明治時代の自虐史観と、「開発」行為による文化・景観破壊

一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。
一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。
一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。
一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。
一.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。
いつの時代にせよこのような政権交代があった時には、旧来の価値観が否定されて、新しい価値観を広めようとする動きが生まれることが多いのだが、『旧来ノ陋習ヲ破リ』と言っても旧来の価値観のすべてが誤っているわけではなく、また「正しいこと」として取り組んだことが誤りでないという保証もない。むやみに伝統的な価値観なり慣習を否定してしまうと大いに混乱が生じたり、貴重なものが失われたりすることがいつの時代もありうるのである。
明治維新期に古い価値観が否定されて、伝統や文化財、歴史的景観などが失われていった。当時においてこのような文化・景観破壊を厳しい目で見ていたのは、日本人よりもむしろ外国人であったのかもしれない。

【石井研堂】
石井研堂という人物が著し明治四十一年に出版された『明治事物起原』という本があり、国会図書館デジタルコレクションで検索することで、誰でもPCなどで読むことが出来る。
一部を紹介しよう。文中のジャパンガゼット新聞は明治4年創刊、ヘラルド新聞は幕末期に創刊の何れも英字新聞である。
「明治四年秋、電線を張るに妨げありとなし、横浜小田原間並木を伐り払えり。ジャパンガゼット新聞之を惜み、夏は日陰をなし、冬は風雪を防ぎ、かつその美観大に旅情を慰むるに足るものを、さりとは風景を失へり。他日鉄道を設くる時に及び、復び植える能わず、実に殺風景と謂うべしといえり。[雑誌十七号訳載]
又、五年三月二十一日のヘラルド新聞は、東京上野の破却を評していう、今般日本政府の命によって、上野を此節破却中の由。又幾百年の星霜を経し大木数百株を何の故有りて倒す事か、…凡そ由緒ある精巧の事物を破却して之を他に移すとは蕃夷の風にして、既に文明の罪科なり…日本今日、冬夏洋服の新式を用ゆと雖も此等は小事、古来由緒ある旧跡墳墓は謹んで之を存し置かざるは一欠点とす…等の語あり。[毎週四号]外人皆之を愛惜せしを知る然るに今日尚、上野の古木乱伐聖堂森の破却、凱旋道路の改修等に就ては、外字新聞四十年前の言をくり返さざるを得ざるものあり。
楼閣はやけてあとなき上野山花ぞ昔の香ににほひぬる(百首)」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/61
「開発行為」の名のもとに、歴史ある趣のある住居が取り壊され、敷地にあった巨木が伐り倒されて美しい風景が台無しになるのは、明治の頃も今もあまり変わらないのかもしれないのだが、外国人が失われることを嘆いた以前の風景というものはどのようなものであったのだろう。

上の画像は安藤広重筆『五十三次名所図会 藤沢』だが、このような景観がこの時期に各地で失われてしまったものと思われる。

東京の上野公園は寛永寺の敷地の一部であったのだが、この寺は戊辰戦争で中心伽藍が焼失してしまい、子院のあった現在地に移されている。

以前の敷地は実に広大なもので、『江戸名所図会 巻五』に寛永寺の図絵が多数掲載されており、中心伽藍の絵だけでも五枚に分けて描かれている。上の図はその四枚目の根本中堂の絵であるが、『明治事物起原』に記されている通り、境内の巨木が大量に伐り倒されたことが野蛮な行為であると外国人から非難を受けることになる。
跡地を造成して大きな病院を建築しようとした明治政府の方針に反対し、オランダ人医師のアントニウス・ボードウィンが公園にすることを提言したことから、上野恩賜公園は日本初の公園に指定されることとなり、公園内には上野公園生みの親としてボードウィンの像が建てられたという。

