極端な欧化主義でわが国の伝統文化や景観破壊を推進した政治家は誰なのか
文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いたと指摘したのち、こう述べている。
「当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国における固有の文化と特徴を自省するよりも、一意欧米の文化に心酔して、その思想、文物を輸入することをもって最善の急務としたのである。而して、それは何をおいても、実利という標準から離れることが出来なかった。
今日から見れば、其の皮相浅薄は、笑うべきものであるが、急激に欧米文化の圧力に対抗するに足るべき武力と富力とを得んと焦慮した。当時にあっては、欧米文化の断片を早呑み込みして、直ちに、革新に資するということが、極めて必要で、その皮相浅薄を顧る遑(いとま)がなかったのである。ことに彼らが、新文化の輸入について、俗衆の無智と戦い、財政の窮乏と戦い、頑迷な保守主義者と戦って、一生懸命に、その新しい仕事を進めて至った熱心と努力とは、日本文化の進展を助長すべき一個の柱礎となったのである。
勿論、当時の政府には、早くから、進歩主義と保守主義とがあって、事ごとに意見を異にした傾きはあったけれども、征韓論の勃発する迄は、それが影になって隠れていた。而して時代は、如何しても、進歩主義者を実際に要求し、且つ進歩主義者の中に、政治家として適当した材能を有するものが、比較的多かったので、勢い、欧化的実利思想を基本として進むことになったのは、当然の帰結であった。」(『明治大正五十三年史論』p.100-101)
廃藩置県が強行されたのは明治四年(1871年)七月十四日であるが、それまでは旧大名領は旧藩主が知藩事として引き続き旧藩の統治に当たっていたので、実質的には封建的体制が続いていたと言って良い。ところが廃藩置県が行われることによって、旧藩主は東京に住まわされ、政府から新たに知事が派遣されたのであるが、そのメンバーの多くが政府の方針通りに「旧弊打破」「厭旧競新」を推進し、伝統的文化・景観破壊が加速することとなる。
前回の記事で紹介したが、法律で日本服を全廃し洋服に改めよとか、英語を以て国語とせよという主張がされたり、寺の境内や建物が破壊されたり、各地の石仏や石像、路傍の地蔵尊が撤去されたり、盆の行事が停止されるなどいろんな命令が出てこの時期に実行に移されている。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/25

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/48
『新聞集成明治編年史. 第二卷』で当時の記事を探してみると、正月の楽しみである羽子板で顔に墨を塗ることは「醜の極み」と論評されたり(明治六年)、戸籍をいろは順で記録することを禁じ、あいうえお順で記録せよとの記録がある(明治六年)。その理由は、いろは歌は「仏因果悟道之歌ニ御座候」とあり、廃仏毀釈の考え方がこんなところにも出ているのは驚きである。また、力士の丁髷や裸姿を見せる相撲は「国家の恥辱」だと書かれたり(明治九年)で、枚挙にいとまがない。要するに、政府は古くからわが国に残る物は、庶民の信仰であろうが娯楽であろうがと何でも否定しようとしていたのである。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/294
では、そのような極端な欧化主義的施策はいつごろまで続いたのだろうか。
大正14年刊の斎藤隆三著『近世日本世相史』によると
「一にも二にも西洋謳歌にありし為政者の指針に随って饗応し盲走したるによるべきのみ、而して上下押なべて滔々たる西洋崇拝西洋心酔の時代を顕出せしむるには至りしなり。明治五六年より、明治二十二三年の自覚期に至るまでの十五六年間は即ち是れなり。」(『近世日本世相史』p.1057-8)
とあり、このような施策は15~16年間も続けられたとある。
では、この様な極端な欧化施策はどのような「為政者」がかかわっていたのであろうか。斎藤隆三氏の著書の引用を続けよう。
「新政府の当事者が国家独立の上より観て、又実際上に自らしたる経験より観て、彼の何者よりも先ず痛切に感じたる者は欧米の軍事の進歩なり。されば新政府は東京に移りて一切のこと未だ緒に就かざるに、早くも明治二年三月というに、山縣有朋、西郷従道の両人を軍事視察として欧米各国に派遣するの挙に出でたり。続いて四年十月には新政府の柱石たる岩倉右大臣自ら全権大使となり、大久保、木戸以下政府の要地にある大官を率いて欧米各国を巡視すべきの議決せられ、十一月横浜を解纜して千里の行程に上る。(中略)
岩倉右府の一行は二年間の歳月を欧米諸国に費し、到る所に驚異の目を睜って発達せる物質文明を観、風俗習慣一切万事ただ徒に彼の為す所に眩惑して、文明開化の国たらんには須らく此くの如くならざるべからずとの信念を強うせしめたると共に、愈々自国を未開劣等等と卑下するの感をさえ之を高めて、明治六年九月をもって帰朝したり。これより西洋文物の鼓吹一層その度を増し、制度文章機械器具風俗習慣何れは撰ぶ所もなく滔々として洋風の移入模倣を是れ力むるに至らしめたり。」(同書 p.1061-2)
と、極端な欧風化を推進したのは洋行組であったという。
山縣有朋、西郷従道が帰国し兵部省入りした明治2年10月に、陸軍の編成・訓練から服装に至るまでフランス式に統一され、のちに分離された海軍は万事英国式となったという。
また、小学校が設立されると、旧来の教育法を棄てて米国の教科書であるユニオンリーダーを直訳したものを用い、法律の制定にあたっては法学者をフランスより招聘して学び、鉄道や電信などのインフラも、専門家の設計・監督により整えていったことが解説されている。
学生時代にこの時代を学んだ際には、極端な欧化政策がとられたのは鹿鳴館時代と呼ばれる明治十年代後半と学んだ記憶があるのだが、このような政策は明治初期から始まっていて、最もひどかった時代が鹿鳴館時代ということである。

