと思いますけど。

対する雲井龍雄の討薩檄なんて、完全に薩摩憎しの情緒的な内容だらけで、それこそ客観性に欠けていますよ。

2020/12/24 (Thu) 19:13 | EDIT | REPLY |   

ZODIAC12  

引用します①

ここからは前コメで提示した【隠蔽されてきた会津藩蛮行の歴史】から引用します。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
≪引用開始≫

(2) 会津藩、並びに会津藩士の蛮行の実態

『10代の少年たちで結成された「白虎隊」は、会津の武士の名を汚すまいと、「自刃」して果てる。それほどに、会津の武士は誇り高く、その士風は他藩に賞賛されるほどであった。』とあるが、果たしてそうであったろうか?

会津藩士は篭城陥落後郡山や東北各地で略奪・放火など蛮行したことは、各地の歴史書に記録がある。


(記録1) 2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号・英国公使館員ウィリアム=ウィリスの記述の中に会津藩士の略奪・放火などの蛮行が記録されている。長岡市の歴史書、新発田市史でも然り。


(記録2) 新潟市史通史編3、小千谷市史、水原町編年史、会津戊辰戦史(会津藩士著)、仙台戊辰史、などの記録にある会津藩と会津藩士の蛮行


越後に侵攻した会津藩兵の目的は、会津藩預けとなった旧幕領の接収と統治、そしてやがて訪れる新政府軍との対決に備える事にあった。

その為にも越後での継戦能力を得る為に、越後の民衆の支持を得るのが不可欠だった筈である。

しかし長年の京都守護職と鳥羽伏見の敗戦による多大な出費で、半ば財政破綻した会津藩は慢性的な戦費不足から、近視眼的に進駐した各地で民衆から搾取・略奪を始めるのであった。

旧幕領を接収した会津藩兵がまず行ったのは、戦費調達の為に各村々への御用金の名の元での搾取だった。

この会津藩の御用金の割当は旧幕領の各地に及び、旧水原代官領での千唐仁村十八両、浮村一五七両、野田新田十八両(水原町編年史第一巻)を始め、前述の小千谷陣屋領での割り当てや、後述する新潟町での御用金の取りたて等、枚挙にいとまがない。

またこのような組織だった徴発だけではなく、個人の会津藩士による略奪も多発した模様である。

初期においては新潟町で強盗を働いた会津藩士数人が町民によって捕らえられて処刑されたなどしたが(新潟市史通紙編3)、武器を持ち民衆を恫喝する会津藩士や衝鋒隊の兵士達に民衆は次第に手も足も出せなくなる「会津勢、妙法寺山中に篭もり居り、度々村里へ出、百姓共へ無心申し掛け、或いは乱暴等いたし候(新潟県の百年と民衆 戊辰戦争と民衆 溝口敏麿)」。

金銭や食糧の徴発以外にも、小千谷等の戦場が近い村々では、農兵の取立てが行われた。

半ば強制的に行われた徴募では貴重な労働力を強引に奪われただけでは済まず、農兵の食料までもが村々から取り立てられ、村々は二重の負担に苦しむ事になる。

何より新政府軍の農兵が小銃を供与されたのに対して、正規軍にすら小銃が揃わない会津藩に徴募された農兵は、「先端に鉄の分銅が付いた鉄棒」や『竹槍』で、小銃を装備した新政府軍に挑まされる事になる。
しかしこのような農兵の士気が上がる筈がなく、戦いが始まれば一目散に逃げた模様である(小千谷市史下巻)。


会津藩兵による草莽の志士への襲撃も行われた。
殆どの草莽の志士は会津藩の進駐を聞き、身の危険を感じて故郷から脱出した。

しかし旧水原代官領に住む草莽の志士三浦杏雨は剛腹にも、会津藩兵が進駐して来ても留まっていたが、三月に会津藩兵の襲撃を受けて殺害されてしまう(水原町編年史第一巻)。

越後の民衆に対する蛮行は会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく、会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍によっても搾取や略奪は行われた。

「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の脱走兵五七〇人余が相次いで新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら、各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。

幕府の倒壊によって支配機能停止の状態に陥った新潟奉行所はこうした行動を停止出来なかったから、民衆の恐怖と憎悪は高まった(新潟市史通史編3)」を始めとして、新政府よりの新発田藩や与板藩の城下に乗り込み、軍資金を強要する等の蛮行を行った。

