『文明開化』における新旧風俗の大混乱
前回の記事で、戊辰戦争が一段落したあと大倉喜八郎が、これからはわが国で洋服の需要が急速に高まることを予見してイギリスの羅紗工場を私費で視察したことを書いたが、喜八郎が予見した通りにわが国に西洋の衣料品が急速に広まっていった。
【急激な洋装の普及】
それまでの日本人は、髪を結い和服を着て下駄や草履を履くのが当たり前であったのだが、それが急激に洋装に変化したのが明治の初期である。
それまでの和装のままでも生活に支障があることはなかったと思うのだが、周囲の人々の洋装化が進んでいくと、誰しも洋服や革靴が欲しくなるのは仕方がないだろう。しかしながら服装の組み合わせというものは、和洋折衷では決して見栄えの良いものではない。

上の画像は坂本龍馬だが、よく見ると靴を履いている。見慣れていないからそう感じるのかもしれないが、和服に革靴は似合わないように思うのは私一人だけではないだろう。

高知・桂浜の坂本龍馬像は下から見た時には気が付かなかったのだが、高いところから見ると靴を履いているのがわかる。

前回紹介した岩倉使節団の写真で、中央の岩倉具視も和服で靴を履いているのだが、和服にはやはり下駄や草履が似合うと思う。
逆に、洋服を着て下駄・草履を履くのも似合ず、ちょんまげをして背広を着るのもおかしいのではないか。
【和洋折衷スタイルの明治人の評価】
過渡期に於いては一部が和洋折衷となることは仕方がなかったと思うのだが、和洋折衷の装いは組み合わせによっては滑稽に思えることがある。

[石井研堂]
以前このブログで明治41年に出版された石井研堂著『明治事物起原』に、文明開化時期のおかしな男女のスタイルが明治五年(1872年)の雑誌の記事になったことが紹介されているので引用したい。
「明治維新のはじめ、徳川時代の風俗未だ脱せず、欧米風の事物は洪河の勢いを以て侵入したれば、海内半旧半新の異風俗は、頗(すこぶ)る茶番的笑味(しょうみ)を帯び、後世の風俗史中に逸すべからざる一節を造れり。新旧の連鎖に、かかる奇体の発生すべきは、素より当然のこととなす。
明治五年冬版〔雑誌〕七十号に、府下当時の異風変態二十種を列挙すること次の如し。
(一)切下髪洋服足駄
(二)洋服の上に羽織
(三)散髪直垂帯刀洋沓(くつ)
(四)剃髪洋服
(五)洋人日本服
(六)婦人ジャンギリ髪トンビ服コウモリ傘
(七)茶せん髪両刀
(八)ヘッツイ頭パッチ洋沓
(九)婦人着袴乗馬
(十)塗笠割羽織踏込
(十一)長髷月代を舒(のば)し仕合道具
(十二)野郎ツキ込びんにて股脚をあらわす
(十三)散髪書生羽織
(十四)茶せんまげ洋服
(十五)少女着袴洋書
(十六)平服スゴキしめて沓
(十七)奴隷下駄にて乗馬脛(はぎ)をあらわす
(十八)洋服帯刀
(十九)解放婦女
(二十)半パツにてかごをかく。」(明治41年刊 石井研堂著『明治事物起原』p.69-70)
一部意味不明なものがあるが、和洋折衷のスタイルがおかしく感じることは昔も今も同じのようだ。
上から下まで洋装なり和装で統一すれば問題ないのだが、当時は大量生産されているわけでもなくバーゲンも存在しなかった時代である。多くの明治期の庶民にとって総て洋装で揃えることの出費は経済的に厳しかったと思われる。そのため、勤労者の身なりが洋風で統一されるまでにはかなりの月日が必要であったようだ。

[ワ―グマン 『文明開化 下駄から靴へ』]
同上書には、公務員や職工や学生の少なからずが和洋折衷の姿でいたという記事が紹介されている。
「方今(五年五月)外国人警衛の別手組なる者の形容いぶかしきこと甚だ多し。頭は因循姑息の大髷にして、元亀天正以来伝家の陣笠を戴き、古びたる義経袴並びに燕尾服のいかつめらしきを着し、馬具は日本古代の器にて重藤の鞭を揮(ふる)い、垢じみたる手綱をかいとり、洋人の跡に付き乗行きしは、実に気の毒なるさまなり。〔雑誌四十五号〕
現今尚、洋服を着け、足駄をはき、蛇の目傘をさせる学生職工小役人少なからず、女学校生徒の、つつ袖に袴を着けたるは常の風俗なり。和洋大に混淆し、後始めて帰着する所あるべきなり。」(同上書 p.71-72)
このような新旧ファッションの混乱の問題は、わが国だけに限らず、洋服を着る習慣がなかった国が洋風化を受け入れた場合には、その過渡期に於いて同様なことが起きたと考えられる。
【日本人が和装を見直す日は来るのか】
わが国の場合は、明治期に勤労者を中心に急速に洋装化が進んだのだが、昭和三十年代頃までは、和装で下駄や草履を履いて町を歩く人が少なからずいて、靴屋に下駄などが売られていた。
今では和服を着る日本人が少なくなってしまっているのだが、その一方で京都などの観光地では、外国人が着物を着ている姿を観ることが多くなってきた。古い街並みや神社仏閣など、昔の日本らしい風情を残している観光地には、男も女も着物姿が良く似合う。着物のレンタル業は、もっと多くの観光地で展開できるのではないかと思う。
『文明開化』の名のもとにファッションの洋風化を推進したわが国だが、和装が「文明以前」のファッションというわけではなかった。和服には和服の良さがあり、湿度の高いわが国の気候にはむしろ和服の方が適していると思われるのだが、日本人が和服の良さを再発見し、和服を着て観光地を楽しんだり、自宅で寛ぐ時代は来るのだろうか。
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【急激な洋装の普及】
それまでの日本人は、髪を結い和服を着て下駄や草履を履くのが当たり前であったのだが、それが急激に洋装に変化したのが明治の初期である。
それまでの和装のままでも生活に支障があることはなかったと思うのだが、周囲の人々の洋装化が進んでいくと、誰しも洋服や革靴が欲しくなるのは仕方がないだろう。しかしながら服装の組み合わせというものは、和洋折衷では決して見栄えの良いものではない。