もっとも、この時代に西洋の技術がわが国の社会にどんどん導入されている。
明治5年に新橋~横浜間に鉄道が開通して蒸気機関車が運行され、横浜にはガス灯が設置され、わが国最初の本格的な器械製糸工場である富岡製糸場が操業を開始している。
明治6年には東京~長崎に電信の回線がひかれ、東京から海外への通信が可能となった。また明治8年には、銀座通りを煉瓦・石造の建築に改造されている。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/176
上の画像は明治8年3月の東京日日新聞の記事だが、英国領事館の一官員がスコットランドの新聞に語ったのわが国の文明開化に関する感想を紹介している。
この領事官は、ガス灯、電信機、鉄道、郵便、蒸気船、学校、造船場、造幣処、製綿場などの事例を挙げて「シナ人が百余年を費やして、西人と交渉して仕遂げたる実功を、日本にては纔(わずか)に十余年の交渉にて成し終われり」と日本の進歩の速さに驚きつつも、「日本の現景は、欧州の技術機関の外形に達するのみにて、眞開化の域に進むこと能わず」と、まだ文化水準は独自の境地に達していないとしている。
では、わが国がこのような欧風化を急いだ理由はどこにあったのであろうか。欧化主義者の代表的人物であった伊藤博文の考え方について、昭和九年に出版された秋山悟庵編著『伊藤博文言行録』には、こう解説されている。
「公が他年の難問題たる条約改正のために準備として対等の条約を結ぶを肯(がえん)ぜざらむを慮(おもんばか)り、其が口実の材料を消滅し、以て彼と親善を厚うせんとの手段として、盛んに欧米の制度及び風俗を模倣して、以て我邦の風俗改良に着手したるなり。されば一方外務省には彼の縄にて尻を鞭(むちう)たれたる洋行以来の水魚刎頸の友たりし井上馨氏を大臣に挙げて、之と十分に力を協せこの難問題を解決せんと図りたるなり。然るに余りに急進なる欧化主義たりしがために、社会のある方面の不人望を招き、非難攻撃の声は至る所に聞こゆるに至れり。」(『伊藤博文言行録』p.67-68)
大正7年に伊藤痴遊が著した井上馨の伝記に次のような記述がある。
「この条約改正に就て、俄か仕込の欧化主義が盛んに唱えられて、到るところに不似合いな、欧米の風俗や習慣が移されて来た。伊藤は暫く措いて、井上や山縣のような人物が、外務と内務の椅子に就いて居た時の政府の方針が、極端なる欧化主義であったということは、唯卒然として之を聞けば、如何にも不思議に思われようが、実は条約改正の必要から、俄か仕込の馬鹿げた欧化主義が、実際に現れて来たまでの事である。(中略)井上があまりにその功を収むる事に急いだため、第一には各国公使の歓心を求むることに腐心し、第二には欧米の文明の外観を模倣して、日本人の頭脳も是までに進んできた、ということを示さんが為に、善悪邪正を一呑みにして何がなんだか、さっぱり訳の解らぬことまでも、そのままに移し植えようとした、その過失は今更咎め立てをしたところで致し方もない…」(『井上侯全伝』p.459-460)
伊藤痴遊は、井上らによほどひどい過ちがあったことを匂わせているのだが具体的にどのようなことがあったのか。その点については次回に書くことにしたい。
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この記事で紹介させていただいた『新聞集成明治編年史』は、幕末の文久2年(1862年)から明治45年(1912年)までの新聞記事を集めたもので、 政治や外交のみならず当時の風俗や世相に関する記事が豊富で、明治の時代の雰囲気が伝わってくるとともに、正史がどのような重要な史実を封印しているかが分かります。
この『新聞集成明治編年史』全15巻は国立国会図書館デジタルコレクションで公開されており、私の新ブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」で、全URLを案内しています。
https://shibayan1954.com/degital-library/ndl/meiji-hennenshi/

