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継体天皇ゆかりの足羽山から紅葉名所の大安禅寺へ ~~越前の歴史散策2

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Category福井県
昼食のあと福井市の足羽山(あすわやま)に向かう。
前回の記事で越前和紙の歴史は、第26代の継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として越前を治めていたころから始まることを書いたが、足羽山には継体天皇にまつわる神社などがある。

『日本書紀 巻十七』には継体天皇の出自に関して次のように記されている。文中の男大迹天皇(おおどのすめらみこと)は継体天皇のことである。

男大迹天皇――またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)――は、応神天皇の五世の孫で、彦主人王(ひこうしのおおきみ)の子である。母を振姫(ふりひめ)という。振姫は垂仁天皇の七世の孫である。天皇の父は振姫が容貌端正で大そう美人であることを聞いて、近江国高島郡の三尾の別邸から、使を遣わして越前国坂井の三国に迎え、召し入れて妃とされた。そして天皇を産まれた。天皇が幼年のうちに父王が死なれた。振姫はなげいて『私はいま遠く故郷を離れてしまいました。これではよく孝養をすることができません。私は高向(たかむこ:越前国坂井郡高向郷)に帰り、親の面倒をみながら天皇をお育てしたい』といわれた。
 成人された天皇は、人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。武烈天皇は五十七歳で、八年冬一二月八日におかくれになった。もとより男子も女子もなく、跡嗣が絶えてしまうところであった。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 上』p.346)

継体天皇
継体天皇

このように『日本書紀』では、継体天皇は応神天皇の「五世の孫」とは書いているが、応仁から継体に至る中間の四代の系譜については記されていない。鎌倉時代に記された『釈日本記』という『日本書紀』の注釈書に引用された『上宮記』の逸文によってその系譜が記されているそうだが、その内容が信頼できるかどうかについては議論が分かれているという。
とは言え、『日本書紀』の記述通り応神天皇から血がつながっていたとしても、継体天皇は天皇家の傍系の血筋であることは変わりなく、即位後に先帝の妹を皇后として迎えることによって自らの血の薄さを補強しようとしたことは確実であろう。

血筋の問題はともかくとして、男大迹王は母の故郷である越前で育てられ、越前国の王となってからは現在の九頭竜川、足羽川、日野川の治水に取り組まれて、農業を盛んにされ諸産業を興隆された伝承が残されており、越前開闢の御祖神(みおやがみ)として、称えられ崇敬さけてきた人物であるのだ。

第二十五代の武烈天皇が跡継ぎを定めずに崩御された際に次期の天皇として白羽の矢が立ち、男大迹王は力不足を理由に何度も断ったのだが、大連・大伴金村らは次のように男大迹王を説得したという。

「大伴大連は地に伏して固くお願いした。男大迹天皇は西に向かって三度、南に向かって二度、辞譲の礼を繰り返された。大伴大連らは口をそろえて『私たちが考えますのに大王(男大迹天皇)は、人民をわが子同様に思って国を治められる、最も適任のかたです。私たちは国家社会のため、思い図ることは決してゆるがせに致しません。どうか多数の者の願いをお聞き入れ下さい。』とお願いした。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 上』p.348)

天皇家の跡継ぎが途切れそうになった場合に、血筋がつながっていれば誰を持ってきても良いわけではなく、天皇家を継ぐことのできる器の人物でなければならなかった。
『日本書紀』のこのくだりは、幾分誇張もあるだろうが、男大迹王が越前で善政を行っていた評判が都にも伝わっていたことを匂わせる部分である。

毛谷黒龍神社
【毛谷黒龍神社】

最初に訪れたのは、毛谷(けや)黒龍神社(福井市毛矢3丁目8−1  ☏ 0776-36-7800)。

神社のホームページには由緒・沿革についてこう記されている。
男大迹王越前國御在住の時、地の理に随ひ越前国の日野、足羽、黒龍の三大河の治水工事をされ越前平野を拓かれた際に、北陸随一の大河であった黒龍川(九頭竜川)の守護と国土安穏、万民守護のため高屋郷黒龍村(舟橋)毛谷の杜に、高龗神(たかおがみ)、闇龗神(くらおがみ)の二柱の御霊を祀る「毛谷神社」が御創建されました
元明天皇の和銅元年(708)9月20日、継体天皇の御遺徳を景仰し御霊の合祀が行われた。
後醍醐天皇の元徳元年(1329)6月1日神託により越前守参議藤原國房公が北ノ庄菩住山斎屋清水の上に(足羽山)に奉還され、元鎮座の村名を併せ『毛谷黒龍神社』と改称
し、また元神社名を取り麓一帯は「毛矢町」と呼ばれ祭りは賑わい盛儀が行われた。」 
http://www.kurotatu-jinja.jp/010_information/information.php

