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日露戦争・旅順港閉塞作戦に協力した右近家から敦賀に向かう……越前の歴史散策4

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Category福井県
河野浦の北前船主の館・右近家の旧本宅の庭園に、なぜか砲弾が置かれている。
ガイドさんの説明によると、右近権左衛門が所有していた「福井丸」が日露戦争の旅順港閉塞作戦の二回目の作戦で使用され、その船を指揮していた広瀬武夫少佐がその船で戦死したことと関係があるという。
旅順港閉塞作戦のことは司馬遼太郎の『坂の上の雲』でその話を読んだ記憶があるが、北前船主の館・右近家でその話が出て来るとは思わなかった。

右近家の西洋館からもう少し坂を上ると山荘展示館があり、福井丸に関する資料が展示されている。
展示パネルには旅順港閉塞作戦について次のように解説されていた。

福井丸
【福井丸】

「明治37年(1904)2月10日、日本は強大国ロシアに対し宣戦を布告した。開戦当時、ロシアは極東の根拠地、遼東半島の旅順港およびウラジオストック港に戦艦5隻を中心として19万トンの極東艦隊(太平洋艦隊)を擁していた。
 日露戦争の戦場となる満州への兵員、物資の輸送を必要とする日本にとって、極東艦隊の出没を阻止し、日本海における制海権を確保する必要があった
 それがためには、極東艦隊を旅順港に封鎖する『旅順港閉塞作戦』がとられた。
 そこで閉塞作戦は3回決行されるが、その2回目に選ばれたのが『福井丸』であった。戦争という予期しない事態のため、『閉塞船』という任務をおびて、3月27日に旅順港口にて爆破自沈した。その沈没が二人の軍神を生んだ。指揮官は広瀬武夫海軍少佐(のち中佐)であり、指揮官附は杉野孫七海軍上等兵曹(のち兵曹長)であった。
 福井丸は爆破自沈を決行したが、その混乱の中、杉野が行方不明になり、指揮官広瀬は安否を気遣い、三度船内を探索したが見つからず、脱出のボートに乗り移って間もなく、広瀬は敵弾にたおれた。
 この指揮官と部下の最後が人間愛の物語として全国に長く伝えられ、国民の称賛を受けた。」

広瀬は決死的任務を敢行し、自らの危険も顧みず部下の声明を案じて戦死を遂げたことから国民の共感を呼び、すぐに中佐に特進した後に「軍神」と崇められ、出身地の大分県竹田市には広瀬神社が創建されたという。

広瀬武夫
【広瀬武夫】

東郷平八郎連合艦隊司令官が、第二回旅順閉塞について報告した公報が、昭和11年に出版された『類聚伝記大日本史. 第十三卷』に引用されている。広瀬中佐戦死については次のように記されている。
「…戦死者中福井丸の広瀬中佐、および杉野兵曹長の最期は頗る壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬に転嫁する為め船艙に下りし時、敵の魚形水雷命中したるを以て、遂に戦死せるものの如く、広瀬中佐は乗員を端舟に乗り移らしめ、杉野兵曹長の見当たらざる為め、自ら三たび船内を探索したるも、船体次第に沈没、海水上甲板に達せるを以て、止むを得ず端舟に下り、本船を離れ、敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり。中佐は平時に於いても、常に軍人の亀鑑たるのみならず、その最後に於いても萬世不滅の好鑑を残せるものと謂つべし、…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879891/34

旅順港を封鎖するとは随分大胆なことを考えたものだが、これには前例がある。
1898年に起きたアメリカとスペイン間の戦争でスペイン大西洋艦隊がキューバのサンチャゴ湾に入港した際に、アメリカ大西洋艦隊はサンチャゴ湾の湾口に船を自沈させてスペイン艦隊の出港を防ごうとしたのだが、予定通りの場所で自沈したものの沈没する角度が悪く、意図したように湾口を完全にふさぐことは出来なかった。

サンチャゴ湾
【サンチャゴ湾】

地図で確認するとサンチャゴ湾の湾口は最も狭いところで200m程度のようだが、旅順口の場合は370m程度であろうか。湾口が広ければそれだけ閉塞作戦の難易度が高くなるし、1度試みれば、敵方は二度目、三度目があることを警戒することになることは言うまでもない。

