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瀧谷寺から越前海岸の景勝地と北前船で栄えた河野浦を訪ねて~~越前の歴史散策3

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Category福井県
翌朝、お世話になった三国の民宿をチェックアウトし、近くの東尋坊に向かう。

東尋坊

東尋坊を構成する岩は、輝石安山岩の柱状節理で、最も高いところで約25mの垂直の崖があるという。これほどの規模のものは世界的にも珍しく、国の天然記念物に指定されている。
朝早くここを訪れたのは初めてだが、商店などの営業が始まる前は観光客もわずかで、静かに景観を楽しむには良い時間帯である。

東尋坊の景観を楽しんだ後に、瀧谷寺(たきだんじ:坂井市三国町滝谷1-7-15 ☏ 0776-82-0216)に向かう。東尋坊から車で10分程度で到着する。

瀧谷寺参道

総門を抜けると、杉並木の巨木やツバキの樹に囲まれたゆるやか上り坂の長い石畳の参道がある。

瀧谷寺 鐘楼門

参道を登りきると鐘楼門(国重文)があるが、この門は柴田勝家が寄進したものだという。

瀧谷寺 本堂と庫裏

瀧谷寺は永和元年(1375)に紀州根来寺の学頭・睿憲(えいけん)の創建にかかる真言宗の古刹で、堀江氏、朝倉氏、柴田氏、松平氏など歴代領主の祈願所として栄えてきた歴史があり、45千㎡におよぶ境内地は三国町指定の自然環境保全地区になっている。
上の画像は本堂(国重文)と庫裏(国重文)で、いずれも貞享五年(1688)に建てられたものである。また下の画像は観音堂(国重文)で、寛文三年(1663)に建てられたものである。ほかに鎮守堂、開山堂も国の重要文化財に指定されている。

瀧谷寺庭園

建物の内部は写真撮影が禁止されているので紹介できないが、庭園などは自由に撮影が可能だ。本堂裏の築山池泉式の庭園は江戸中期の作で、昭和四年(1929)に国名勝に指定されている。
宝物館もあり、国宝の金銅毛彫宝相華文磬など数多くの寺宝が展示されている。

九頭竜川の河口に開けた港町である三国は、江戸時代に北前船の寄港地として栄えた歴史があり、河口の近くに残る古い町並みには湊町の風情が今も残されている。旧岸名家(国重文)などは8年前の旅行の際にこのブログで紹介したので繰り返さないが、かつてこの地域が非常に豊かであったことは、旧市街を歩いて旧家や資料館に入ればよくわかる。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-197.html

北前船の寄港地は越前国では三国のほかに河野、敦賀、小浜があるが、河野浦は行ったことがないので、今回の旅程に入れていた。三国からは60km近く越前海岸沿いをドライブすることになるのだが、奇岩断崖が続くこの海岸は、ドライブしながら海の景色が楽しめて結構楽しい。そのいくつかを紹介しよう。

鉾島

上の画像は鉾島(福井市鮎川町)という島で、東尋坊と同様に柱状節理が見られる。島に渡ることもできて、頂上には不動明王が安置されているという。

潮噴き岩

上の画像は潮吹岩(福井県丹生郡越前町梨子ヶ平)で、強い波が岩の隙間に入り込むと、鯨のように潮を吹くところが面白い。
何度もカメラを構えたおかげで、我ながら面白い画像を撮ることが出来た。

右近家地図

この潮吹岩から35分程度走って目的地の河野浦に到着する。地図で確認すると、ここは越前海岸の南端部にあたり、敦賀湾のほぼ入口に位置している。
小さな港ではあるが、かつて越前の中心地であった府中(現在の越前市、以前の武生市)に近いことから、古くから府中と敦賀とを結ぶ海陸の中継地として栄え、また江戸時代中頃から明治時代中頃までは、下関経由で蝦夷地と大坂間で物資を運ぶ北前船の寄港地として繁栄した。

北前船主通り

河野浦には「北前船主通り」とよばれる道があり、船主が建てた立派な屋敷や倉庫が建ち並んでいる。上の画像の家は中村三之丞家で、右近家と並んで河野浦を代表する北前船主の住宅であり河野浦で唯一国の重要文化財に指定されているのだが、残念ながら一般公開はされていない。他には中村吉右衛門家、刀禰新左衛門家が通り沿いに並んでいて、河野浦が栄えた時代の面影を今も残している。

