Welcome to my blog

奥州市の正法寺、黒石寺、駒形神社から遠野市のふるさと村、福泉寺を訪ねて

3 0
Category岩手県
岩手旅行の2日目に最初に訪れたのは、奥州市水沢黒石町にある正法寺(しょうほうじ)という曹洞宗の寺である。

正法寺 惣門

駐車場に着くと立派な惣門(国重文)がある。この門は寛文五年(1665年)に建てられたもので、寺院の四脚門としては岩手県最古のものだという。

正法寺 法堂

惣門を抜けて蛇紋岩の大きな石段を登っていくと、茅葺屋根では日本一大きいと言われる法堂(国重文)が眼前に迫って来る。間口は二十一間半(約29.6m)、奥行十二間半(約21m)、屋根の高さ約26mで、建築面積は約769㎡(約233坪)もあるのだそうだ。平成十八年に大改修工事を終えてまだ日が浅く、茅葺がとても美しい。

リーフレットには、この寺の由来についてこう記されている。
南北朝時代の貞和四年(1348年)に無底良韶(むていりょうしょう)禅師によって開創されました。かつては永平寺(福井県)、總持寺(横浜市)とならび、奥羽二州の本山として発展し、直末・孫末等、門葉各寺院は五〇八ヵ寺とも一二〇〇ヵ寺とも伝えられています。その格式は朝廷の綸旨と總持寺の認可による確固たるものでありました。
江戸時代の政策により曹洞宗本山の格式は失いましたが、仙台伊達藩からは伽藍の復興整備と七十五石の寺領という格別の待遇を受けていました。
正法寺は、現在七十三ヵ寺の末寺を有し
、その歴史と格式にふさわしい寺宝や伽藍が数多く保存されています。」

正法寺 庫裏

上の画像は庫裏(国重文)だが、この建物も約528㎡(約160坪)とかなり広い建物である。
正法寺は何度か火災で焼失した記録があるが、寛政十一年(1799年)の火災では惣門、土蔵、宝蔵を残して全焼してしまい、文化三年(1806年)から禅堂や庫裏などが再建されていったのだが、以前はもっと多くの堂宇が存在した寺であったという。

正法寺の次に、近くにある黒石寺(こくせきじ)に向かう。

黒石寺

この寺は天平元年(729年)に行基が薬師像を造り、それを祀って「東光山薬師寺」と号したとされ、その後戦禍のために焼失してしまったのだが、大同二年(807年)に慈覚大師がこの寺を中興し、後に「黒石寺」と称するようになったと伝わっている。
盛時には伽藍四十八宇を数えたと言われるこの寺は何度か火災にあい、現在の本堂と庫裏は明治十七年(1884年)に再建されたものだという。しかしながら本尊の薬師如来坐像(国重文)は、胎内に貞観四年(862年)の墨書銘があるものが護られてきたものであり、他にも木造四天王立像(国重文)、木造僧形坐像(国重文)など貴重な仏像が残されている。

また、黒石寺では「裸の男と炎の祭り」とされる「蘇民祭」が、旧正月七日夜半から八日早暁にかけて行われる。この祭りは厳寒積雪中に行われる裸祭りで、日本三大奇祭、日本三大裸祭りの一つに数えられることもあるという。千年以上の歴史があるというこの祭りはYoutubeでいろんな動画が紹介されているが、解説付きの次の動画がコンパクトにこの祭りを伝えている。
https://www.youtube.com/watch?v=Fq1oRy86p5Y

駒形神社

黒石寺から次の目的地である陸中一宮の駒形神社に向かう。

駒形神社は、1500年ほど昔から焼石連峰の駒ケ岳山頂に祀られていたのだが、標高が1130mもある神社への参拝が容易ではなかったことから、明治初期にこの地にあった塩竃(しおがま)神社に遥拝所が設置され、明治三十六年(1903年)にこの遥拝所を「本社」と定めて、明治三十六年(1903年)に駒ケ岳山頂より神霊を遷座され、その結果塩竃神社を駒形神社の摂社とした歴史がある。