旅順閉塞作戦図(㈶三笠保存会)
【"旅順閉塞作戦図(㈶三笠保存会)】

この閉塞作戦は三度にわたり実行され、この作戦で、当時日本が保有していた千トン以上の商船の1割に当たる21隻が投入され、特に第三次閉塞作戦は12隻の閉塞船を用いた最大規模の作戦であったが、敵の沿岸砲台により湾の手前で沈められてしまい、結局旅順港を十分封鎖するには至らなかったようである。

福井丸は明治36年(1903)の8月から12月の間日本海航路に従事していたのだが、年が明けた1月10日に軍用船として傭入命令書が届いたのだそうだ。この船は1882年にイギリスで竣工した貨物船で、明治24年(1894)に右近権左衛門が購入して「福井丸」と名付けたものであるが、直前まで貨物運搬で利用していた船であり今後も利用できる船を手放すことにはさぞ複雑な思いがあったことだと思う。

北前船主の館・右近家をあとにして、敦賀に向かう。敦賀も、三国、河野とともに北前船で栄えた地域である。

気比の松原

日本海さかな街で昼食をとり、お土産を買ってから北に向かって走ると松原公園があり、国名勝の気比の松原があるのだが、この広さは想像をはるかに上回る規模であった。地図で確認すると、敦賀湾の奥に面する部分のうち西側の半分が松原だ。
敦賀観光案内サイトによると、長さ1.5km、広さ約40万㎡で赤松・黒松約が17千本もあり、静岡県の三保の松原、佐賀県の虹の松原と並ぶ日本三大松原のひとつだという。
http://www.turuga.org/places/kehimatsubara/kehimatsubara.html

気比の松原4

これだけ広大な松原がどういう経緯で残されたかと思って調べてみると、古代からこの地域は、近くにある氣比神宮の神苑として神人が近隣住民の利用を管理していたという。
ところが元亀元年(1570)頃に織田信長が氣比神宮から松原を没収し、江戸時代は小浜藩の藩有林となり、近隣の人々は納税の為に燃料となる松葉採集を行うことによって松原が残され、明治32年(1899)には国有林に指定され、昭和9年(1934)には国名勝に指定されたが、太平洋戦争時には軍用木材として一部伐採されたことがあるのだそうだ。

気比神宮鳥居

気比の松原から越前国一之宮の氣比神宮(敦賀市曙町11-68 ☏ 0770-22-0794)に向かう。
上の画像は敦賀のシンボルである氣比神宮大鳥居(国重文)である。木造の鳥居では広島の厳島神社、奈良の春日大社とともに日本三大鳥居のひとつである。

敦賀は天然の良港を有し、北陸道諸国から畿内への入り口であるとともに、対外的にも朝鮮半島や中国からの玄関口にあたる要衝であった。敦賀湾の近くにある氣比神宮は、「北陸道総鎮守」と仰がれ、古くから朝廷から崇敬されてきた歴史がある。
神社のホームページの「由緒沿革」には、
「仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して『四社之宮』と称した。」
https://kehijingu.jp/about/#about2
とあり、実際に『古事記』、『日本書紀』、『日本後紀』にこの神社の名前が出てくるのである。

氣比神宮古図

霊亀元年(715)には境内に神宮寺(気比神宮寺)が設けられたとの記録があり、これが文献上で全国最古の神宮寺成立だという。
上の画像は室町時代後期に描かれたとされる『氣比神宮古図』だが、五重の塔のほかに三重塔が二基あったことがわかる。
しかしながら元亀元年(1570)織田信長の越前侵攻の際に社殿とともに神宮寺は破壊され、その後廃絶したと考えられている。境内には神宮寺の名残として鐘楼があったそうだが、明治維新後取り払われたという。