尚、この衝鋒隊や水戸脱走軍の乱暴・略奪について「越後での略奪は会津藩士ではなく衝鋒隊が行った」との会津贔屓の主張があるが、衝鋒隊にしろ水戸脱走軍にしろ会津藩の指揮を仰ぎ、補給を受けており(もっとも殆ど現地調達だが)、会津藩士によって書かれた「会津戊辰戦史」に衝鋒隊も水戸脱走軍も会津藩兵の一部と記述されているのだから、会津藩兵と同一視するのが妥当だろう。

何より衝鋒隊に略奪された越後の民衆が会津によって略奪されたと記録しているのだから、衝鋒隊と会津藩は無関係と主張する会津贔屓の主張は詭弁と言わざるを得ない。

かくして会津藩兵による搾取・略奪によって、越後の民衆の心は会津藩から離れる事になる。

これを危惧した会津藩は家老梶原平馬を新潟町に派遣して「乱暴兵ヲ斬テ規律ヲ示シタ」と藩兵による略奪を禁じたものの、「人心尚之ヲ厭ヘリ」(仙台戊辰史二巻)のように一度民衆から失った信頼を取り戻す事は出来なかった。

また年貢の減免等も行ったが(水原町編年史第一巻)、その直後に人足を徴発したりしては民衆の歓心を得る事は出来なかった。

会津藩兵の搾取・略奪に苦しんだ越後の民衆は、自分達を救ってくれる存在を求めるようになる。

かくして越後の民衆が助けを求めたのが、会津藩兵と戦闘を繰り広げる新政府軍であり、かって越後を統治した米沢藩上杉家だった。

「米沢藩兵は多人数だが馬は使わず、各自が荷物を背負ってきた。米沢様は別段のものだと衆人が感服した。

それにひき比べ、会津は異形はなはだしいゆえか、衆人不服で負け戦の話をきくと婦女子までがよろこんだ(新津市史通史編下巻)」。

また米沢藩兵が出兵した事をで、会津藩兵により乱された治安も回復した「この会津藩士がひきとったあと、九之助の分家新津町祐蔵から米沢出張所へこのことを報じた。

するとただちに米沢藩士十八人が槍・鉄砲持参で、とりおさえのため九之助方へ出張してきた。米沢藩はくだんの会津藩士を拘留し、水原の会津藩陣屋へ照会した(新津市史通史編下巻)」

越後の民衆が会津藩を嫌い、米沢藩を慕った一例として、会津藩によって徴募された出雲崎代官領の農兵隊が、会津藩の支配を嫌って米沢藩の家来になる事を懇願して許された事が挙げられる。

この農兵隊は後に米沢藩から精義隊と命名され、米沢藩の指揮下に入り最後まで米沢藩兵と共に新政府軍と戦う事になる(新潟市史通史編3)。

soutokufu/boshinwar/hokuetu(👈URLの一部分を掲示)


(記録3) 会津戦争詳細年表より 会津藩士の蛮行

慶応4年
4月28日 駒屋 守屋などで放火
5月10日 中山村放火
5月10日 中山村 竹ノ内村に放火
5月31日 八幡村 富岡村に放火駒野村を襲撃
6月1日 下守屋の民間を襲撃 金品強奪
10月7日 亀ケ城に放火


(参考)会津藩士は搾取や略奪で蛇蝎のように嫌われ、敗走時には民衆に竹槍で追われたとか。 戦の最中にも略奪とかしてたようだ。

≪引用終了≫

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



以上ですが、前出のイギリス人医師ウィリスの証言の正確さを裏付けています。
越後の民衆が味方である会津を嫌い、逆に敵方の新政府軍に救いを求めていたなんて、何ともブザマで情けない話ですよ。

しかも上記引用文中で引き合いに出されている、会津藩の蛮行がハッキリと記載されてる通史ですけど、それら全部が嘗ての奥羽越列藩同盟だった土地の物ばかりですよ。

それらの市を纏めると以下の通り。


===========
郡山市(旧二本松藩)・長岡市(旧長岡藩)・小千谷市(旧会津藩)・水原町(旧天領、旧新発田藩、旧村上藩)・新潟市(旧天領)・新津市(旧新発田藩)
===========



つまり会津はかつての味方たちからも酷く嫌われ、恨まれていた鼻つまみ者だった訳ですよ。

「敵」が批難してるのではなく、「味方」が批難してるのですから、雲井龍雄の言う事よりもずっと信憑性は高いと思いますけど。

2020/12/24 (Thu) 19:20 | EDIT | REPLY |   

ZODIAC12  

引用します②

以下は👇Yahoo!知恵袋から、コメントを二点ばかり引用します(撥ねられてしまうので、引用元のURLを全部掲示出来ませんが)。

(前略)detail.chiebukuro.yahoo(中略)question(中略)1126825361

但しどちらとも個人のコメントですが、概ね正しい事を言ってるかと思います。
一点目のコメントの方は、参考史料とかを提示してないのが気になりますが・・・


◎一点目
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

薩摩や長州軍が会津で略奪や暴行などをしたという史実はありません。
特に長州では四民平等思想の民政が確立しており、例えば、第二次長州征伐の際(長州から見れば四境戦争)、長州軍が占領した旧浜田藩領内や石見銀山管轄内では、当時ではありえないほどの善政を敷き、市民の側から進んで長州軍に治世を願い出ていたくらいです。

