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桜の咲く時期に盛岡を訪ねて~~報恩寺、石割桜、盛岡城跡、盛岡八幡宮、らかん公園

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Category岩手県
岩手旅行の三日目は盛岡に向かった。
最初の目的地は報恩寺(盛岡市那須川町31-5)である。

報恩寺山門

報恩寺は応永元年(1394年)に南部家13代の南部守行が、父親を含む先祖の菩提を弔うために現在の青森県三戸(さんのへ)町に開基したと伝えられるが、慶長六年(1601年)に南部氏の本拠が盛岡に移ることとなり、同年に報恩寺も三戸から現在地に移されたとのことである。
上の画像は昭和五十三年(1978年)に建てられた山門だが、非常に立派なものである。

報恩寺羅漢堂

この寺は盛岡五山に数えられた名刹で、本堂脇にある羅漢(上画像:盛岡市指定有形文化財)が特に名高い。羅漢堂の拝観は本堂に受付がある。

報恩寺羅漢堂廬舎那仏

羅漢堂内部に入ると中央に廬舎那仏が立ち、その両側には釈尊の十大弟子像と十六羅漢像が立っている。そしてその周囲の壇上に、五百羅漢像が所狭しと並べられている。自由に撮影が許されていることも有難い。

報恩寺五百羅漢

五百羅漢像は享保年間(1716~1736年)に九人の仏師により京都で制作された搬送されてきたものだそうだが、それぞれの羅漢像の表情が異なり、瞑想している羅漢もあれば、笑っている者、怒っている者、私語をしている羅漢もありさまざまで、観ていて飽きることがない。

報恩寺のあとは盛岡城跡の近くの駐車場に車を駐めて、歩いて石割桜に向かった。

石割櫻

国の天然記念物に指定されている石割桜は盛岡地方裁判所の敷地内にある。この敷地は盛岡藩の家老であった北家の屋敷があった場所で、庭石の割れ目に桜の種が飛んできて芽を出し、桜の成長と共に石の割れ目を押し広げていったと言われているが、実際に見てみると、想像していた以上に大きな石が、見事に真っ二つに割れているのには驚いた。

櫻山神社

石割桜から櫻山神社に向かう

櫻山神社の境内は江戸時代に藩の勘定所があったところでもとは盛岡城内に存在し、明治維新後に妙泉寺山、さらに北山へと移され、明治三十三年(1900年)に現在地に移ったものである。

櫻山神社 烏帽子岩

本殿の横にある巨石は烏帽子岩(えぼしいわ)で、盛岡城築城時にこの岩が出現し、当時の藩主南部利直公はこの岩を瑞兆と慶び、以来歴代の森岡藩主がこの石を「宝大石」として大切にし、現在も盛岡市民のお守り岩として親しまれているという。

盛岡城跡1

櫻山神社の後方が国史跡の盛岡城跡である。この地に城を構えた南部氏は、戦国時代は青森県の三戸(さんのへ)を居城としていたが、天正十六年(1588年)に南部信直は斯波氏を滅ぼし、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉から南部七郡の領有を認められ、領内のほぼ中央に当たる不来方(こずかた)の地に居城の移転を決定し、慶長三年(1598年)に正式許可を得て築城工事が本格的に開始された。

盛岡城跡2

当初は「不来方城」と称したが、不来方という地名を「盛上がり栄える岡」の意味で盛岡とし、城の名前を「盛岡城」に改めたという。以来盛岡は江戸時代を通じて盛岡藩の中心として栄え、現在に至っている。
明治の廃藩置県の後、この城は陸軍省の所管となり、明治七年には城内の建物はほとんどが取り壊され、部材が民間に払い下げられてしまった。

盛岡城跡3

その後、城跡は公園として整備され、平成十八年(2006年)には日本百名城、日本の歴史公園百選にも選定されているが、現状は石垣が残されているだけである。しかしながら盛岡市では、この城の建物復元を目指しており、現在古写真や絵図を集めているところだという。
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/midori/koen/1010484.html
いつ頃完成するかは見当もつかないが、復元された姿を見たいものである。

