日露戦争の巨額の戦費を外債発行で調達した明治政府と高橋是清の苦労
Category北清事変から日露戦争
帝国書院のホームページに、戦争別戦費の一覧表が出ている。日清戦争の戦費は2.3億円であったが、日露戦争では18.3億円もかかっている。
https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index06.html

【戦争別経費:帝国書院HPより】
もっとも、戦費がいくら必要かは戦争が終結するまではわかるものではないのだが、日露戦争当時の明治政府の歳入規模を調べると、明治三十七年(1904)の数字は3.3億円であった。菊池寛の『大衆明治史』によると、開戦と同時に当時の大蔵省はとりあえず3億円程度の戦費予算を計上したそうだが、その調達方法については全く成案を持っていなかったという。
しかしながら2月8日の旅順口攻撃を皮切りに戦争は既に始まっている。早急に資金調達の目処をつけておかなければ戦いを継続することすら出来なくなってしまう。増税したところで税収の大幅な増加は見込めるものではないし、また多くの武器弾薬を外国から買わねばならず、そのためには大量の外貨が必要になる。廟議で戦費調達を外債募集で臨むことが決定されたのだが、戦争に勝つか負けるかわからない国の国債を買う投資家を探すことは容易なことではないことは誰でもわかる。

【高橋是清】
その難しい交渉の大任を委嘱されたのが、時の日銀総裁であった高橋是清であった。高橋に白羽の矢が立ったのは、外国滞在年数が長く、外国の財界人に旧知が多かった点にある。
高橋は一億円の外貨調達を申し渡されていたのだが、政府からは「この戦費は一年と積ってあるが、これは朝鮮から露軍を一掃するだけの目的で、もし戦争が鴨緑江の外に続くようであったら、さらに戦費は追加せねばならぬ」とも言われていた。戦争というものは、日本が途中でやめたくても、相手が戦うことを続ける限り終わることはありえず、戦費支出が続くことになるのだ。
高橋は二月二十四日に横浜を出発し、まずニューヨークに向かったのだが、アメリカは自国産業発達の為に外国資本を誘致せねばならない状況にあり、日本外債の発行は困難な状況にあると判断した。
アメリカを諦めて次に高橋は大西洋を渡ってイギリスのロンドンに向かい、まずロスチャイルド家やカッセル、香港上海銀行、バース銀行などと交渉している。当時は日英同盟が成立してまだ日が浅く、対日態度は友好的ではあったが、戦争でどちらが勝利するか見通しの立たない状況で、黄色人種の国である日本の巨額の公債引き受けとなると二の足を踏む投資家が多く、なかなか話が具体的に進行しなかったという。
菊池寛の前掲書にはこう記されている。
「注意すべきは、公債を引受けるといっても、英国の銀行業者が全部金を出すというわけではないのである。ロスチャイルドやカッセルは、巨額の資産を以て鳴る金融業者ではあるが、その資金を外国債に固定してしまうほど余裕があるわけではなかった。要するに、ロスチャイルドなりカッセルというものが公債引受人となって、その信用でもって、一般の投資界から資金を吸い上げるのである。
だから、どうしても金融業ばかりでなく、一般の投資家の意向なり機運というものも無視できないのである。」(『大衆明治史 下巻』p.205-206)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/106
高橋是清には一千万ポンド(約一億円)の外債発行の話をまとめることが求められていたのだが、四月二十日頃にようやく、関税収入を担保として外債五百万ポンドを発行する仮契約ができた。しかしながら年内にあと五百万ポンドの発行がどうしても必要だったのである。

【ジェイコブ・ヘンリー・シフ】
そんな高橋に、思いがけない幸運が転がり込んできた。なんと残額の五百万ポンド全額を引き受けるという人物が現れたのである。