新政府軍は革命軍でもありましたので、特に民政や庶民感情には留意しており、例えば新政府軍には各部隊に必ず会計係りがおり、現地での食料の調達ではちゃんと農民や商人に現金を支払い購入していました。
戊辰戦争では新政府軍は軍費に苦しんでいたのですが、かといって市民から収奪をした試しはなく、逆に軍費不足で戦争の遂行が大幅に遅れたのです。

新政府軍が乱暴を働いたなどというのは、戦争に負けた会津藩が悔し紛れでそう吹聴したに過ぎません。
というか、むしろ会津軍のほうが領民に乱暴を働き、略奪や暴力行為をしたという記録は多く残っており、市民はむしろ治安維持のために新政府軍を歓迎していたのです。
これは会津だけでのことではなく、他の戦争が行われた地でも同様の傾向にありました。
原因は、苦戦や戦敗続きの軍特有の荒れ切った戦争心理というやつです。

日本は単一民族であり農耕社会ですから、昔から戦争で侵攻した地で乱暴狼藉の類を働くということはほとんどありませんでした。
それは占領した地の市民に働いてもらって年貢や運上金などの税を取らなければならないので、農民や町人たちの反感を買っては治世が不可能になるからでもあります。

上の回答にもありますが、今でも会津の人は鹿児島や山口を恨んでいるというのは、単なる観光用のスローガンです。(まれには狂信的で錯誤の郷土意識を過剰に抱いている老人もいるかもしれませんが。そういえばこのカテにも一人・二人いるみたいですよ)

日本は諸外国では必ず付き物の民族問題や地域問題というのが存在しない国です。
ですから、こうした観光用のスローガンが珍重されるのです。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



◎二点目
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

会津の松平容保が恭順ですか?その認識は大きな誤りです。
特に現在の会津史(観光史学)は歴史小説という虚偽の上に成立しているので歴史として正式な学会などに、全く認められていません。
会津の悲劇、会津VS薩長を本気で思いこんでいる人々は正しい史実を知らず、歴史小説に感化された人々だといえる。

徳川慶喜の恭順謹慎。勝海舟による江戸城明け渡しと軍艦武器の引渡しにより、江戸は戦火を免れた。
しかし、会津藩は、表向きは官軍に恭順すると言いながら裏では外国から武器を購入し戦闘準備を行っていた。
このことが官軍に筒抜けだったため、東北各所における戦いが始まった。
奥羽越列藩同盟政府は開戦初期、会津に東国諸藩の人兵を集結させた。

会津城下では、以下のようなざれ歌が領民に広まっていたことからも恭順どころか、戦意鼓舞、大きな野心があった様子がみてとれる。

「都見たくばここまでござれ いまに会津が江戸になる」

次に、恭順を強く勧めた会津藩家老・西郷頼母と(西郷はそのため、藩主や他家老に暗殺命令を出され、城を出た。)それに反対した藩主松平容保と会津藩士について、年表で説明する。


慶応4年(1868年)2月27日、松平容保(34歳)は会津藩士に徹底抗戦を通告。
西郷頼母は恭順を勧めるが、容保はじめ藩士たちから猛反発され徹底抗戦へ。


慶応4年(1868年)5月1日、白河城陥落。西郷頼母は再び恭順を勧めるが会津藩士の多くが聞き入れず徹底抗戦を主張。頼母は登城差し止めとなる。


慶応4年(1868年)8月26日、西郷頼母は西軍と砲火を交えている評議中「この窮地に陥ったのは余の献策をいれないためだ」と厳しく批判。
そのため「西郷斬るべし」の声が起こり容保の命で伝令され息子吉十郎と共に城を出る。
その後は榎本武揚の軍に投じて函館で戦った。

その上、戦争中会津領民は畳を持たされ、戦地に弾よけとして配置された。
また、会津藩士は篭城陥落後郡山や東北各地で略奪・放火など蛮行している。
( 2004 郡山市勢要覧 市制施行80周年・合併40年記念号などに記載)