昔は黒龍川沿いに高龗神、闇龗神の二神を祀る「毛谷神社」があり、和銅元年(708)に継体天皇の御霊が合祀されて「男大迹天皇」が御祭神に加えられ、元徳元(1329)年に足羽山に遷座されたとある。
その後慶長8年(1603)に徳川家康がこの神社を越前松平家の祈願所とし、元禄三年(1609)に現在の藤島神社の社地に神殿が造営されたのだが、明治8年(1875)に現在地に社殿が移築され、現在の社殿は本殿が昭和3年に、拝殿が同6年に再建されたものだそうだ。

藤島神社
【藤島神社】

毛谷黒龍神社の駐車場から藤島神社(福井市毛矢3丁目8−21 ☏ 0776-35-7010)に向かう。

藤島神社 拝殿
【藤島神社 拝殿】

この神社の主祭神は鎌倉時代末期から南北朝時代に南朝側で活躍した南朝方の武将・新田義貞で、その子の義顕、義興、義宗と弟の脇屋義助、および一族の将兵が祀られている

新田義貞公肖像
【新田義貞公肖像】

新田義貞は延元元年(1338)に灯明寺畷の合戦で戦死したのだが、それから約300年後の明暦2年(1656)に合戦のあった灯明寺畷の水田(この神社から約4km北)から兜鉢が発掘され、これが福井藩の軍学者の鑑定の結果新田義貞の兜であるとされたという。福井藩主・松平光通はこの発見場所に碑を建て、「新田塚」と名付けられ、明治3年(1870)に祠が建てられ、同9年(1876)に「藤島神社」として別格官弊社に列せられた。この神社が現在地に移建されたのは明治34年(1901)のことであるが、この場所は、以前は継体天皇を祀る前述の毛谷黒龍神社の境内の一部であったことになる。

継体天皇石像
【継体天皇石像】

足羽山を登っていくと足羽山公園がありその三段広場に継体天皇の石像が建っている。
この像は明治17年(1884)に内山基四郎を中心とした石工たちが、伝説に語られる天皇の業績を顕彰するために制作され、笏谷石*製で高さは4mを超えるものだという。
*笏谷石(しゃくだにいし):足羽山山麓北西部の笏谷からとれる第三紀層の凝灰岩で、少し青みを帯び、なめらかできめが細かく加工しやすい

この石像の建つ小丘は、4世紀に造られた古墳で、円墳としては県内最大級の山頂古墳なのだが、公園を造る際に大きく削られてしまって原形を留めていないのだそうだ。
足羽山の尾根にはかつて30基以上の古墳が存在していたと伝えられているが、現在では15基が残されているのみだという。これらの古墳は4世紀末から5世紀代にかけて築造されたものとされ、足羽郡の豪族であった足羽氏の墓だと推定されている。

足羽神社拝殿
足羽神社 拝殿】

歩いて足羽神社(福井市足羽上町108 ☏ 0776-36-0287)に向かう。
上の画像は神社の拝殿で、下の画像は狛犬だ。親子の狛犬は珍しいので、思わずシャッターを押してしまった。

足羽神社狛犬
足羽神社 狛犬】

この神社は継体天皇と坐間神(いかすりかみ)五柱を主祭神とする古社で、社名は『延喜式』神名帳にも出ている。
神社のHPには、神社の起源について次のように解説されている。
五世紀後半ごろ、男大迹王(後の継体天皇)が越前でお過ごしの間に越前平野の大治水事業をされますが、まずその初めに朝廷に祀られている大宮地之霊(坐摩神)を足羽山に勧請し、諸事の安全を祈願したのが足羽神社の起源とされています。
 第26代天皇として即位をされ越前を発たれる時に、『末永くこの国の守り神とならん』と、自らの生御霊(いきみたま)を鎮めて旅立たれて行かれました。
 それから継体天皇が主祭神として本殿中央に祀られています
。」
http://www.asuwajinja.jp/