その人物の名前はアメリカのジェイコブ・ヘンリー・シフというユダヤ人である。たまたまヨーロッパ旅行の途中で英国に立ち寄り、高橋の旧友が主催した晩餐会に参加し、偶然高橋の隣に座っていたという。会の席上で高橋は、隣のシフに対して五百万ポンドの仮契約が出来たがあと五百万ポンドの募集が必要であることなどを話したようだが、その日はシフからは特別の話はなく別れたという。ところがその翌日にバース銀行の取締役が高橋の宿舎を訪ねて来て、昨日高橋の隣にいたシフという人物はバース銀行の取引先であるニューヨークの銀行(クーンローブ商会)の会長で、残りの五百万ポンドを自分で引受る意向があることを伝えに来たのである。高橋が驚喜したことは言うまでもない。
クーンローブ商会は、当時アメリカ財閥のモルガン商会と肩を並べるほどの勢力を占めていたそうだが、なぜシフは五百万ポンドの引き受けを申し出たのであろうか。
『高橋是清自伝』には次のように解説されている。
「ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシアにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、官公吏に採用せられざるはもちろん、国内の旅行すら自由に出来ず、圧政その極に達しておった。…
(中略)
…シフ氏のごとき正義の士は、ロシアの政治に対して大いに憤慨しておった。ことに同氏は米国にいるたくさんのユダヤ人の会長で、その貧民救済などには私財を惜しまず慈善する事を怠らなかった人であるから、日露の開戦とともに大いに考えるところがあったのは、さもあるべきことであると思う。そうしてこのシフ氏が一番に考えたことは、日露戦争の影響するところ、必ずやロシアの政治に一大変革が起こるに相違ないということであった。もちろん彼は、帝政を廃して共和制に移るというごとき革命を期待したわけではないが、政治のやり方の改良は、正にこの時において他にないと考えたのである。すなわちこの政治のやり方を改良することが、虐げられたるユダヤ人を、その惨憺たる現状から救い出すただ一つの途であると確信しておったのである。そこでできるなら日本に勝たせたい、よし最後の勝利を得る事が出来なくとも、この戦いが続いている間は、ロシアの内部が治まらなくなって、政変が起きる。少なくともその時までは戦争が続いてくれた方が良い。かつ日本の兵は非常に訓練が行き届いて強いということであるから、軍費にさえ行き詰まらなければ結局は日本の考え通り、ロシアの政治が改まって、ユダヤ人の同胞は、その虐政から救われるであろう、と、これすなわちシフ氏が日本公債を引受けるに至った真の動機であったのである。」(中公文庫『高橋是清自伝(下)』p.211-213)
そして日本公債の発行日が五月十一日と発表された。その少し前の五月一日に日本軍が鴨緑江の戦いで勝利していたことから、日本公債は予想以上の人気を呼び、応募が殺到したという。かくして一回目の外債発行は大成功のうちに終わったのだが、戦費はまだまだ必要であり、政府からは二度目の募集の催促が来ることとなる。政府は戦勝が続いているので強気であった。菊池寛の前掲書にはこう記されている。
「そのうちに九月四日に遼陽占領の快報が達した。それと同時に『遼陽に於て大勝利を得たから、この機会に第二回の募集を試みよ』
と電報が届いた。
ところがこの遼陽戦の報道が来ると、第一回に募集した六分利付公債が下落をはじめた。それは遼陽では日本が勝ってはいるが、ロシア側は戦略的の後退と称し、英国人の中にも『いよいよ持久戦になるが、こうなると小国の日本は結局持ち耐えられないだろう』という、一種の危惧の念の生じたためである。
そこへ第二回の募集督促である。これをやるとすれば、どうしても募集の条件は第一回より悪くなる。その胸を日本に具申すると
『それは怪しからぬ。五月の第一回の時でさえあの条件だから、連戦連勝の今日、もっと良い条件でやってもらわなくては困る』という返事であった。
それにこの頃から、出発前に高橋が憂えていたような情勢が出て来た。つまり、種々の金融ブローカーが直接日本政府に運動してうまい条件を以て要路の者に吹き込むのである。
