白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争
大総督府軍防事事務局判事の大村益次郎は、二本松城落城後は戦意の乏しい仙台藩を攻めて、最小の流血で最大の戦果を挙げて東北戊辰戦争を終結させようという考えであったのだが、土佐藩の板垣退助がこれに真っ向から反対し、先に会津藩を殲滅することを強く主張したという。国立国会図書館デジタルコレクションに『板垣退助君伝. 第一巻』が公開されていて、PCなどでこの件に関する板垣の主張を読むことが出来る。文中の「仙」「米」は仙台藩、米沢藩を指す。

【板垣退助】
「抑(そもそ)も会津は根本にして、仙米等は枝葉なり。枝葉尽きて根本存する者は或いはこれあり。根本既に倒れ枝葉枯落せざる者、いまだかつてこれ有らざる也。いま北越の信いまだ確なるにあらずといえども、其官軍の勝を得たる、蓋し疑うべからず。この機に乗じて直進して会津を打つ、寧ろ千載の一遇と言わざるべけんやと、是に於いて議ようやく決す。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781003/178
板垣は新政府軍が仙台藩や米沢藩に勝利したとしても会津藩が残っている以上東北戊辰戦争は終結しない。また仙台方面に兵を進めてもすぐに厳寒の季節に入り、戦争が長引くことになるだろう。そのことによって、会津藩に周到な準備をする時間を与えてしまうことになることは問題だ。相手の準備が出来ていないうちに会津を討つべきであり、今こそがその好機だと主張したのだが、この判断は新政府軍にとっては正しかった。

以前にもこのブログで書いた通り、会津・庄内藩は北海道の両藩の領地をプロイセンに貸与して、同国から大量の武器・弾薬を購入する交渉を開始し、本国のビスマルク宰相が秋にはそれを認可していたのである。もし新政府軍が会津攻略を後回しにしていたら、戊辰戦争はもっと長引くこととなり大量の犠牲者が出て、戦いが終わった後はドイツが北海道のかなりの部分を領有していてもおかしくはなかったのである。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-549.html
一方、会津藩は新政府軍と戦う準備を進めていた。
三月には軍制改革を行い、十五歳から十七歳の少年は白虎(びゃっこ)隊、十八歳から三十五歳までの精鋭部隊を朱雀(すざく)隊、三十六歳から四十九歳までを青龍(せいりゅう)隊、五十歳から六十五歳までを玄武(げんぶ)隊と名付け、さらに身分によって士中隊、寄合組隊、足軽隊などを編成した。
このようにしてかき集めた会津軍の総兵力は約六千人で、そのうちの約七割にあたる精鋭部隊を、勢至堂口、中山口、大平口など会津につながる藩境の要所に分けて配置したという。

会津に向かうのにどの道から入るかについては、新政府軍の中でも議論があったのだが、八月二十一日に約二千二百の新政府軍は、会津藩防衛線の弱点である母成峠(ぼなりとおげ)を衝き、約八百の旧幕府軍を破った(母成峠の戦い)。会津藩からすれば、わずか一日で防衛線が破られることは想定外であった。
会津藩軍事局が母成峠陥落の急報を受けたのは八月二十二日午前五時だという。
しかしながら、有力部隊を藩境に配置していたために会津城下には精鋭兵がいなかった。
この時会津城下にいた将兵は、藩主の近臣や軍事局のほか、君則護衛の任にあたっていた白虎隊の少年たち約八十名と、鶴ヶ城警護にあたっていた玄武隊の老人たち約百名のほか、前月に結成されたばかりの敢死隊約二百五十名、僧侶からなる奇勝隊約百名にすぎず、城下はガラ空きの状態だったのである。

新政府軍の会津進撃を止めるためには、日橋川にかかる十六橋を破壊する必要があった。この橋を破壊すれば新政府軍の大砲は動けない。
十六橋の破壊と戸ノ口原防衛のため、奇勝隊、敢死隊、砲兵三番隊のほか白虎士中二番隊三十七名が出陣を命じられたのだが、薩摩軍の銃撃を受けて十六橋の破壊ができないまま日が暮れる。
大正六年に出版された『会津戊辰戦争』にはこう記されている。東軍とは旧幕府・会津軍を指す。
「夕陽既に没すれども朝来の雨未だ止まず。満天墨を流せるが如きもなお戦を収めず。…東軍今や弾尽き或いは硝薬湿りて用をなさず。即ち銃を棄て白刃を翳(かざ)して戦う。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951582/114
夜が明けると新政府軍の精鋭三千余人が総攻撃を開始し、会津藩戸ノ口原防衛隊総勢三百数十人は一気に蹴散らされ、奮闘した白虎士中二番隊もたちまち過半を失い、生存者は飯盛山へ逃れて行く。しかし、そこで見た光景に彼らは息を呑む。城下のあちこちから火の手が上がり、鶴ヶ城周辺にも火の手が迫っていた。