同HPによると、昔の越前国は沼地が多く、人々が住むには限られた土地しかなかったのだが、男大迹王の治水事業により水を海に流して越前平野に道が造られ、住居や農地や道が出来、川を利用して舟で荷物が運ばれるようになり、国が栄えたことが記されている。越前開闢の御祖神(みおやがみ)と呼ばれる理由はこのあたりにあるのだと思う。

『日本書紀』を読み進むと、男大迹王が第二十六代の天皇として即位された約1か月後に、次のような詔が出されたことが記されている。

男が耕作しないと、天下はそのために飢えることがあり、女が紡がないと天下はこごえることがある。だから帝王は自ら耕作して農業を勧め、皇妃は自ら養蚕をして、桑を与える時期を誤らないようにする。まして百官から万人に至るまで、農桑を怠っては富み栄えることはできない。役人たちは天下に告げて私の思うところを人々に識らせるように。」(講談社学術文庫『全現代語訳 日本書紀 上』p.350)

継体天皇は越前でも同様なスタンスで政治に取り組まれたものと思うのだが、このようなリーダーであったからこそ、今も福井の人々に敬愛されているのだろう。

足羽山をあとにして大安禅寺(福井市田ノ谷町21-4 ☏ 0776-59-1014)に向かう。

大安禅寺 本堂
大安禅寺 本堂】

1300年ほど前に泰澄が創建した田谷寺(でんこくじ)という寺が、天正2年(1574)の織田信長による越前攻略により焼かれて廃絶してしまうのだが、その跡地に藩主の松平光通(みつみち)が、両親や祖先の菩提寺として明暦3年(1657)に創建したのがこの大安禅寺である。

大安禅寺 庫裏
大安禅寺 庫裏】

現在の伽藍はほぼ創建当時の姿をとどめていて、本堂・庫裏・開山堂・開基堂・鐘楼の5棟が国の重要文化財に指定されているのだが、昭和23年(1948)の福井地震の影響で本堂の柱が傾いているほか、建物の屋根や床下で腐食が進んでいることが明らかとなり、来年から本堂など8棟で大規模な修繕工事が始まるのだそうだ。工事は国や自治体の補助を含めて総事業費は22億円で10年以上かけて工事が行われるのだそうだ。

大安禅寺 庭園 2

私が訪れたのは11月9日で、報道各社を集めて修繕工事についての記者会見が行われている最中であったためにしばらく本堂の中に入ることが出来なかったが、そのおかげで大安禅寺の庭や他の諸堂をゆっくり楽しむことが出来た。上の画像は本堂の南側にある阿吽庭で奥に見えるのが開基堂である。また下の画像は本堂の西側の庭である。

大安禅寺 庭園

紅葉はこの日は色づき始めたばかりだったが、この記事をアップする頃は見ごろを迎えているのではないだろうか。

大安禅寺から坂井市三国町の民宿なかじまに向かう。11月6日に漁が解禁されたばかりの越前ガニを求めて民宿をネットで探して選んだのだが正解だった。

越前ガニ

茹でガニでは予想していたよりも大きく、蟹酢を用いずカニ本来の甘さで楽しめて味噌は絶品。雑炊は卵を用いずカニ味噌を用いただけなのだが、これも旨かった。
料金もリーゾナブルで、今度来るときは特大の茹でカニの出るコースに是非チャレンジしたいと思った。

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2Comments

つねまる  

素敵な旅ですね

こんばんは。いつもありがとうございます。
羨ましい旅をされてきたのですね♪越前ガニ、甘くて美味しいんですね…!味噌は絶品とか。日本酒と共にいただきたいです!

継体天皇のお話は、能「花筐」で知りました。地方から天皇になった人がいたんだなぁーと学生時代に驚いた曲です。
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_077.html
(英語の解説が面白いです)
http://www.tessen.org/dictionary/explain/hanagatami
(我々のバイブルのサイトです)

親子の狛犬さん、かわいいですね!親子でいい顔してますね♪福井は笏谷石の狛犬さんが多いので、いつかゆっくり巡りたいです。もちろん、カニの季節に。

2018/11/22 (Thu) 22:13 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: 素敵な旅ですね

つねまるさん、早速読んで頂きありがとうございます。

いつもこの季節は、どこでカニを食べることから決めて旅程を考えるのですが、結構面白い旅程が組めました。
三杯酢も使わず、締めの雑炊に卵も使わずに、カニの甘さが堪能できました。

福井もなかなかいいところですね。

2018/11/22 (Thu) 22:40 | EDIT | REPLY |   

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