それで高橋は実際の起債界の現状を電報で知らせせるのだが、それでも意志は充分に伝えられず、毎日毎日電報を打ってはクサっていた…」(『大衆明治史 下巻』p.213-214)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/110
クサりながらも高橋は、十一月十四日に第二回の公債千二百万ポンド(一億二千万円)の発行を決め、その後も苦労して外債発行に尽力している。
「その後、彼の力で成立している公債は、次の如くである。
明治三十八年三月二十八日成立、
第一回四分半利付英貨公債、三千万磅(ポンド)[三億円]
同年、七月十一日成立、
第二回四分半利付英貨公債、三千万磅[三億円]
同年十一月二十七日成立
四分利付英貨公債、二千五百万磅[二億五千万円]
明治三十九年三月十日成立
五分利付英貨公債二千三百万磅[二億三千万円]
以上を通算すると、戦時中の募集額が八千二百万磅(八億二千万円)になり、戦後の建設や戦費残額支払のため、戦後になって募集したのが四千八百万磅(四億八千万円)の巨額に達する。
勿論これだけの莫大なる公債が成立するには、御稜威(みいつ)の下わが派遣軍将兵の勇戦力闘によって常に連戦連勝による国威の興隆にも依るが、高橋是清等一行の心胆を砕いた努力によるところ大なるものがあると思う。」(同上書 p.215-216)
*御稜威:天皇や神の御威光
戦時中に募集した公債の利払いだけでも年間四千万円を超えており、これ以上戦争が長引かせては、わが国は非常な困難に陥ることが目に見えていた。わが国は外債発行で戦費を調達しながら戦争を継続することが危険なことであることは認知していたのだが、ロシアが降伏しない限り戦争を終わらせることができないのである。

【セオドア・ルーズベルト】
日本海海戦で勝利したタイミングで、わが国はアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼したのだが、講和会議でロシアは「いくつかの戦闘では敗れたが、ロシアはまだ負けたわけではない」との姿勢を崩さず、戦争賠償金には一切応じない姿勢を貫いた。確かに、あのまま戦争を継続して持久戦に持ち込まれれば、わが国は圧倒的に不利な状況に陥っていたことだろう。
ポーツマス講和条約により、わが国は満州南部の鉄道や領地の租借権、樺太の北緯50度以南の領土、大韓民国に対する排他的指導権などを獲得したが、日露戦争で費やした18.3億円を戦時賠償金で埋め合わせることは出来なかったのである。
戦時において二度にわたる増税が断行されていたのだが、日本国民の多くは、連戦連勝であったにもかかわらず賠償金を放棄して講和したことに憤慨して、日比谷焼打ち事件などの暴動が起こり、政府は戒厳令をしき軍隊まで出動する騒ぎとなった。
増税はその後も続き、明治三十八年(1905年)には相続税、小切手印紙税、織物消費税などが新設され、地租、所得税、酒税、印紙税などが増税され、その後も増税がなされている。
明治の人々はこれらの大きな負担に堪えてきたことを忘れてはならない。
一方、ジェイコブ・ヘンリー・シフはその後どのような動きをしたのであろうか。Wikipediaによると、
「シフの帝政ロシア打倒工作は徹底しており、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資を拡大したにも拘らず、帝政ロシアへの資金提供は妨害した。1917年にレーニン、トロツキーに対してそれぞれ2,000万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。また、経営者一族がシフの縁戚となっていたファースト・ナショナル銀行ニューヨークは、ロックフェラーのチェース・マンハッタン、J・P・モルガン・アンド・カンパニーと協調して、ソビエトに対する融資を継続していた。」
とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%95
