戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した
もちろん内容に誇張もあるだろうが、この檄文に賛同して多くの武士たちが命がけで官軍と戦ったことを考えると、かなりの真実がこの檄文に織り込まれていると考えるほうが自然だと思う。
今回は雲井龍雄の書いた文章の内容を少し詳しく紹介したい。

檄文の冒頭部分は前回の記事で書いたとおり「彼らが攘夷を主張したのはただ幕府を傾けて政権を奪う野望であったことを知るべきだ」という内容で、原文は前回の記事で引用したので省略させて頂いてその続きから読んでいこう。
原文とその大意は前回紹介したWikipediaの記事に出ているが、文中の「大意」の部分は僭越ながら筆者が若干の修正を加えている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%96%A9%E6%AA%84
「皇朝、陵夷(りょうい)極まると雖も、其の制度典章、斐然(ひぜん)として是れ備はる。古今の沿革ありと雖も、其損益する処知るべきなり。然るを、薩賊専権以来、漫(そぞろ)に大活眼、大活法と号して、列聖の徽猷嘉謀を任意廃絶し、朝変夕革、遂に皇国の制度文章をして、蕩然地を掃ふに至らしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。
薩賊、擅(ほしいまま)に摂家華族を擯斥し、皇子公卿を奴僕視し、猥(みだ)りに諸州群不逞の徒、己れに阿附する者を抜いて、是をして青を紆ひ、紫を施かしむ。綱紀錯乱、下凌ぎ上替る、今日より甚しきは無し。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」
【大意】
我が国には海外勢力による国防の危機があると言っても、わが国には固有の制度があり、それらが機能してきたことを知るべきである。しかるに、薩摩が権力を握ってからは急激で無理な変革を推し進め、長い歴史の中で培われてきた制度や慣習を破壊してしまった。この罪をどうして問わずにおれよう。
薩摩は、公家や皇族を捨て去り、自分の意に沿わぬものは排斥し、諸藩の不逞の輩が、自分たちにつき従うものばかりを出世させて取り立て、下克上の綱紀紊乱の世を招いている。その罪を問わずにはいられない。
「公家や皇族を捨て去り」という部分は分かりにくいが、孝明天皇・明治天皇の摂政であった親幕派公卿の二条斉敬(にじょうなりゆき)や、親幕派の賀屋宮朝彦親王らが王政復古時に朝廷から排除されたことを指していると思われる。

【鳥羽伏見の戦い】
次に雲井龍雄は鳥羽伏見の戦いの官軍の戦いぶりについてこう述べている。
「伏水(鳥羽・伏見の戦い)の事、元暗昧、私闘と公戦と、孰(いず)れが直、孰れが曲とを弁ず可らず、苟も王の師を興さんと欲せば、須らく天下と共に其の公論を定め、罪案已に決して、然る後徐(おもむろ)に之を討つべし。然るを、倉卒の際、俄に錦旗を動かし、遂に幕府を朝敵に陥れ、列藩を劫迫して、征東の兵を調発す。是れ、王命を矯めて私怨を報ずる所以の姦謀なり。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。
薩賊の兵、東下以来、過ぐる所の地、侵掠せざることなく、見る所の財、剽竊せざることなく、或は人の鶏牛を攘(ぬす)み、或は人の婦女に淫し、発掘殺戮、残酷極まる。其の醜穢、狗鼠も其の余を食わず、猶且つ、靦然として官軍の名号を仮り、太政官の規則と称す。是れ、今上陛下をして桀紂の名を負はしむる也。其の罪、何ぞ問はざるを得んや。」
【大意】
鳥羽・伏見の戦いも、もし本当に正当な戦争を起こそうとするならば、天下の公論を定めて、罪を明らかにしてから征討軍を起こすべきなのに、急に錦の御旗を利用して策謀によって幕府を朝敵に陥れて戦争を起こし、諸藩を脅迫してさらなる戊辰戦争に駆り立てている。これは、天皇の意思を自分勝手にコントロールして私怨を報いようとしている邪な謀略だ。その罪を問わなくてはならない。
薩摩の軍隊は、東日本に侵攻して以来、進軍した先々で略奪や強姦をほしいままにし、残虐行為は限りない。しかるに、官軍を名乗って、それを太政官の規則と称している。これは、今の天皇に暴君の汚名を負わせるものだ。その罪を問わなくてはならない。
引用部分の後半で、雲井龍雄は官軍の乱暴狼藉が甚だしかったことを指摘しているのだが、この点について他にどのような記録が残されているであろうか。