「当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国における固有の文化と特徴を自省するよりも、一意欧米の文化に心酔して、その思想、文物を輸入することをもって最善の急務としたのである。而して、それは何をおいても、実利という標準から離れることが出来なかった。
今日から見れば、其の皮相浅薄は、笑うべきものであるが、急激に欧米文化の圧力に対抗するに足るべき武力と富力とを得んと焦慮した。当時にあっては、欧米文化の断片を早呑み込みして、直ちに、革新に資するということが、極めて必要で、その皮相浅薄を顧る遑(いとま)がなかったのである。ことに彼らが、新文化の輸入について、俗衆の無智と戦い、財政の窮乏と戦い、頑迷な保守主義者と戦って、一生懸命に、その新しい仕事を進めて至った熱心と努力とは、日本文化の進展を助長すべき一個の柱礎となったのである。
勿論、当時の政府には、早くから、進歩主義と保守主義とがあって、事ごとに意見を異にした傾きはあったけれども、征韓論の勃発する迄は、それが影になって隠れていた。而して時代は、如何しても、進歩主義者を実際に要求し、且つ進歩主義者の中に、政治家として適当した材能を有するものが、比較的多かったので、勢い、欧化的実利思想を基本として進むことになったのは、当然の帰結であった。」(『明治大正五十三年史論』p.100-101)
廃藩置県が強行されたのは明治四年(1871年)七月十四日であるが、それまでは旧大名領は旧藩主が知藩事として引き続き旧藩の統治に当たっていたので、実質的には封建的体制が続いていたと言って良い。ところが廃藩置県が行われることによって、旧藩主は東京に住まわされ、政府から新たに知事が派遣されたのであるが、そのメンバーの多くが政府の方針通りに「旧弊打破」「厭旧競新」を推進し、伝統的文化・景観破壊が加速することとなる。
前回の記事で紹介したが、法律で日本服を全廃し洋服に改めよとか、英語を以て国語とせよという主張がされたり、寺の境内や建物が破壊されたり、各地の石仏や石像、路傍の地蔵尊が撤去されたり、盆の行事が停止されるなどいろんな命令が出てこの時期に実行に移されている。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/25

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『新聞集成明治編年史. 第二卷』で当時の記事を探してみると、正月の楽しみである羽子板で顔に墨を塗ることは「醜の極み」と論評されたり(明治六年)、戸籍をいろは順で記録することを禁じ、あいうえお順で記録せよとの記録がある(明治六年)。その理由は、いろは歌は「仏因果悟道之歌ニ御座候」とあり、廃仏毀釈の考え方がこんなところにも出ているのは驚きである。また、力士の丁髷や裸姿を見せる相撲は「国家の恥辱」だと書かれたり(明治九年)で、枚挙にいとまがない。要するに、政府は古くからわが国に残る物は、庶民の信仰であろうが娯楽であろうがと何でも否定しようとしていたのである。

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では、そのような極端な欧化主義的施策はいつごろまで続いたのだろうか。
大正14年刊の斎藤隆三著『近世日本世相史』によると
「一にも二にも西洋謳歌にありし為政者の指針に随って饗応し盲走したるによるべきのみ、而して上下押なべて滔々たる西洋崇拝西洋心酔の時代を顕出せしむるには至りしなり。明治五六年より、明治二十二三年の自覚期に至るまでの十五六年間は即ち是れなり。」(『近世日本世相史』p.1057-8)
とあり、このような施策は15~16年間も続けられたとある。
では、この様な極端な欧化施策はどのような「為政者」がかかわっていたのであろうか。斎藤隆三氏の著書の引用を続けよう。
「新政府の当事者が国家独立の上より観て、又実際上に自らしたる経験より観て、彼の何者よりも先ず痛切に感じたる者は欧米の軍事の進歩なり。されば新政府は東京に移りて一切のこと未だ緒に就かざるに、早くも明治二年三月というに、山縣有朋、西郷従道の両人を軍事視察として欧米各国に派遣するの挙に出でたり。続いて四年十月には新政府の柱石たる岩倉右大臣自ら全権大使となり、大久保、木戸以下政府の要地にある大官を率いて欧米各国を巡視すべきの議決せられ、十一月横浜を解纜して千里の行程に上る。(中略)
岩倉右府の一行は二年間の歳月を欧米諸国に費し、到る所に驚異の目を睜って発達せる物質文明を観、風俗習慣一切万事ただ徒に彼の為す所に眩惑して、文明開化の国たらんには須らく此くの如くならざるべからずとの信念を強うせしめたると共に、愈々自国を未開劣等等と卑下するの感をさえ之を高めて、明治六年九月をもって帰朝したり。これより西洋文物の鼓吹一層その度を増し、制度文章機械器具風俗習慣何れは撰ぶ所もなく滔々として洋風の移入模倣を是れ力むるに至らしめたり。」(同書 p.1061-2)
と、極端な欧風化を推進したのは洋行組であったという。
山縣有朋、西郷従道が帰国し兵部省入りした明治2年10月に、陸軍の編成・訓練から服装に至るまでフランス式に統一され、のちに分離された海軍は万事英国式となったという。
また、小学校が設立されると、旧来の教育法を棄てて米国の教科書であるユニオンリーダーを直訳したものを用い、法律の制定にあたっては法学者をフランスより招聘して学び、鉄道や電信などのインフラも、専門家の設計・監督により整えていったことが解説されている。
学生時代にこの時代を学んだ際には、極端な欧化政策がとられたのは鹿鳴館時代と呼ばれる明治十年代後半と学んだ記憶があるのだが、このような政策は明治初期から始まっていて、最もひどかった時代が鹿鳴館時代ということである。