岩手銀行赤レンガ館

盛岡城跡の近くに岩手銀行赤レンガ館があるので立ち寄った。
この建物の設計者は日本銀行本店などを手がけた辰野金吾博士と盛岡出身の葛西萬司工学士の両名で、旧盛岡銀行の本店行舎として明治四十四年四月に竣工され、平成六年(1994年)には国の重要文化財に指定されている。

岩手銀行内部

盛岡銀行は昭和二年(1927年)の金融恐慌をへて現在の岩手銀行となり、この建物はその本店本館として利用されてきたが、昭和五十八年に本店の新社屋が完成し、しばらく営業店舗として用いられてきた。しかし平成二十四年(2012年)に店舗としての営業を終了し、平成二十八年(2016年)から一般公開が始まったという。中に入ると思った以上に広く、内装も素晴らしい。

岩手銀行手摺

1階から2階に上がる階段の柱や手摺はすべてケヤキの木で作られていて、彫刻がまた素晴らしい。時間がなかったので2階には登らなかったが、ちょっぴりレトロな気分が味わえて居心地が良かった。

盛岡八幡宮

駐車場に戻って、次の目的地である盛岡八幡宮(盛岡市八幡町13-1)に向かう。
この神社は延宝八年(1680年)に第二十九代南部重房公によって建立されたが、明治十七年(1884)の盛岡大火などの災害や風雪被害により何度か社殿が再建されており、現在の社殿は平成9年(1997年)に新八幡宮として建て直されたものである。
上の画像はその拝殿である。

米内光政銅像

境内に盛岡市出身の米内光政の銅像があった。
米内は昭和十二年(1937年)以降林内閣、第一次近衛内閣、平沼内閣で海軍大臣を務めた後、昭和十五年(1940年)に第三十七代内閣総理大臣に就任した。しかし米内は陸軍の要求する日独伊三国同盟の締結を拒否したために陸軍は畑陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍にせよ海軍にせよ、大臣を引き上げれば内閣が倒れる世界であった。
その後昭和十九年(1944年)以降再び海軍大臣に就任し、広島・長崎の原爆投下以降はポツダム宣言受諾による戦争終結を主張した。
銅像の下には、小泉信三が米内をこう評している。
「…太平洋戦争の終局に際し、米内海軍大臣が一貫不動、平和の聖断を奉じて克くわが国土と生民をその壊滅寸前に護ったことは日本国民の忘れてはならぬところである。」

らかん公園

盛岡八幡宮から南に歩くと、らかん公園という公園がある。この公園には、特異な風貌を持った十六羅漢と五智如来の合計二十一体の石仏が並んでいる。これらは盛岡市の有形文化財に指定されているという。
この公園はかつて宗龍寺(そうりゅうじ)という寺があり、これらの石仏はその寺の境内にあったものである。

盛岡市のホームページにはこう解説されている。
江戸時代,盛岡藩の四大飢饉といわれる元禄・宝暦・天明・天保の大凶作によって,領内には多くの餓死者がでました。祗陀寺14世天然和尚は,その悲惨な餓死者を供養するために,十六羅漢と五智如来の合計21体の石仏建立を発願しました。そして領内から浄財の喜捨を募って,1837年(天保8年)工事に着手しました。
下絵は藩の御絵師狩野林泉が描き,石材は市内の飯岡山から切り出し,藩の御用職人の石工7人が3年かかって荒刻みを行い,北上川を舟で渡して,建設場所の祗陀寺末寺の宗龍寺境内に運び入れ.最後の仕上げをしたものといわれています。
こうして,起工から13年目の1849年(嘉永2年),発願した天然和尚の孫弟子にあたる長松寺13世泰恩和尚のときに,ようやく竣工しました。
しかし,宗龍寺は明治維新後に廃寺となり,1884年(明治17年)の大火で寺院も焼失しました。現在は21体の石仏群を残す,市の公園となっています
。」
http://www.city.morioka.iwate.jp/shisei/moriokagaido/rekishi/1009335/1009358/1009361.html