『会津白虎隊十九士伝』の西川勝太郎伝にこう記されている。この本はGoogleブックスで全文を無料で読むことが出来る。
「…城既に陥るや否や、公既に殉するや否や、未だ知るべからず。我が刀折れ城陥り公殉せるを見て、而して後従容義を取り生を捨つるも亦晩しとせずと。衆又其の言に従う。因って相携えて城に入らんと欲す。而して一人の其の捷路を弁ずるものなく、深邃の山谷を跋渉し、偶々不動瀑畔に出で、新堀に入れば、瀧澤峠の敵兵狙撃甚だ急なり。因って匍匐し洞窟を経て飯盛山に登り、城郭を展望すれば黒煙天に漲(みなぎ)り砲声地に震う。君慨然衆に謂って曰く。今や殉すべきの秋(とき)なりと。衆遂に之に従う。そもそも十九士のその死所を得しものは君の力なりと謂うも誣言*にあらず。」(『会津白虎隊十九士伝』p.20)
*誣言(ふげん):わざと事実を曲げて言うこと。またその言葉。
https://books.google.co.jp/books?id=0ji6R7q742QC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false

【飯沼貞吉】
実はこの時に自刃を決行した白虎隊は20名なのだが、喉を突いて死のうとした飯沼貞吉(のちに貞雄と改名)のみが一命をとりとめた。その飯沼氏が生前に伝え残した『白虎隊顛末略記』という記録もネットで読むことが出来る。
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/tenmatu.htm
手持ちの食糧もなくなり何か食べたくても、近くに民家もなく食糧を乞うこともできない。そんな中、敵と遭遇し射撃を受けたために南方の山腹に副って退き、ようやく危機を脱して飯盛山に登って足を止めると、城下は炎に包まれており、街道は敵兵で充ちていた。
飯沼氏によるとここで死ぬか、戦うかで激論があったのだが、最後に語った篠田儀三郎の言葉に全員が納得したという。
「最早斯くなる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀、元より不可と云うにあらざれども、迚(とて)も十有余士の能く為し得べき所にあらず。誤って敵に擒(とりこ)にせられ縄目の耻辱を受る如き事あらば、上は君に対して何の面目やある、下は祖先に対し何の申訳やある。如(し)かず潔きよく茲に自刃し、武士の本分を明にするにあり。」

【会津鶴ヶ城…天守閣の破損の痕は戊辰戦争の砲弾によるもの】
白虎隊は城が燃えているのを見て自刃したという話が広がっているのだが、それは後世の創作のようだ。先ほど飯盛山で死ぬか戦うかで激論があったと書いたのだが、その点について『白虎隊顛末略記』では、「今や焔は天を焦がし、砲声山岳を動かすも、決して城落たるにあらず。潜に道を南に求め、若松城に入るに如すと。甲怒り、乙罵り、激論以て之争う」とある。
城が燃えていたら、こんな激論をするはずがないのだ。彼らは城が燃えていないことを認識しつつも、敵に生け捕らえられて辱しめを受けるよりもこの地で潔く死ぬことを決意したのである。
話を八月二十三日の朝に戻そう。新政府軍の尖兵が市街へ侵入すると、鶴ヶ城の鐘撞堂から早鐘が連打された。この早鐘が鳴った時には藩士家族は鶴ヶ城の三の丸に避難することが定められていたのだが、藩士家族の多くは「負傷兵や婦女子や幼児が入城しても足手纏いになるだけ」とあきらめて、邸内で集団自決の道を選んだという。
このブログで1900年の義和団事変の際に北京の公使館区域が孤立し、籠城戦にあたって実質総指揮を執った柴五郎中佐のことを書いたことがあるが、彼は会津人で彼の母、祖母、姉妹はこの日に自決したという。