また、歴史小説では会津藩士は強制的に斗南に移されたと書かれているが藩士たちは地元の猪苗代か青森の斗南を選択する権利を与えられていた。
しかし、敗戦後は会津藩政に不満を持っていた地元領民に世直し一揆を起こされ(明治1年(1868年)10月3日、ヤーヤー一揆)藩士自らの選択で斗南へ移った。


その後、会津藩主の嫡男・容大が家名存続を許されて華族へ。
容保は明治13年(1880年)日光東照宮司となり正三位を叙任。
東北諸藩も減封はあったが、各藩主はほぼ華族になっている。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



以上ですが、近年は「明治維新の見直し」と称して、原田伊織や星亮一を始めとした反薩長の幕府贔屓論者たちの妄説が、一部で持て囃されてる傾向が見られますが、さすがに問題ありですよ。

それらの論者たちの実際に言ってる事と来たら、幕府を過度に依怙贔屓して、薩長土肥陣営を不当に扱き下ろし、捏造してまで貶めているだけの、単なる「薩長呪詛史観」とでも呼んだ方が良さそうな代物ですから。
言ってる事も徒に矯激で品がないし・・・・。

大体その手の論者の思想傾向とか、思想活動歴とか所属団体とかを確かめてみますと、大概左翼の系統ばっかりですからね。
だから私は論者の思想遍歴とかを重視します。


明治維新に色々な負の側面や過ちがあったからと言って、明治維新の歴史的な意義や功績まで否定しようとするのは、さすがに行き過ぎです。
明治維新を「何の大義もない、権力欲だけが動機のクーデターだった」みたいな論調には、決して与するべきではありませんね。

2020/12/24 (Thu) 19:27 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: どちらの方が客観的かは明らかだと思いますけど・・・

ZODIAC12さん、コメントありがとうございます。
コメントの承認制については、初めは自由に書けるようにしていましたが、何度か記事と無関係な下品な内容を連続してぶつけられるなど迷惑コメントで不愉快な思いをしたことがあります。その点についてはご理解ください。

蛮行があったかなかったかは、内乱の最中であり双方にあってもおかしくありません。会津藩の蛮行だけを批難するスタンスは公平性を欠きます。

戦争は相手が憎いだけでは大規模なものにはなりえません。戦うことに義があり利がなければ兵は動きません。ではなぜ、北陸諸藩は新政府と戦う決意をしたのか、戦うことに意義があると考えたのか、そのあたりに踏み込まないと自分自身が納得できないのです。

戊辰戦争についてはいずれ新ブログでまとめて書くことにしますが、やるべきことが溜まっているので、だいぶ後になることはご容赦願います。

2020/12/24 (Thu) 23:12 | EDIT | REPLY |   

ZODIAC12  

私の言わんとした事がよく伝わっていないようで・・・・

>>>ではなぜ、北陸諸藩は新政府と戦う決意をしたのか、戦うことに意義があると考えたのか、そのあたりに踏み込まないと自分自身が納得できないのです。<<<

>>>戊辰戦争についてはいずれ新ブログでまとめて書くことにしますが、やるべきことが溜まっているので、だいぶ後になることはご容赦願います。<<<

それは結構なのですが、次の一言は正直言って頂けませんね。


>>>会津藩の蛮行だけを批難するスタンスは公平性を欠きます。<<<

このように言われて、些か面喰らいましたよ。
本を正せばしばやんさんが書いたこの記事からして、旧幕府陣営を一方的に擁護して、薩長陣営を100%悪として断罪するという、極めて不公平な記述だからこそ、私や上の御二人も「それは事実に反するだろう」と言ったまでですが。

なのでしばやんさんがこのような事を言えた義理ではないと思いますけど・・・・

それにこれでは論点逸らしではないでしょうか。
私が言わんとした事は、仮に両方に略奪暴行の類があったとしても、どちらの言い分がより信用出来るのか?どちらがより批難されるべきなのか?といった事なのですが。

上でも挙げましたように、会津の蛮行は「敵」である官軍側が言ってるのではなく、「味方」である奥羽越列藩同盟を組んだ東北諸藩が言っている、という点が重要なのですよ。

裁判での証言に喩えるなら、被告人の悪事を肯定又は否定する証言をする場合、被告人の「身内」「仲間」と、被告人の「敵対者」のどちらの証言に、より信憑性があるか?を考えれば良いかと。

単純に〇か×かで考えれば、下記の通りになります。


◎肯定する証言の信憑性◎

①身内(仲間):〇・・・・・〇の理由:身内や仲間なら本来、被告を庇って悪事を隠すものだが、そんな立場の者が肯定するのなら、敵対関係にある者が言うよりも信用度が高い。