淡々と事実のみが書かれているが、元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は気候不順だけでなく農作物の病虫害のほか伝染病も発生して多くの死者が出た。上の解説に出てくる祗陀寺(ぎだじ)のホームページに、その惨状が詳しく書かれている。
飢饉のため農民は山菜を食べ、蕨の根を掘り、松の皮で餅をつくって食べ、犬猫はおろか牛馬を殺して食い、父は他領へ逃れ、母は子を殺して乞食となり、はては全く食い尽くして人肉までも求める餓鬼道に落ちた農民もあったと伝えられている。また随所に強盗放火事件が起こるなど、飢饉の年は人々を生きることに狂奔させ悲惨なものであった。そのときの状況は高山彦九郎の「北行日記」に詳しい。
盛岡城下とその周辺には、飢饉餓死者の供養塔が沢山ある。村を捨て、糧を求め、経済的に安定する都市部に手間取り職を求め、城下筋に飢人の列がゾロゾロ押し寄せたのであった。城下の庶民層も同様に生活は楽ではなかった。しかし餓死者の大多数は農民であった
城下の社寺の救恤、施粥施行が行なわれた。城下寺院の享保期の一字一石供養塔、報恩寺五百羅漢の存在は決して飢饉犠牲者の供養施行に無縁ではない。宗龍寺十六羅漢五智如来大石像の建立は飢饉供養であることは、その銘文によって明らかである。」
http://www.gidaji.net/16/03.html

例えば元禄年間(1688~1704年)の間は凶作・不作が頻発し、特に元禄八年(1695年)と十五年(1702年)は大凶作で、盛岡藩でそれぞれ数万人の餓死者が出たと言われている。元禄八年は冷夏で収穫は平均収量の三割しかなく、米価は高騰し、飢餓人が城下に溢れ、餓死者を埋葬する人もなく、犬鳥の餌食となった記録もあるようだ。
朝一番に訪れた報恩寺の五百羅漢像が造られたのも、このような飢饉で餓死した人々の供養のためではなかったかと祗陀寺(ぎだじ)のホームページに書かれていることを読んで考え込んでしまった。確かに報恩寺の五百羅漢が造られたのは享保年間(1716~1736年)で元禄十五年の大凶作の記憶が鮮明に残っていた時代なのである。餓死した多くの人々が安らかに眠ってほしいとの願いや、あんな悲惨なことが二度と起こらないようにとの思いが、あの羅漢像に込められていたことにまでは考えが到らなかった。

日本は飢餓を永年経験していないのだが、異常気象が大凶作の原因となる場合は世界の多くの国々が同時に飢餓に巻き込まれることになるだろう。もし世界的規模で食糧不足が起こった時に、それぞれの国は自国民のための穀物確保を優先することは確実なのだが、わが国の現状の食料自給率はカロリーベースで38%程度に過ぎず、大量の食糧を海外に求めるしかないことになる。

ところがわが国の農業生産者の多くは高齢者であり、今後も農業従事者が減っていく可能性が高い。有り余る農業適地を持ちながら永年農業を軽視してきたわが国が、自国民の食糧を確保するために世界の市場から穀類を買い集めようとすれば、価格が高騰して世界中から非難されることになるだろう。金を出しても穀物が手に入らないということもありうるのではないか。にもかかわらずわが国では外国人労働者を増やそうとしているのだが、もし食糧不足となれば、都市部を中心に外国人をも巻き込む大規模な暴動が起きてもおかしくないのではないか。

自国民の食糧を他国に依存しすぎることは非常に危険なことなのだが、その怖さがわが国では忘れ去られている。もし読者の皆さんが盛岡へ旅行に行くことがあれば、飢餓で亡くなった人々の菩提を弔うために造られた報恩寺の五百羅漢、あるいはらかん公園の羅漢像を旅程に入れていただき、人々が大凶作で苦しんだ時代があったことを考えるよすがにしていただければと思う。
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