星亮一氏の『戊辰戦争 裏切りの明治維新』(静山社文庫)に、『相馬市史』に解説されている『吉田屋覚日記』が紹介されている。この日記は相馬の御用商人・吉田屋鈴木庄右衛門の手代が記録したものだという。
「8月14日
官軍側の分捕品は、武器弾薬米穀並びに主だった家財や金蔵、土蔵などは太政官に、武器や家財は各藩に、小物や家財など見当たり次第、金銭衣類や家具などは中間小者、人足のものになる。もっとも後で持主から願い出れば、元値百両位の品は二十両位で買い戻される。」(『戊辰戦争 裏切りの明治維新』p.144)
分かりやすく言えば、彼らは分捕り品を販売して収入を得ていたわけで、官軍とは名ばかりで夜盗の集団のようなものであった。

【星亮一】
星氏はさらにこう解説しておられる。
「官軍に徴発された馬は、雨覆いもなく野外につながれたままだったので、数十疋も死んだ。また馬の飼料として、近在の青豆や野菜を採ったので、野菜が一切なくなるなど、農民は断腸の思いだった。
酒屋の従業員は皆、官軍の炊き出しに使われ、酒造りができなくなった。
治安の悪化もおびただしいものがあり、強盗事件が頻発した。討ち取った死体から服をはぎ、肉を割くような残酷な振る舞いもあった。
女性も徴発され、給仕役に後家が召し出された。
これは単なる給仕ではなく、指揮官クラスの夜伽の相手であった。一般兵のために小高村、浪江村、鹿島村などの宿には遊女を置くことが求められた。
病院の看護人にも大勢の女性が動員された。
相馬藩はじっと耐えた。」(同上書 p.145)

ネットで古い記録が残されていそうな本を探していると明治44年刊の『仙台戊辰史』という本が見つかった。仙台藩は、新政府から会津藩に対する追討軍への参加を命じられていたのだが、藩では次第に会津藩・庄内藩と協調して新政府と敵対すべきだとの意見が多数となっていく。なぜ、仙台藩で錦の御旗の官軍と戦おうという意見が広がっていったのか。
官軍の奥州鎮撫使九條道孝総督の目付であった戸田主水という人物が、慶応4年(1868)4月25日に九条総督に宛てて建策した文書の一部を引用する。文中で戸田は鎮撫使参謀の大山綱良(薩摩藩)と世良修蔵(長州藩)を強く批難しているが、戸田は建策したのちに姿を消したという。