水沢公園の桜

駒形神社境内と隣接する水沢公園に咲くヒガン系桜群は岩手県の天然記念物に指定されており、桜の名所として知られている。訪れた日はちょうど桜の見ごろを迎えていた。

水沢公園 後藤新平像

水沢公園に、水沢出身の後藤新平の像が建っている。
案内板によると、「安政4年(1857年)6月4日吉小路で生まれ15歳で郷里をあとにした。苦学して須賀川医学校を卒業、明治14年(1881年)25歳で愛知病院長となる。明治31年(1898年)台湾総督府民政長官、明治39年南満州鉄道株式会社総裁を経て逓信大臣、鉄道員総裁、内務、外務大臣を歴任した。」とある。
政治家になる以前は医者であったことは知らなかったのだが、この銅像の姿は政治家でもなく医者でもない。この像は後藤新平が日本ボーイスカウトの初代総長に就任した時の姿であるという。

昼食をとってから遠野に向かう。
桜の名所である福泉寺を訪れたが、残念ながらやっと莟みが膨らんでいる程度だった。

福泉寺の創建は大正元年(1912)と歴史が浅いことが気になって調べてみると、明治初期の廃仏毀釈で遠野にあった早池峰大権現の別当寺である妙泉寺が廃され、早池峰神社となっていることがわかった。次のURLに早池峰神社の画像が出ているが、確かに仏教寺院のような建物が神門や拝殿や本殿になっている。
http://www.komainu.org/iwate/hanamakisi/HayatineOohasama/hayatine.html
https://www.asanao.com/6504.html

廃仏毀釈に当たって妙泉寺がどのように動いたかは記録が見つからないのでよくわからないが、福泉寺の開祖である佐々木宥尊という人物を調べていくと、早池峰大権現の神仏分離と関わっていたことが分かる。その経緯は「『じぇんごたれ』徒然草」というブログに詳しく書かれている。
そのブログによると、佐々木家は「その妙泉寺の最大権威者で世話役の任、小出地域の肝煎りで苗字帯刀を許された家柄で、早池峰信仰が盛んだった頃は、登山者の案内などもしていた」とあり、宥尊の祖父は「早池峰山妙泉寺の復興」を遺言としていたという。
宥尊は仏門の道に入ることを決心し、妻と離縁して光勝寺での6年の修行の後、醍醐三宝院、長谷寺で真言密教を学び、福泉寺という寺号を得て遠野に戻り、さらに修行を積みつつ何度も申請を却下されながら、不屈の精神で福泉寺の開創にこぎつけたという。
https://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/dc8f15402d0b61e6073f115d4bc0e5f5

福泉寺 山門

山門は竜宮門で参道を進むと仁王門がある。その仁王像は随分ユニークなものだったが、寺のリーフレットによると「山主自作の仁王像」とある。

福泉寺 観音堂

本堂を抜けて右に進むと観音堂があり、ここに木造では日本最大の観音像が安置されているのだが、これもリーフレットによると「住職自らの苦心の力作」なのだそうだ。樹齢千二百年の大木の一木造で、二十年の歳月を費やして制作したのだという。

福泉寺 多宝塔

観音堂の左に多宝塔がある。この塔は昭和五十七年(1982年)に完成したとある。

福泉寺 五重塔

坂道を下っていくと五重塔がある。この塔は平成二年(1990年)に完成したそうだ。
平成になって建てられた五重塔は、今まで京都府宮津市の成相寺で観たことがあるが、全国で11例ほどあるのだそうだ。これからも宮大工の伝統技術が承継され、美しい社寺建築が残されていくことを願いたい。

福泉寺から遠野ふるさと村に向かう。ここには遠野郷などに残された南部曲がり家が6軒移築されていて江戸時代の遠野の山里の集落が再現されている。

旧佐々木四郎家

上の画像は花巻市大迫町から移築された旧佐々木四郎家(国登録有形文化財)で、明治中期の建築だという。田舎の景色に茅葺の家はいつ見ても心が癒される。下はその内部を写したものである。
旧佐々木四郎家 内部

曲がり家というのは、長方形平面の直屋(すごや)と呼ぶのに対して、L字形平面の家屋をいうが、南部曲がり家は岩手県南部領地方の岩手県部分のほぼ全域に存在していたようだ。
1600年代は直屋であったそうだが、1700年代に入ってこの地方で馬産が盛んになり、曲がりの部分を補充しそこに厩が設けられて、人と馬とが一緒に住めるように設計されるようになったという。
ところが、兼業農家が増加し、大型農業用機械の導入により厩が不要となり、地域の共同性が低下して茅葺の屋根の葺き替えが難しくなってきたことなどの諸要因が重なり、南部曲がり家の数は大幅に減少していった。
遠野市には国の重要文化財に指定されている千葉家住宅や旧菊池家住宅があるが、白川郷のように、集落ごと昔のままの茅葺で残されていれば、遠野はもっと有名な観光地になっていたことと思う。