上の画像は坂本龍馬だが、よく見ると靴を履いている。見慣れていないからそう感じるのかもしれないが、和服に革靴は似合わないように思うのは私一人だけではないだろう。

高知・桂浜の坂本龍馬像は下から見た時には気が付かなかったのだが、高いところから見ると靴を履いているのがわかる。

前回紹介した岩倉使節団の写真で、中央の岩倉具視も和服で靴を履いているのだが、和服にはやはり下駄や草履が似合うと思う。
逆に、洋服を着て下駄・草履を履くのも似合ず、ちょんまげをして背広を着るのもおかしいのではないか。
【和洋折衷スタイルの明治人の評価】
過渡期に於いては一部が和洋折衷となることは仕方がなかったと思うのだが、和洋折衷の装いは組み合わせによっては滑稽に思えることがある。

[石井研堂]
以前このブログで明治41年に出版された石井研堂著『明治事物起原』に、文明開化時期のおかしな男女のスタイルが明治五年(1872年)の雑誌の記事になったことが紹介されているので引用したい。
「明治維新のはじめ、徳川時代の風俗未だ脱せず、欧米風の事物は洪河の勢いを以て侵入したれば、海内半旧半新の異風俗は、頗(すこぶ)る茶番的笑味(しょうみ)を帯び、後世の風俗史中に逸すべからざる一節を造れり。新旧の連鎖に、かかる奇体の発生すべきは、素より当然のこととなす。
明治五年冬版〔雑誌〕七十号に、府下当時の異風変態二十種を列挙すること次の如し。
(一)切下髪洋服足駄
(二)洋服の上に羽織
(三)散髪直垂帯刀洋沓(くつ)
(四)剃髪洋服
(五)洋人日本服
(六)婦人ジャンギリ髪トンビ服コウモリ傘
(七)茶せん髪両刀
(八)ヘッツイ頭パッチ洋沓
(九)婦人着袴乗馬
(十)塗笠割羽織踏込
(十一)長髷月代を舒(のば)し仕合道具
(十二)野郎ツキ込びんにて股脚をあらわす
(十三)散髪書生羽織
(十四)茶せんまげ洋服
(十五)少女着袴洋書
(十六)平服スゴキしめて沓
(十七)奴隷下駄にて乗馬脛(はぎ)をあらわす
(十八)洋服帯刀
(十九)解放婦女
(二十)半パツにてかごをかく。」(明治41年刊 石井研堂著『明治事物起原』p.69-70)
一部意味不明なものがあるが、和洋折衷のスタイルがおかしく感じることは昔も今も同じのようだ。
上から下まで洋装なり和装で統一すれば問題ないのだが、当時は大量生産されているわけでもなくバーゲンも存在しなかった時代である。多くの明治期の庶民にとって総て洋装で揃えることの出費は経済的に厳しかったと思われる。そのため、勤労者の身なりが洋風で統一されるまでにはかなりの月日が必要であったようだ。

[ワ―グマン 『文明開化 下駄から靴へ』]
同上書には、公務員や職工や学生の少なからずが和洋折衷の姿でいたという記事が紹介されている。
「方今(五年五月)外国人警衛の別手組なる者の形容いぶかしきこと甚だ多し。頭は因循姑息の大髷にして、元亀天正以来伝家の陣笠を戴き、古びたる義経袴並びに燕尾服のいかつめらしきを着し、馬具は日本古代の器にて重藤の鞭を揮(ふる)い、垢じみたる手綱をかいとり、洋人の跡に付き乗行きしは、実に気の毒なるさまなり。〔雑誌四十五号〕
現今尚、洋服を着け、足駄をはき、蛇の目傘をさせる学生職工小役人少なからず、女学校生徒の、つつ袖に袴を着けたるは常の風俗なり。和洋大に混淆し、後始めて帰着する所あるべきなり。」(同上書 p.71-72)
このような新旧ファッションの混乱の問題は、わが国だけに限らず、洋服を着る習慣がなかった国が洋風化を受け入れた場合には、その過渡期に於いて同様なことが起きたと考えられる。
【日本人が和装を見直す日は来るのか】
わが国の場合は、明治期に勤労者を中心に急速に洋装化が進んだのだが、昭和三十年代頃までは、和装で下駄や草履を履いて町を歩く人が少なからずいて、靴屋に下駄などが売られていた。
今では和服を着る日本人が少なくなってしまっているのだが、その一方で京都などの観光地では、外国人が着物を着ている姿を観ることが多くなってきた。古い街並みや神社仏閣など、昔の日本らしい風情を残している観光地には、男も女も着物姿が良く似合う。着物のレンタル業は、もっと多くの観光地で展開できるのではないかと思う。
『文明開化』の名のもとにファッションの洋風化を推進したわが国だが、和装が「文明以前」のファッションというわけではなかった。和服には和服の良さがあり、湿度の高いわが国の気候にはむしろ和服の方が適していると思われるのだが、日本人が和服の良さを再発見し、和服を着て観光地を楽しんだり、自宅で寛ぐ時代は来るのだろうか。
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