【世良修蔵】
「…人民を鎮め撫つるは殿下の御職掌にして、みだりに兵威を以て人民を圧服し給うの謂いにあらざるや明らかなり。…殿下御東下以来大山・世良両参謀の為すところを観察するに、殿下の為に痛嘆せずばあるべからざるものあり。請う、これを陳せん。寒風澤御着港の即日、東名浜にて大山参謀は江戸の商某の商船及び貨物をも敵地のものなりとして掠奪し、号して分捕りという。…世人は視て鎮撫使の為すところとなし之を疾(やまし)みて官賊と称するに至る。殿下奥羽の地を踏む一歩面してこの如し。これ奥羽の人望を失うの基を開く一なり。
薩長の兵士本営門外に乱暴実に驚くべき者あり。あるいは路傍に臣士を侮辱し、あるいは市井に商賈を嚇怒し、あるいは山野に婦女を強姦し、あるいは仙台誹謗の歌謡聞くに忍びざることを白昼大道に高吟するの類、両参謀知りて而して措て問わず。士民の怨みいつこにか帰す。これ殿下の人望を失うの二なり。
したがって討会*出兵の遷延するも両参謀本営において人中に大藩の君公老臣を嘲笑するの類、その臣子たるもの誰が心に快とせんや。これ殿下の人望を失うの三なり。
…
世良参謀討会出陣と号し、常に福島辺の妓楼にあり。昼夜昏旦を分かたず杯盤狼藉。傍を人無きごとく大藩の重臣隊長を駆使する。奴僕の如く討会督促の急なる矢の如し。…」
*討会:会津藩追討のこと
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429/217
戸田主水という人物は仙台藩とつながっていたという説もあり、記されていることの真偽の判断は読者にお任せするが、ほかにも同様な記録が残されていることからすると、雲井龍雄の『討薩檄』に書かれているような官軍による乱暴狼藉がひどかったことは、ある程度は真実であったと理解してよいだろう。
多くの住民が殺され、富を奪われ、女性の多くが強姦される被害が東北各地で続発し、官軍と言ってもやっていることは中世の山賊集団と同様で、東北諸藩の武士たちはこのことを黙って見過ごす訳にはいかず、命がけで官軍と戦うことを決意したのだと考える。