【柴五郎】
柴五郎は彼が九歳の時のこの日の出来事について、遺書にこう記している。
「…幼な心のつい誘われて、うかうかと邸を立ち出でたり。
これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して立ち去りたり。ああ思わざりき。祖母、母、姉妹、これが今生の別れなりと知りて余を送りしとは。この日までひそかに語らいて、男子は一人なりと生きながらえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを受けざることを約しありしなり。わずか七歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時を待ちおりしとは、いかに余が幼なかりしとはいえ不敏にして知らず。まことに慙愧にたえず、思いおこして苦しきことかぎりなし。」(中公新書『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』p.24)

【西郷頼母】
筆頭家老の西郷頼母の家族もこの日に自決したのだが、この人物の事も書いておきたい。
西郷頼母は、藩主・松平容保が京都守護職に就任することに反対したことで容保の逆鱗に触れ蟄居を命じられたのだが、その後政局が動き松平容保が朝敵第二号とされて大総督府が会津征討に動くと、西郷頼母は五年ぶりに藩政に呼び戻されている。
西郷は主戦派に抗しつつ新政府に対し絶対恭順する藩論を取りまとめたのだが、奥羽鎮撫使から拒絶されて和平の道は絶たれ、会津藩は戦わざるを得なくなってしまう。
そして西郷は白河口総督を命じられ、奥羽戊辰戦争の天王山ともいうべき白河口攻防戦で奥羽同盟軍は二千五百~三千人もの大軍を率いながら大敗してしまう。この戦いのことはこのブログでも書いたが、同盟軍が大敗した原因は主力小銃の性能の格差が大きかった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-550.html
その後西郷頼母は早期降伏論を主張し続けたのだが、会津家中では西郷の考えに強い非難があり、西郷は自分の身の安全をはかろうとする私的な動機から主張しているものと考える藩士が多かったという。

【西郷千重子肖像画】
そして八月二十三日の朝が来て、城から半鐘が打ち鳴らされた。
頼母の妻・千重子は、嫡男の吉十郎11歳を鶴ヶ城に送り出し、召使いに暇を与えて避難させたのち、邸に残っていた家族や親族全員が自決したのだという。
千重子は家族全員*を一室に集め、八歳の三女田鶴子を刺し、次に四女常盤を刺し、更に二歳の赤子季子を刺殺したのち、わが胸を突いて果てたのである。
*家族で自決したのは妻千重子(34)、妹眉寿子(26)、妹由布子(23)、長女細布子(16)、次女瀑布子(13)、三女田鶴子(8)、四女常盤(4)、五女季子(2)の8人。隣の部屋で姑律子(58)と外祖母(77)が自決し、ほかに親族など12名が西郷邸で自決したという。
千重子の辞世が残されている。
「なよ竹の 風にまかする 身ながらも
たわまぬ節は ありとこそ聞け」
千重子は、西郷頼母が早期降伏論を唱えたのは決して私的な動機からではなく、会津の領民を救うという公的な動機に基づくものであったことを、一族が西郷邸で自決することによって伝えようとしたのであろう。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓




【ご参考】
このブログでこんな記事を書いてきました。興味のある方は覗いてみてください。
龍野公園と龍野城の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-204.html
津山城址と千光寺の桜を楽しむ
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-247.html
「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-384.html
又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-443.html
桜の咲く季節に京北の歴史と春を楽しんで
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-503.html
- 関連記事
-
-
王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった 2017/02/08
-
武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府 2017/02/14
-
洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い 2017/02/20
-
江戸無血開城の真相を追う 2017/02/26
-
イギリスとフランスにとっての戊辰戦争 2017/03/04
-
大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由 2018/01/05
-
攘夷論者が、実行できないことがわかっていながら「攘夷」を唱え続けた理由 2018/01/18
-
戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した 2018/01/25
-
仙台藩ほか東北諸藩は、なぜ「朝敵」とされた会津藩を助けるために薩長と戦ったのか 2018/02/08
-
東北諸藩は薩長の新政府を嫌い、別の国を作ろうとしたのではないか 2018/02/15
-
兵力で優位にあったはずの列藩同盟軍は、何故「白河口の戦い」で大敗したのか 2018/02/22
-
激戦となった「二本松の戦い」と、二本松少年隊のこと 2018/03/01
-
白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争 2018/03/22
-
会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き 2018/03/29
-
旧幕府の軍艦で脱走を図り、明治政府とは別の政権を誕生させた榎本武揚とその後 2018/04/12
-