気比神宮 鳥居と拝殿

戦前には旧国宝に指定されていた江戸時代初期建造の本殿があったのだが、残念ながら空襲により焼失してしまい、現在の社殿は戦後になって建築されたものである。

金崎宮 鳥居と神楽殿
【金崎宮 鳥居と神楽殿】

氣比神宮から金崎宮(敦賀市金ヶ崎町1-1 ☏ 0770-22-0938)に向かう。この神社のご祭神は後醍醐天皇の皇子恒良親王・尊良親王なのだが、なぜ南朝の親王が祀られているかについて、少し説明しておきたい。

新田義貞公肖像
【新田義貞公肖像】

建武二年(1335)に足利尊氏は後醍醐天皇の建武の新政に反旗を翻し、翌年入京を果たすも楠木正成、新田義貞の攻勢に晒され一旦九州に下ったのだが、軍勢を立て直して東上し、5月25日に湊川の戦いで勝利すると、6月には京都を再び制圧した(延元の乱)。
後醍醐天皇は比叡山に逃れ、南朝の勢力回復の為に、氣比神宮の膨大な収入と日本海側の制海権を握って足利方と対抗しようと、建武三年(1336)10月に新田義貞に命じて恒良親王・尊良親王を奉じて敦賀に下向させ、それを出迎えた氣比神宮の大宮司・気比氏治らとともに金ケ崎城にこもり、北朝の高師泰(こうの もろやす)・斯波高経(しば たかつね)率いる6万の兵と半年にわたる激しい攻防戦の末、翌年3月6日に落城し、尊良親王・新田義顕・気比氏治以下将兵321人が殉じた悲劇の場所となった。

金崎宮 中門と本殿
【金崎宮 中門と本殿】

この神社は明治23年(1890)に敦賀の有志の人々が願い出て明治26年(1893)に金ヶ崎城跡地内に建立したもので、その後焼失し明治39年(1906)に現在地に再建されたものである。
神明造の本殿と中門は想像していた以上に格調の高いものであった。

絹掛神社
【絹掛神社】

本殿の隣に摂社の絹掛神社がある。案内板にはこう記されていた。
延元2年(1337)3月6日金ヶ崎城落城の際、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下321名の武士が自刃した。祭神はその人達である。氏名の判明する者わずかに十数名、大半の人は近畿・中国・四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少なくはない。籠城5か月糧食全く尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立ち向かった壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。」

金ヶ崎城址
【金ヶ崎城址】

境内を出ると金ヶ崎城阯の石碑がある。
この横の道を歩くいていくと、金ヶ崎古戦場の碑や本丸の跡地があり、そこからの眺めが素晴らしく、越前海岸まで望むことができるとのことであったが、予定の時間を過ぎていたのと越前海岸は十分楽しんできたことから、帰途に就くことにした。
この金崎宮・金ヶ崎城阯は桜の名所でもあるので、また別のシーズンに訪れたいと思う。

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2Comments

ラングドック・ラングドシャ  

杉野はいずこ

うちの母(昭和4年生まれ)は、炊事をしているときなど「杉野〜は い ず こ・・・」と、唱歌「広瀬中佐」をよく口ずさんでいましたが、閉塞作戦のために使った船は、民間から徴用したものだったのですね。考えてもみませんでした。それにしても、現役で使っている船をバリケードのために沈めさせられる船主の方の思いは、かなり複雑だったのだと思います。
ちなみに、もう一曲よく歌っていたのは、唱歌「児島高徳」でした。こちらは、松本零士の『男おいどん』で、下宿屋のおばあさんが歌っているシーンがあったので、やはり当時の人にはスタンダードナンバーだったのでしょう。

2018/12/10 (Mon) 00:09 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: 杉野はいずこ

ラングドック・ラングドシャさん、コメントありがとうございます。とても励みになります。

私も、右近家を見学するまでは、閉塞作戦のために民間の船が使われていたことを知りませんでした。しかもお払い箱になった船を沈めたのではなく、「福井丸」の場合は現役の輸送船で、直前まで使われていたことを知って驚きました。

「広瀬中佐」「児島高徳」という歌は知りませんでした。情報ありがとうございます。
私の母は昭和3年生まれですが、母が戦争の歌を歌うのは聞いたことがありません。学徒動員に出たりして辛かった時代の事を思い出したくないのかな。




2018/12/10 (Mon) 07:46 | EDIT | REPLY |   

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