シフはロシア革命を支援する方向で、我が国に投資を多めに向けたということなのだろう。わが国の外債を一手に引き受けたのは、わが国にとっては有難かったことは間違いないが、シフがわが国に絶大な好意を持っていたから資金支援を得ることができたと考えることは、おそらく誤りなのだと思う。
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日露戦争後の財政の厳しい時期に神社合祀が行われ、神社の約三分の一が失われました。神社合祀の件は別のブログ『歴史逍遥 しばやんの日々』で書いていますので、興味のある方は覗いて見て下さい。
https://shibayan1954.com/category/history/meiji/jinja-goushi/
4月1日から、このブログで書いてきた記事の一部を書きまとめた新著が発売されています。
内容について簡単にコメントすると、大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。
無名のライターゆえ、一般書店ではあまり置いて頂いていません。
アマゾンにも2件書評が入っていますが、4/25に「るびりん書林」さんからも書評を頂きました。ご購入検討の際の参考にしてください。
https://rubyring-books.site/2019/04/25/post-1099/
また『美風庵だより 幻の花散りぬ一輪冬日の中』となりいうブログでも採り上げていただきました。
https://bifum.hatenadiary.jp/entry/20190426/1556208000
おかげさまでこの本は売れており、先日に増刷されてようやく入手困難な状況が解消しました。本の注文をされた方には、長い間ご迷惑をおかけしてして申し訳ございませんでした。これからは、店頭在庫のない一般店舗でもネットショップでも、取り寄せして頂ければ必ず手に入りますので、よろしくお願いいたします。。
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【戦争別経費:帝国書院HPより】
もっとも、戦費がいくら必要かは戦争が終結するまではわかるものではないのだが、日露戦争当時の明治政府の歳入規模を調べると、明治三十七年(1904)の数字は3.3億円であった。菊池寛の『大衆明治史』によると、開戦と同時に当時の大蔵省はとりあえず3億円程度の戦費予算を計上したそうだが、その調達方法については全く成案を持っていなかったという。
しかしながら2月8日の旅順口攻撃を皮切りに戦争は既に始まっている。早急に資金調達の目処をつけておかなければ戦いを継続することすら出来なくなってしまう。増税したところで税収の大幅な増加は見込めるものではないし、また多くの武器弾薬を外国から買わねばならず、そのためには大量の外貨が必要になる。廟議で戦費調達を外債募集で臨むことが決定されたのだが、戦争に勝つか負けるかわからない国の国債を買う投資家を探すことは容易なことではないことは誰でもわかる。

【高橋是清】
その難しい交渉の大任を委嘱されたのが、時の日銀総裁であった高橋是清であった。高橋に白羽の矢が立ったのは、外国滞在年数が長く、外国の財界人に旧知が多かった点にある。
高橋は一億円の外貨調達を申し渡されていたのだが、政府からは「この戦費は一年と積ってあるが、これは朝鮮から露軍を一掃するだけの目的で、もし戦争が鴨緑江の外に続くようであったら、さらに戦費は追加せねばならぬ」とも言われていた。戦争というものは、日本が途中でやめたくても、相手が戦うことを続ける限り終わることはありえず、戦費支出が続くことになるのだ。
高橋は二月二十四日に横浜を出発し、まずニューヨークに向かったのだが、アメリカは自国産業発達の為に外国資本を誘致せねばならない状況にあり、日本外債の発行は困難な状況にあると判断した。
アメリカを諦めて次に高橋は大西洋を渡ってイギリスのロンドンに向かい、まずロスチャイルド家やカッセル、香港上海銀行、バース銀行などと交渉している。当時は日英同盟が成立してまだ日が浅く、対日態度は友好的ではあったが、戦争でどちらが勝利するか見通しの立たない状況で、黄色人種の国である日本の巨額の公債引き受けとなると二の足を踏む投資家が多く、なかなか話が具体的に進行しなかったという。