北前船主の館 右近家

上の画像は「北前船主の館・右近家」(福井県南越前町河野第2号15 ☏ 0778-48-2196)で、北前船主通りに並ぶ船主の住居が公開されているのはここだけで、中に入ると北前船や右近家に関する資料が多数展示されているが、本館では玄関の北前船の模型以外の写真撮影は禁止されている。

北前船主の館 右近家 入口

北前船の船頭は運送代で稼ぐだけではなく、船主の意向を受けて各寄港地で物資を買い付けながら、それらの商品を別の港で販売(買積み商い)することによって多額の利益を得ていたという。

右近家で入手したチラシにはこう解説されている。
「江戸時代の半ば過ぎ、商品流通の発展にともない日本海海運は飛躍的に発展を迎えました。荷所船として運賃積を行っていた廻船も買積み商いの比率を徐々に高めるようになっていったのです。鰊肥料の需要の拡大と商品価格の地域差を利用して、北前船の買積み商いは活況を呈しました。船主達はこのチャンスを生かして大海原に進出していきます。また、明治維新後の北海道開拓用の物資運搬にも大活躍し、近代日本形成の大きな力となりました。こうした活躍により、幕末から明治時代にかけて日本海沿岸有数の北前船主を輩出しました」

では北前船はどのような商品を運び、どのくらい稼いでいたのだろうか。
福井県立大学の地域経済研究所のホームページで南保勝氏が次のように解説しておられる。

「北前船は何を運んでいたのか。大阪から蝦夷地に向かう荷を下り荷と呼び、大阪や下関の港では、竹、塩、油、砂糖、木綿、紙、たばこなどの日用雑貨を、小浜や敦賀の港では、縄、むしろ、蝋燭など、新潟や坂田の港では米などを積み込んだという。逆に、蝦夷地から大阪に向かう荷を上り荷と言い、カズノコ、コンブなどの海産物やニシンを積み込んだ。北前船の一航海の利益は、下り荷と上り荷を合せた収益から、船乗りの給料、食費、船の修理代を差し引いたものであった。明治5年の『八幡丸』の収支報告を見ると、収入は下り荷が223両、上り荷が1,169両、その他146両、合計1,538両。支出は724両で、差し引き814両の利益が出ている。こうしてみると、上り荷の利益が極めて大きいことがわかる。当時、蝦夷地で取れたニシンは田や畑の肥料として大量に使用されていた。千石船一航海1000両と呼ばれた北前船の収益の多くは、上り船のニシンだったのである。」
http://www.fpu.ac.jp/rire/publication/column/001463.html

北前船寄港地

北前船は普通1年1航海で、毎年3月下旬ごろ大坂を出帆し、瀬戸内海から日本海に出で、対馬海流に乗って北上し、5月下旬ごろ北海道に到着する。(下り船)
そして7月下旬ごろ北海道を出帆し、航路上の寄港地で商売しながら南下し11月上旬頃に大阪に到着する。
河野浦の北前船の船員は、大坂から徒歩で地元に帰って正月を迎え、春先にまた徒歩で大阪に戻っていたとのことである。

「千石船」とは「米を1千石積むことが出来る船」という意味で、「一石」とは成人一人が年間に消費する米の量に等しいとされ、2.5俵で重さは約150kgである。一両の価値を10万円とすると、「千石船一航海1000両」は「150トンの米が詰める船で1億円程度稼いだ」ということになる。ちなみに北前船の建造費は約1000両というから、船の建造費は最初の航海で回収できるほどの利益が出たということになるのである。

航海の利益の多くは上り船のニシンで稼いだというのだが、館内のガイドさんの解説では、ニシンから油を搾ったのちニシン粕を発酵させて造った肥料が、仕入れ値の5倍、時には10倍で売れたのだという。