【勝春朗 東叡山中堂之図】
この時代の人々は、昔から地域の人々が大切にしてきたものを破壊したり、これまでやってはいけないとされていたタブーを冒してみたところで何も実害がないことを体験し、その後各地で様々なタブー破りにチャレンジしている。
『明治事物起原』を読み進むと、
「蛮的の一例として、大和春日の神鹿狩を掲げん。[雑誌]三十三号に曰く、五年正月一六日、奈良県に於て、県令を始め、其他官員数名游猟を催し、春日山の鹿数十匹を狩り取れり。土人神罰を怖る大方ならざりしが、其後少しの異儀も之なきにより却って従来の盲説を悔悟し、皆々安堵の思いをなせりと云。」とあり。此他、『五年十一月に、安房国(現在の千葉県安房郡)朝夷(あさいな)郡宮下村戸長某院主と談合し、かかる御時節になりては、神社の祭器も不用なりとて、名越山神社の黄金幣束、並に鉾・大鳥毛飾り馬具など残らず売り払いたる由(日要五十四号)といひ『六年三月に、磐前県(現在の福島県浜通り)下、月待日待等無用の祭、観音地蔵等の祭を廃禁し、路傍の馬頭観音十三夜塔まで悉皆取払わせ、寺院にありし皇帝の御位牌等、悉く之を県庁に引揚げ[日要七十三号]、滋賀県の如きは、益もなき業なりとして、古来の地蔵祭を禁止し、あちこちの路傍などにありし石の地蔵を取払はせける。大小様々の地蔵を多く車の上に積重ねて大津の町をひき行くを、爺婆女子供など集りて、その車の前に線香果物等を備へ、手を合せて拝むもあり、涙を流しつつ南無地蔵大菩薩、南無地蔵大菩薩とわめきつつ跡より追ひ行く[報知十五号]など、上代未聞の悲劇を呈し、時の新聞紙さへ、『苟も僧侶乞食に付与する物あらば、縦令(たとひ)一粒半銭といへども、悉く之を貯蓄し学校創建の費用に充る時は、まことに善根功徳といふに至らん[日要五十五号]と放言せし程にて、終に『磐前県菊多郡植田村龍昌寺住職眞禅といふもの、私儀仏門に従事し、遊手にて半生を消却する段慚愧にたへざるにより、帰俗して耕を力めたきよし、県庁に出願して還俗する者ある[報知九号]に至れり。実利一点張の弊、ここに至りて極らずや。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/61

【奈良公園の鹿】
この頃は廃仏毀釈も激しかったのだが、神の使いとされていた奈良春日山の鹿を狩猟したり、名越山神社の祭器を売却したりと、神道においても伝統文化やしきたりの破壊行為が行われていたとは知らなかった。
明治初期は、「変革」の名のもとに古い物が捨てられ、伝統文化がないがしろにされてきたのだが、その風潮に多くの日本人が乗せられてしまっていた。しかしながら、当時わが国にいた外国人はその点についても批判的であったようだ。石井研堂は同上書でこう続けている。
「人々只皮相の開花に沈溺して、また心霊の修養等を慮(おもんばか)る者なかりしかば、[雑誌](五年三月版三一号)にいへる『或外国人の説に、方今日本人の書を読む者、多くは会話窮理書地理書等の類に止りて、人生切要なる修身学を講究するものなし、恐らくは本(もと)を捨て末に趨(はし)るの弊習を生じ、遂に学風偏頗に陥るべし』等の歎声を聞きたりし。されども、洪河の決するは、一簀の土の能く防ぐべきに非ず、社会は漸く堕落の一方に傾けり。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898142/62
明治政府はわが国の土着の習俗や信仰を「悪弊」や「旧習」と考え、これらを排除するとともに急速に西洋化を推進したのだが、この点は自虐史観に陥って日本の歴史的景観や伝統文化を軽んじる戦後のわが国に通じるところがある。

【エルヴィン・フォン・ベルツ】
明治9年(1876)にお雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師として招かれたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、当時の日本人の知識人についてこう批判している。
「不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。『いや、なにもかもすべて野蛮でした』、『われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです』という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%84
このベルツの文章は、現代においてもそのまま通用する。長い歴史を持つ地方の貴重な文化や伝統は衰退傾向にあり、美しい景観も開発行為によって失われている地域が少なくないことは悲しいことである。
地域の伝統文化の担い手を育てることはもちろん重要だが、それ以上に重要なことは、その地域で若い世代が経済的に不自由なく生活できる働き場があることである。地域の若手が都会に流出してしまえば、その地域の固有の伝統文化だけでなく寺や神社を支えることも難しくなり、歴史的景観が守れなくなれば、その地域の文化的価値・観光的価値は年々失われていく。一方で経済優先のために開発行為に走りすぎても、同様に重要な価値が失われてしまうことになる。
むしろ文化的・観光的価値を高めて、地域の経済の活性化を図ることができればベストなのだが、それは容易なことではないだろう。何時の時代も我々の先祖たちが大切に守って来たものの価値を失うことなく後世に伝えていくことは難しい。
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