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『文明開化』で旧来の制度や習慣を西洋化しようとした政府と、それに抵抗した人々

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Category文明開化とその反動
【丁髷(ちょんまげ)を嘲笑した外国人】
かつて日本男児にとって丁髷はかけがえのないものであったと思うのだが、外国人にとっては非常に滑稽なものとして目に映ったようである。前回記事で紹介した石井研堂著『明治事物起源』に、旧幕臣であった澤太郎左衛門のオランダ留学体験談が紹介されている。

「文久二年九月、開陽丸の注文と留学のために、榎本釜次郎、澤太郎左衛門、内田恒次郎等、オランダ国に渡る。当時、頭様も野郎あたまなりしかば、元結びん付油などを、沢山持ち参りき。初め、留学中といえども、決して風俗を変ずべからずと、幕府の約束ありしかば、衣服髪容を変えざりしが、市上に出ずる毎に、見物人に冷罵嘲笑せらるるに困り、衣服だけは洋服を着くることにせしも、何時召還に逢うや知れざれば、斬髪のみは断行しがたく、纔(わずか)に、帽子にて結髪を掩(おお)い隠し居たりき。…ある時の如き、芝居に入りしに、見物皆脱帽なれば、思わず脱帽せるに、見物一同、其まげを見てドッと騒ぎ立ちしかば、居たまらずして、狐鼠々々(こそこそ)芝居より出でしこともありきという。(旧幕府、澤氏演説摘要)」(『明治事物起原』p.5-6)

澤太郎左衛門らの場合は、徳川幕府からの約束があったために丁髷を切らなかったのだが、明治元年に英国留学から帰国した中村敬輔、林菫、箕作奎吾、箕作大六らは、英国で断髪して帰って来たという。同上書によると「…帰朝するや、皆断髪頭なりしかば、浪士等の嫉視を怖れ、横浜より江戸に入るに、つけまげにてごまかし、僅かに入京したりという」(同上書p.6)とある。

外国では丁髷を切った方が心の平安を保てると考えたのだろうが、我が国に帰ると逆に丁髷がないことで騒がれてしまうことになる。中村敬輔らはそのことを怖れて、帰国後は付け髷をしてごまかそうとしたというのである。

散髪脱刀令で断髪した人々】
髪型について欧米と日本との違いは大きかったのだが、明治政府は西洋の髪型を推進しようとして、明治四年(1871年)八月に「散髪脱刀令(太政官第三百九十九号)」を出している。原文は「散髪制服略服脱刀共可為勝手事 但礼服ノ節ハ帯刀可致事」と短いもので、髪型や服装については自由にし、帯刀については礼服を着る節は必要だがそれ以外の時は自由である、という内容だ。

仮名垣魯文著『安愚楽鍋』三編挿絵
[仮名垣魯文著『安愚楽鍋』三編挿絵(明治五年刊)]


決して髷を切ることを強制する内容ではなかったのだが、この太政官令を機に多くの日本人が髷を切るようになった。当時の有名な俗謡でこんなものがあるが、西洋化を進めようとした明治政府のプロパガンダの臭いがする。
「ジャンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」
「チョンまげ頭を叩いて見れば因循姑息の音がする」

斎藤隆三の著書によると 、東京府下に於いて散髪脱刀令の出る二年前の明治二年ですでに結髪七分散髪三分と言われていたが、明治九年には散髪六分結髪四分となったという。(昭和15年刊『近世世相史』p.208)
政府の施策に協力する者がいる一方で、抵抗する者も少なからずいることは、昔も今も変わらないようだ。


【東京では女性の断髪を禁止した】
当時の新聞記事を見ていると、女性で断髪する者も現われて大騒ぎとなっている。
この「散髪脱刀令」は、男性のみ適用するとはどこにも記されていなかったのだが、当初から女性が断髪することまでは想定していなかったという。
国立国会図書館デジタルコレクションに、明治時代の新聞や雑誌の記事をまとめた本が公開されており、明治五年三月の日要新聞の記事に女子の散髪流行について次のように罵倒している。

邦人も我婦女子のザンギリを視ては大いに嘲(わら)える由なり。尤も多くは煎茶店等の給仕女にて、啻(ただ)に奇を好むのみならず、書生兵員儕(ともがら)の寵恋を計るか、或いは自負の強き不従教輩(おてんばむすめ)の所為なれば実に笑止の甚(はなはだし)きなり。速く異風を改め、人に相応の容(すがた)を為て一婦もかかる至愚(いきすぎ)なきよう有たし。」(『新聞集成明治編年史. 第一卷』p.436)

女子の断髪醜態見るに忍びず

また翌月の新聞雑誌35では
大帯の上に男子の用ゆる袴を着し、足駄をはき、腕まくりなどして、洋書を提げ往来するあり。如何に女学生とて猥(みだり)に男子の服を着して活気がましき風俗をなすこと、既に学問の他道に馳せて女学の本意を失いたる一端なり。是等は孰(いず)れも文明開化の弊にして、当人は論なく父兄たる者教えざるの罪と謂いつべきなり。」(同上書 p.441)
と批判し、髪を短く切ったり男性の服を着る女性には随分厳しい論調である。

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そして明治五年四月五日に東京府が「女子断髪禁止令」を布告したことが、『国立公文書館ニュース』の『あの日の公文書』の記事に出ている。同記事に画像が掲載されている「婦人散髪の儀につき伺書」の全文が読めないのは残念だが、その冒頭で前年に出された散髪脱刀令は「専ら男子に相限り候儀にあるべき」とあり、女子もザンギリ頭にできるという趣旨ではない旨が記されているのが読める。