菊池寛の前掲書にはこう記されている。
「注意すべきは、公債を引受けるといっても、英国の銀行業者が全部金を出すというわけではないのである。ロスチャイルドやカッセルは、巨額の資産を以て鳴る金融業者ではあるが、その資金を外国債に固定してしまうほど余裕があるわけではなかった。要するに、ロスチャイルドなりカッセルというものが公債引受人となって、その信用でもって、一般の投資界から資金を吸い上げるのである。
だから、どうしても金融業ばかりでなく、一般の投資家の意向なり機運というものも無視できないのである。」(『大衆明治史 下巻』p.205-206)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/106
高橋是清には一千万ポンド(約一億円)の外債発行の話をまとめることが求められていたのだが、四月二十日頃にようやく、関税収入を担保として外債五百万ポンドを発行する仮契約ができた。しかしながら年内にあと五百万ポンドの発行がどうしても必要だったのである。

【ジェイコブ・ヘンリー・シフ】
そんな高橋に、思いがけない幸運が転がり込んできた。なんと残額の五百万ポンド全額を引き受けるという人物が現れたのである。
その人物の名前はアメリカのジェイコブ・ヘンリー・シフというユダヤ人である。たまたまヨーロッパ旅行の途中で英国に立ち寄り、高橋の旧友が主催した晩餐会に参加し、偶然高橋の隣に座っていたという。会の席上で高橋は、隣のシフに対して五百万ポンドの仮契約が出来たがあと五百万ポンドの募集が必要であることなどを話したようだが、その日はシフからは特別の話はなく別れたという。ところがその翌日にバース銀行の取締役が高橋の宿舎を訪ねて来て、昨日高橋の隣にいたシフという人物はバース銀行の取引先であるニューヨークの銀行(クーンローブ商会)の会長で、残りの五百万ポンドを自分で引受る意向があることを伝えに来たのである。高橋が驚喜したことは言うまでもない。
クーンローブ商会は、当時アメリカ財閥のモルガン商会と肩を並べるほどの勢力を占めていたそうだが、なぜシフは五百万ポンドの引き受けを申し出たのであろうか。
『高橋是清自伝』には次のように解説されている。
「ロシヤ帝政時代ことに日露戦争前には、ロシアにおけるユダヤ人は、甚だしき虐待を受け、官公吏に採用せられざるはもちろん、国内の旅行すら自由に出来ず、圧政その極に達しておった。…
(中略)
…シフ氏のごとき正義の士は、ロシアの政治に対して大いに憤慨しておった。ことに同氏は米国にいるたくさんのユダヤ人の会長で、その貧民救済などには私財を惜しまず慈善する事を怠らなかった人であるから、日露の開戦とともに大いに考えるところがあったのは、さもあるべきことであると思う。そうしてこのシフ氏が一番に考えたことは、日露戦争の影響するところ、必ずやロシアの政治に一大変革が起こるに相違ないということであった。もちろん彼は、帝政を廃して共和制に移るというごとき革命を期待したわけではないが、政治のやり方の改良は、正にこの時において他にないと考えたのである。すなわちこの政治のやり方を改良することが、虐げられたるユダヤ人を、その惨憺たる現状から救い出すただ一つの途であると確信しておったのである。そこでできるなら日本に勝たせたい、よし最後の勝利を得る事が出来なくとも、この戦いが続いている間は、ロシアの内部が治まらなくなって、政変が起きる。少なくともその時までは戦争が続いてくれた方が良い。かつ日本の兵は非常に訓練が行き届いて強いということであるから、軍費にさえ行き詰まらなければ結局は日本の考え通り、ロシアの政治が改まって、ユダヤ人の同胞は、その虐政から救われるであろう、と、これすなわちシフ氏が日本公債を引受けるに至った真の動機であったのである。」(中公文庫『高橋是清自伝(下)』p.211-213)