旧川前シメ家

上の画像は遠野市土渕町から移築した旧川前シメ家で江戸末期の建物である。

肝煎りの旧鈴木家

上の画像は遠野市綾織町砂子沢集落に最後まであった肝煎り(庄屋)の旧鈴木家を移築したもので、江戸末期に建築されたものだという。ここの厩には馬が飼育されていたが、馬の臭いはほとんど気にならなかった。

遠野ふるさと村には水車小屋や自然資料館もあり、事前に予約をすれば陶芸や草木染め、わら細工、竹細工などの体験も可能である(別料金)。
http://www.tono-furusato.jp/program/index.html

遠野ふるさと村 鯉のぼり

昔懐かしい鯉のぼりを見て、思わずシャッターを押してしまった。永年都会で暮らしていると、こういう風景を見ると郷愁を感じてしまう。
私の子供の頃には端午の節句が近づくと友達の家にも鯉のぼりが泳いでいた。私の実家も父や祖父が鯉のぼりを毎朝用意してくれて子供心に家族の愛情を感じたものである。一昔前はマンションで小さな鯉のぼりをベランダで泳がせている家もあったが、今でも鯉のぼりを泳がせている家庭がどれだけ存在するのであろうか。
鯉のぼりは、男の子にたくましく育ってほしいと願う家族の気持ちを、言葉を交わさずに子供に伝える素晴らしい風習であったと思うのだが、今では観光施設や商業施設、幼稚園などでしか見れなくなってしまっているのはちょっと淋しいものがある。
**************************************************************

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
  ↓ ↓ ↓      
にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ
にほんブログ村
 


このエントリーをはてなブックマークに追加





4月1日から、このブログで書いてきた記事の一部を書きまとめた新著が発売されています。
内容について簡単にコメントすると、大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。

無名のライターゆえ、一般書店ではあまり置いて頂いていません。
アマゾンにも2件書評が入っていますが、4/25に「るびりん書林」さんからも書評を頂きました。ご購入検討の際の参考にしてください。
https://rubyring-books.site/2019/04/25/post-1099/

また『美風庵だより 幻の花散りぬ一輪冬日の中』となりいうブログでも採り上げていただきました。
https://bifum.hatenadiary.jp/entry/20190426/1556208000

おかげさまでこの本は売れており、先日に増刷されてようやく入手困難な状況が解消しました。本の注文をされた方には、長い間ご迷惑をおかけしてして申し訳ございませんでした。これからは、店頭在庫のない一般店舗でもネットショップでも、取り寄せして頂ければ必ず手に入りますので、よろしくお願いいたします。

アマゾン
大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか

楽天ブックス
大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか [ しばやん ]

Yahoo! bookfanプレミアム
https://store.shopping.yahoo.co.jp/bookfan/bk-4286201937.html?sc_i=shp_pc_search_itemlist_shsrg_title_blbl

紀伊国屋書店ウェブストア
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784286201931

honto ハイブリッド型総合書店
https://honto.jp/netstore/pd-book_29575447.html

セブンネットショッピング
https://7net.omni7.jp/detail/1106974265



【ご参考】
このブログの直近3日間におけるページ別ユニークページビューランキング(ベスト10)
関連記事
正法寺黒石寺福泉寺後藤新平遠野南部曲がり家
  • B!

3Comments

ユーアイネットショップ店長うちまる  

置手紙ができなくなったのは残念ですが
歴史が好きなので読んでいます。
これからも頑張ってください。

2019/05/13 (Mon) 06:36 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: タイトルなし

いつも読んで頂きありがとうございます。
SSL化しないとGoogleの検索で低い評価となり、今年に入ってからは特に検索サイトからのアクセスが激減していましたので、決断しました。

おき手紙は使えなくなりましたが、今後とも覗いて頂けると嬉しいです。
こちらも、時々覗かせていただきます。

2019/05/13 (Mon) 07:27 | EDIT | REPLY |   

-  

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

2019/05/13 (Mon) 09:06 | EDIT | REPLY |   

Add your comment