右近権左衛門家の廻船数・収益高

『福井県史』通史編5 近現代一 第三章第四節四項には明治前期の右近家の稼ぎについてこう記されている。
明治前期は、多くの北前船主がもっとも利益を得た時期であり、所有する船舶も大型化する傾向があった。福井県の有力な北前船主であった南条郡河野村の右近権左衛門家を例にみても、明治元年から十年までの総収益は約一五万四〇〇〇両余に達する(表159)。また、毎年一、二艘の新造船や中古船を導入しており、そのほとんどは一〇〇〇石積み以上の船で、なかでも、八年に敦賀で新造した八幡丸は一三〇〇石積みの船であった。ちなみに、十一年の「船々鑑札控」によれば、共同出資の船を含めて一七艘の船を所有し、総石数は一万七二七七石に達し、このうち一〇艘は一〇〇〇石積み以上であった(右近権左衛門家文書)。」
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-3-01-04-04-01.htm

右近権左衛門(10代目)

右近権左衛門(10代目)】

このように右近家は北前船で巨額の利益を得たのだが、その利益を地域社会に還元している。『福井県史』には続けてこう記されている。
「この時期、道路開鑿や港湾修築などに、北前船経営で蓄積した資金を投入する船主もあった。五年九月には、右近権左衛門と同郷の北前船主中村三之丞とが、費用の大半を負担することで、南条郡春日野から河野浦に通じる道路の開鑿を政府に請願し、七年五月に完成している(資10 二―一六二)。」

右近家は道路の開鑿だけでなく学校建設や神社の建て替えの際にも多額の寄付をしたのだそうだが、村の乗組員が身を挺して北前船を守ってくれていることによって経営が成り立っているのだから、地元に恩返しすることにより地域との絆を深めることは、会社にとっても長期的にプラスになるという考えであったのだと思う。

しかしながら、明治10年前後から汽船が登場し、いつの季節においても海上運送が可能となり、木造の北前船は姿を消していくことになる。
右近家は北前船主の中でいち早く蒸気船を導入して海運の近代化を進めた一方、海上保険業に進出し日本海上保険株式会社(現在の損害保険ジャパン日本興亜株式会社)を設立するするなど事業の転換をはかっていく。

北前船主の館 西洋館

北前船の館の敷地内の坂を上っていくと、国登録有形文化財に指定されている西洋館がある。この建物竣工した当時の右近家は、既に実質的な本拠地を芦屋に移していたという。それなのに、なぜこんなに立派な河野に建物をたてたのか。

右近権左衛門(第11代:義太郎) 西洋館の建築主
【右近権左衛門(第11代:義太郎) 西洋館の建築主】

ガイドさんの説明によると、河野村の人々に仕事を与えるためであったという。
西洋館の2階にこの西洋館を建てた11代目右近権左衛門の肖像画があった。その解説にはこう記されている。文中の「赤萩」という地名は、河野から3㌔程度山側の地域である。
「大林組の設計施工により昭和8年8月に着工、昭和10年8月に完成。
『洋館付属工事概要録』には、使役した人夫の総数、石工853人、河野、赤萩の男7,516人、河野、赤萩の女3,034人、大工334人、左官214人と記載がある。」

昭和8年から10年といえば、わが国は不況のどん底にあったと言って良い。その前後の年表をみれば、昭和6年の満州事変、7年の上海事変、5・15事件、8年の国際連盟脱退、11年の2・26事件など大事件が相次いでいる。そんな暗い時期に右近家は、故郷の河野の人々のために仕事を与えようとしたのだが、いまの大企業の経営者に、こんなに地元の人々を大切にする人物がいるであろうか。

北前船主の館 西洋館1階

上の画像は1階のスパニッシュ風のリビングで、イギリスのイングルヌックと呼ばれる暖炉が備えられている。

北前船主の館 西洋館階段

2階の和室に上がる階段は、親柱も欄干も木のねじり彫刻が施されていて、階段のタイル装飾も木の色とよく調和している。

北前船主の館 右近家2階ベランダからの風景

階段を上ると、ベランダに出て日本海の眺めを楽しむことが出来る。手前に見えるのは常神半島で、遠くにかすんで見えるのは舞鶴方面と丹後半島ではないかと思われる

1階のリビングでコーヒーを注文することが出来る。国登録文化財の建物の中でコーヒーを飲むのは初めての経験だが、旅行中に素晴らしい建物の中で、日本海の眺めを楽しみながらゆったりと過ごす時間が持てて良かった。
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