②敵対者:×・・・・・×の理由:被告人とは敵対関係にあるなら、被告人の事を悪く言うのは当たり前。だから感情的になって、ある事ない事言ってる可能性が高い。


◎否定する証言の信憑性◎

③身内(仲間):×・・・・・×の理由:身内贔屓をして、嘘を吐いている可能性が高い。

④敵対者:〇・・・・・〇の理由:被告人を擁護した所で、自身には何の利益にもならないから、本当の事を言ってる可能性が高い。


東北諸藩の遺した史料、つまり会津藩の蛮行の証言は、上記の①に当たる訳ですよ。この記事の記述は全体的に②ですけど。

そして後世において、史実を捏造してまで相手側を執拗に貶めている会津と、反薩長系の論者たちこそ批難されるべきだと思うのです。

それにしばやんさんは頻りに薩長史観、薩長史観と言ってますけど、果たして薩長側がそこまで悪質な捏造や隠蔽工作をしたという事実はあるでしょうか?
寧ろ薩長側にそこまでして正当化を図り、捏造や隠蔽工作をする必然性があるとは思えませんけど。


以上が私の言わんとした事です。
けれどここまで語っても、しばやんさんは恐らく納得されないかと思いますので、ここの記事ではこれで最後にしますけど。

2020/12/27 (Sun) 18:34 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: 私の言わんとした事がよく伝わっていないようで・・・・

私は幕府贔屓でも薩長嫌いでもありません。またどちらが暴行をしたとかしないとかの議論で歴史を論じるつもりはありません。どちらも暴行はあったと思いますが、そんな議論をしても大局的な歴史の流れはつかめませんし、特に関心はありません。
ZODIAC12さんは、イギリスの伝統的統治方法(「分割統治」)をご存じですね。対象国の国内に内紛があれば、イギリスは反政府勢力を支援して政権転覆後に親英政権をつくってイギリスの影響力を再度強めようとしました。そのことは我が国においても例外ではありません。イギリス朝廷と幕府の対立軸を作り、薩長を中心に新英政権を作ろうと動いていました。
我が国の幕末は第三代パーマストン子爵内閣の時代でした。その内閣の時にイギリスは中国やインドに何をしましたか。日本では生麦事件が起きると本来の武断的性格を剥き出しにし、文久3年(1863)には薩英戦争を、元治元年(1864)には四国連合艦隊による下関攻撃を行ない賠償金3百万ドルを幕府に請求しました。これは薩摩と幕府との対立を強めるためと理解できます。
薩長同盟が成立した3カ月後の慶応2年(1866)4月、横浜で発行されている英字新聞ジャパンタイムズ紙に、イギリス公使館の通訳官であるアーネスト・サトウが『英国策論』を発表しました。これも、朝廷と幕府を対立させる仕掛けとして機能し、その後のイギリスの対日施策はこのシナリオに基づいて動いています。その後パーマストン内閣が退陣し、対日政策に変更がありましたが、パークス公司は従来の方針を変えていません。
1866年4月16日付のハモンド外務次官よりパークスへの半公信にはこう書かれています。
「日本において体制の変化がおきるとすれば、それは日本人だけから端を発しているように見えなければならない。じじつ、その変化はわれわれの考え方と異なる仕方でおきるかもしれないが、それが真に恒久的なものであり、且つ有益なものであるためには、徹頭徹尾、日本的性格という特徴を帯びていなければならない。」(萩原延寿著『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』朝日文庫 p.237~238)
明治維新の歴史叙述に英仏の動きをもっと織り込まなければ、真実の歴史は見えてこないと考えています。この視点で検討されていない歴史叙述にはあまり興味がありません。
薩摩藩も長州藩のやったことに問題はいろいろありますが、幕藩体制のままで日清日露が戦えたとは思えません。結果として明治維新がわが国の近代化に資したことは評価すべきですが、だから薩長を善とし、幕府勢力を悪とするような見方は単純すぎます。当時の新聞や瓦版などを確認すると、戊辰戦争と関係なく、各地で農民の一揆などが起きていることがわかります。一般庶民が薩長中心の政権を歓迎していたというのは幻想にすぎません。
いつの時代もどこの国でも歴史叙述というものは、勝者にとって都合の悪いことを書かせないものです。いろんな立場に立つ人々の記録などを読みながら、真実がどこにあったのかを考えるのが大切なのですが、それは決して容易なことではなく、まだまだ道半ばです。
本件についての返事は結構です。

2020/12/30 (Wed) 15:23 | EDIT | REPLY |   

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