女子の断髪所罰済証明書下付

この「女子断髪禁止令」に違反した場合には罰則規定もあったようだが、女性が一旦髪を切ってしまうと、髪が伸びるまでは外出時に法律違反で捕まる可能性がなくならないことになってしまう。そこで東京府は違反者に『所罰済証明書』を下付し、外出時にもし捕まった場合はその証明書を呈示して弁明することを定めていたことが、明治六年二月の東京日日新聞の記事に書かれている。(『新聞集成明治編年史. 第二卷』p.14)


【わが国の伝統文化を捨てて洋風化を推進化する政府に抵抗した人々】
髪型だけではなく明治初期のわが国は、政府が率先して西洋の制度や習慣をあらゆる分野で取り入れようとしたのだが、その反発は地方によってはかなり激しかったようだ。同上書に同年の三月の東京日日新聞の記事が掲載されていて、それによると敦賀県(現在の福井県)で大規模な一揆が起こっている。いわゆる越前護法大一揆である。

この一揆は浄土真宗の信徒の多い地域で3万人近くが参加したもので、これだけ大規模なものとなった原因については、同上の東京日日新聞の記事で次のように解説されている。

敦賀県土寇蜂起

「この一揆の名とする者は、耶蘇宗拒絶の事、真宗説法再興の事、学校に洋文を廃する事、此の三ヶ條にして、其頑民共唱うる所の者は、朝廷耶蘇教を好み、断髪洋服は耶蘇の俗なり、三條の教則は耶蘇の教なり、学校の洋文は耶蘇の文なりと。其他地券を厭棄、諸簿冊悉灰燼とし、新暦を奉ぜず旧暦を固守し、喋々浮説妄誕を唱え、兎に角旧見古態を脱せず。…是併ながら、大野一郡のみにもあらず、吉田丹生、今立の三郡へ波及蔓延、竟には挙国沸擾の形成これあり、不容易大事件、兵力を備えて鎮圧せざるを得ず。…」(『新聞集成明治編年史. 第二卷』p.22)

少し補足すると、「三條の教則」とは、政府が定めた国民教化の教条で、
①敬神愛国の旨を体すべきこと
②天理人道を明らかにすべきこと
③皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと
の三条を指している。
『耶蘇』とはキリスト教の事だが、ここでは明治政府が矢継ぎ早に出してきた欧化政策全般を指していると理解して良い。福井の人々は政府の神仏分離などの宗教施策も欧化政策の一環と捉え、信仰を中心とする伝統的生活を守るために立ち上がったのである。

新聞では越前の一揆については否定的な内容になっているが、当時の政府が『文明開化』をスローガンとして推進していたことのなかには、旧来の伝統文化の破壊とも呼ぶべきものが少なからずあり、国民の抵抗が強かったことを知るべきである。

鋳潰されて銅銭にする計画があった東大寺大仏
[鋳潰されて銅銭にする計画があった東大寺大仏]

明治政府の『文明開化』の実態について、歴史学者・徳重浅吉は自著でこう述べている。

「明治の初年は旧習一洗・欧米文物輸入の時代であって…在来のものはすべて旧弊陋習・古薬鑵と軽しめられて、欧風開明・舶来のものに限るように考えられ、それらが御一新の名によって嵐の如く旧物を破壊し尽くしたかの観さえあるのであるが、それこそは実に此の実利主義と表裏相即している精神に原因しているのであった。換言すれば旧弊陋習と断定せられる標準は、最も以て無用無益、実利なしという点にあったのである。例えば明治三年のように、かつての勅願によって敬造せられ、千有瀚年間朝野の尊信を捧げられてきた奈良大仏を、県令海江田信義等が破却せんとしたのは、之を鋳潰して銅銭にせばやという計画であり、それ故にそれでは奈良三万の住民が将来永く衣食の途を失うと聞かされてすぐに思いとどまった。また明治三年東京府が上野の森を伐り不忍池を埋立てんとて丈量し計画を立てたが、それも茶と桑を植えて産物を増やそうとしたのであり、五年奈良嫩(わか)草山を開かんとしたのも同様であった。甚だしきは七年には宮城の外濠を埋め数万件の地面に桑・茶・椿を植うべしと論じたものもある。」(昭和13年刊『日本文化史の研究』p.368)

明治初期において、政府は『文明開化』という耳触りの良い言葉を用いて、わが国の風習や宗教や文化等の多くを否定して、洋風のものに置き換えようとしたのである。もちろん西洋に制度や技術などわが国より優れていた分野が少なくなかったことは事実だが、わが国の古いものがすべて無価値であるわけがない。
明治政府による文化破壊に抵抗する人々が少なからずいたおかげで多くの貴重な文化財が残されて、世界中の人々が訪れる観光国としての恩恵を蒙っていることを知るべきである。
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この記事で紹介させていただいた『新聞集成明治編年史』は、幕末の文久2年(1862年)から明治45年(1912年)までの新聞記事を集めたもので、 政治や外交のみならず当時の風俗や世相に関する記事が豊富で、明治の時代の雰囲気が伝わってくるとともに、正史がどのような重要な史実を封印しているかが分かります。
この『新聞集成明治編年史』全15巻は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、私の新ブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」で、全URLを案内しています。
https://shibayan1954.com/degital-library/ndl/meiji-hennenshi/




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