【討薩檄】
雲井龍雄の『討薩檄』に話を戻そう。続いてこう記されている。
「井伊・藤堂・榊原・本多等は、徳川氏の勲臣なり。臣をして其の君を伐たしむ。尾張・越前は徳川の親族なり。族をして其の宗を伐たしむ。因州は前内府の兄なり。兄をして其の弟を伐しむ。備前は前内府の弟なり。弟をして其の兄を伐しむ。小笠原佐波守は壱岐守の父なり、父をして其の子を伐しむ。猶且つ、強いて名義を飾りて日く、普天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫しと。嗚呼、薩賊。五倫を滅し、三綱を破り*、今上陛下の初政をして、保平(保元の乱・平治の乱)の板蕩を超へしむ。其の罪、何ぞ問わざるを得んや。」
*三綱五倫:三綱とは. 臣下の王に対する忠; 子の親に対する孝; 妻の夫に対する烈. 五倫とは. 父子有親(孝行); 君臣友義(忠誠); 夫婦有別(男女の役割); 長幼有序(上下の秩序); 朋友有信(信義)
【大意】
徳川の勲臣を臣下に討たせたり、徳川の親族に宗家を討たせたり、諸藩の親子兄弟を討たせたりしている。そのことを、飾り立てた言葉で正当化しているけれど、こういうことは人道に反することであり、今上陛下の統治に傷をつけることになる。その罪を問わなくてはならない。
そう記して、最後に雲井龍雄はこう結んでいる。
「右の諸件に因って之を観れば、薩賊の為す所、幼帝を刧制して其の邪を済(な)し、以て天下を欺くは莽・操・卓・懿(王莽や曹操や董卓や司馬懿)に勝り、貪残厭くこと無し。至る所残暴を極むるは、黄巾・赤眉に過ぎ、天倫を破壊し旧章を滅絶するは、秦政・宋偃を超ゆ。我が列藩の之を坐視するに忍びず、再三再四京師に上奏して、万民愁苦、列藩誣冤せらるるの状を曲陳すと雖も、雲霧擁蔽、遂に天闕に達するに由なし。若し、唾手以て之を誅鋤せずんば、天下何に因ってか、再び青天白日を見ることを得んや。
是(ここ)に於て、敢て成敗利鈍を問わず、奮って此の義挙を唱ふ。凡そ、四方の諸藩、貫日の忠、回天の誠を同じうする者あらば、庶幾(こひねがはく)は、我が列藩の逮(およ)ばざるを助け、皇国の為に共に誓って此の賊を屠り、以て既に滅するの五倫を興し、既に歝(やぶ)るるの三綱を振ひ、上は汚朝を一洗し、下は頽俗を一新し、内は百姓の塗炭を救ひ、外は万国の笑侮を絶ち、以て列聖在天の霊を慰め奉るべし、若し尚、賊の篭絡中にありて、名分大義を弁ずる能わず、或は首鼠の両端を抱き、或は助姦党邪の徒あるに於ては、軍に定律あり、敢て赦さず、凡そ天下の諸藩、庶幾(こひねがはく)は、勇断する所を知るべし。」
【大意】
上記のことから考えれば、薩摩のなすところは、幼い天皇を利用強制して邪悪な政治をし、天下を欺き、残虐をなし、道徳を破壊し、長い伝統や制度を破壊している。奥羽列藩同盟はこれを座視するに耐えないので、再三朝廷にその不当を訴えてきたが、天皇にはその旨は届かなかった。もし、手をこまねいて薩摩を討たなければ、天下はどうして再び晴れることがあろうか。
よって、勝ち負けや利害を問わずに、この義挙を主張する。天下の諸藩は、もし本当に忠や誠を持っているならば、奥羽列藩同盟に協力して、日本のために薩摩を倒し、失われた道義を復活させ、万民を塗炭から救い、外国からの侮りを絶ち、先祖たちの心を安んじて欲しい。もし、薩摩に篭絡されて、何が正義かも弁えず、薩摩を助けるような邪悪な徒がいるならば、軍も規律があり、許すわけにはいかない。天下の諸藩は、勇気ある決断をして欲しい。
以上が『討薩檄』の内容なのだが、この檄文の存在や戊辰戦争で官軍が乱暴狼藉を働いた記録が残されていることを知ったのはつい最近の事である。
教科書では戊辰戦争について江戸開城後、「一部の旧幕臣や会津藩はなおも抵抗し、東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩をたすけたが、つぎつぎに新政府軍に敗れ、同年9月、はげしい戦闘のすえ、会津藩も降伏した」(『もういちど読む山川の日本史』p.217)と、キレイごとが書かれているだけだ。
最近になってようやく薩長史観とは異なる視点で描かれた歴史書が出版されるようになってはきたが、明治維新からもう150年も経つというのに、教科書やマスコミなどの明治史の解説では未だに薩長本位で、これでは東北出身の方は納得できないだろう。

そんなことを考えながら面白そうな本を探していると、昭和9年に出版された高梨光司著『維新雑史考』に、戊辰戦争に関する薩長本位の歴史叙述に苦言を呈しておられる文章が見つかった。高梨氏は官軍による乱暴狼藉の事例を紹介したのちに、こう記されている。
「然るに従来の薩長本位の戊辰戦記には、これらの事に関し、何ら記せざるのみならず、東北人の手になるものと雖も、概ねこれに触れるを避けたかの観がある。或いは他に憚るところあって、かくせりやとも思わるるが、歴史的事実は飽くまでその真相を伝うべきであり、その結果が当年の官軍なるものの不名誉に帰するも、致し方あるまい。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1232273/82
この本は明治維新から66年後に刊行されているのだが、それから84年経った今も大半の歴史書が薩長史観で叙述されているのは、戦後の日本史学者の怠慢であると言うしかないだろう。
いつの時代もどこの国でも、勝者は「歴史」の叙述の中で自らの支配の正当性をアピールすることによって、政権の長期安定をはかろうとするものであり、勝者にとって都合の良い歴史を広く伝えようとするのは当たり前のことなのである。
勝者が編纂した歴史や記録に偏らず、さまざまな立場の人々が書き残した記録を読み比べながら、本当は何があったのかを考察することが重要だと思うのだが、教科書などのわが国幕末から明治までの歴史が全面的に書き換えられる日は来るのか。
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