もっとも、この時代に西洋の技術がわが国の社会にどんどん導入されている。
明治5年に新橋~横浜間に鉄道が開通して蒸気機関車が運行され、横浜にはガス灯が設置され、わが国最初の本格的な器械製糸工場である富岡製糸場が操業を開始している。
明治6年には東京~長崎に電信の回線がひかれ、東京から海外への通信が可能となった。また明治8年には、銀座通りを煉瓦・石造の建築に改造されている。

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上の画像は明治8年3月の東京日日新聞の記事だが、英国領事館の一官員がスコットランドの新聞に語ったのわが国の文明開化に関する感想を紹介している。
この領事官は、ガス灯、電信機、鉄道、郵便、蒸気船、学校、造船場、造幣処、製綿場などの事例を挙げて「シナ人が百余年を費やして、西人と交渉して仕遂げたる実功を、日本にては纔(わずか)に十余年の交渉にて成し終われり」と日本の進歩の速さに驚きつつも、「日本の現景は、欧州の技術機関の外形に達するのみにて、眞開化の域に進むこと能わず」と、まだ文化水準は独自の境地に達していないとしている。
では、わが国がこのような欧風化を急いだ理由はどこにあったのであろうか。欧化主義者の代表的人物であった伊藤博文の考え方について、昭和九年に出版された秋山悟庵編著『伊藤博文言行録』には、こう解説されている。
「公が他年の難問題たる条約改正のために準備として対等の条約を結ぶを肯(がえん)ぜざらむを慮(おもんばか)り、其が口実の材料を消滅し、以て彼と親善を厚うせんとの手段として、盛んに欧米の制度及び風俗を模倣して、以て我邦の風俗改良に着手したるなり。されば一方外務省には彼の縄にて尻を鞭(むちう)たれたる洋行以来の水魚刎頸の友たりし井上馨氏を大臣に挙げて、之と十分に力を協せこの難問題を解決せんと図りたるなり。然るに余りに急進なる欧化主義たりしがために、社会のある方面の不人望を招き、非難攻撃の声は至る所に聞こゆるに至れり。」(『伊藤博文言行録』p.67-68)
大正7年に伊藤痴遊が著した井上馨の伝記に次のような記述がある。
「この条約改正に就て、俄か仕込の欧化主義が盛んに唱えられて、到るところに不似合いな、欧米の風俗や習慣が移されて来た。伊藤は暫く措いて、井上や山縣のような人物が、外務と内務の椅子に就いて居た時の政府の方針が、極端なる欧化主義であったということは、唯卒然として之を聞けば、如何にも不思議に思われようが、実は条約改正の必要から、俄か仕込の馬鹿げた欧化主義が、実際に現れて来たまでの事である。(中略)井上があまりにその功を収むる事に急いだため、第一には各国公使の歓心を求むることに腐心し、第二には欧米の文明の外観を模倣して、日本人の頭脳も是までに進んできた、ということを示さんが為に、善悪邪正を一呑みにして何がなんだか、さっぱり訳の解らぬことまでも、そのままに移し植えようとした、その過失は今更咎め立てをしたところで致し方もない…」(『井上侯全伝』p.459-460)
伊藤痴遊は、井上らによほどひどい過ちがあったことを匂わせているのだが具体的にどのようなことがあったのか。その点については次回に書くことにしたい。
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