そして日本公債の発行日が五月十一日と発表された。その少し前の五月一日に日本軍が鴨緑江の戦いで勝利していたことから、日本公債は予想以上の人気を呼び、応募が殺到したという。かくして一回目の外債発行は大成功のうちに終わったのだが、戦費はまだまだ必要であり、政府からは二度目の募集の催促が来ることとなる。政府は戦勝が続いているので強気であった。菊池寛の前掲書にはこう記されている。
「そのうちに九月四日に遼陽占領の快報が達した。それと同時に『遼陽に於て大勝利を得たから、この機会に第二回の募集を試みよ』
と電報が届いた。
ところがこの遼陽戦の報道が来ると、第一回に募集した六分利付公債が下落をはじめた。それは遼陽では日本が勝ってはいるが、ロシア側は戦略的の後退と称し、英国人の中にも『いよいよ持久戦になるが、こうなると小国の日本は結局持ち耐えられないだろう』という、一種の危惧の念の生じたためである。
そこへ第二回の募集督促である。これをやるとすれば、どうしても募集の条件は第一回より悪くなる。その胸を日本に具申すると
『それは怪しからぬ。五月の第一回の時でさえあの条件だから、連戦連勝の今日、もっと良い条件でやってもらわなくては困る』という返事であった。
それにこの頃から、出発前に高橋が憂えていたような情勢が出て来た。つまり、種々の金融ブローカーが直接日本政府に運動してうまい条件を以て要路の者に吹き込むのである。
それで高橋は実際の起債界の現状を電報で知らせせるのだが、それでも意志は充分に伝えられず、毎日毎日電報を打ってはクサっていた…」(『大衆明治史 下巻』p.213-214)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041878/110
クサりながらも高橋は、十一月十四日に第二回の公債千二百万ポンド(一億二千万円)の発行を決め、その後も苦労して外債発行に尽力している。
「その後、彼の力で成立している公債は、次の如くである。
明治三十八年三月二十八日成立、
第一回四分半利付英貨公債、三千万磅(ポンド)[三億円]
同年、七月十一日成立、
第二回四分半利付英貨公債、三千万磅[三億円]
同年十一月二十七日成立
四分利付英貨公債、二千五百万磅[二億五千万円]
明治三十九年三月十日成立
五分利付英貨公債二千三百万磅[二億三千万円]
以上を通算すると、戦時中の募集額が八千二百万磅(八億二千万円)になり、戦後の建設や戦費残額支払のため、戦後になって募集したのが四千八百万磅(四億八千万円)の巨額に達する。
勿論これだけの莫大なる公債が成立するには、御稜威(みいつ)の下わが派遣軍将兵の勇戦力闘によって常に連戦連勝による国威の興隆にも依るが、高橋是清等一行の心胆を砕いた努力によるところ大なるものがあると思う。」(同上書 p.215-216)
*御稜威:天皇や神の御威光
戦時中に募集した公債の利払いだけでも年間四千万円を超えており、これ以上戦争が長引かせては、わが国は非常な困難に陥ることが目に見えていた。わが国は外債発行で戦費を調達しながら戦争を継続することが危険なことであることは認知していたのだが、ロシアが降伏しない限り戦争を終わらせることができないのである。

【セオドア・ルーズベルト】
日本海海戦で勝利したタイミングで、わが国はアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼したのだが、講和会議でロシアは「いくつかの戦闘では敗れたが、ロシアはまだ負けたわけではない」との姿勢を崩さず、戦争賠償金には一切応じない姿勢を貫いた。確かに、あのまま戦争を継続して持久戦に持ち込まれれば、わが国は圧倒的に不利な状況に陥っていたことだろう。
ポーツマス講和条約により、わが国は満州南部の鉄道や領地の租借権、樺太の北緯50度以南の領土、大韓民国に対する排他的指導権などを獲得したが、日露戦争で費やした18.3億円を戦時賠償金で埋め合わせることは出来なかったのである。
戦時において二度にわたる増税が断行されていたのだが、日本国民の多くは、連戦連勝であったにもかかわらず賠償金を放棄して講和したことに憤慨して、日比谷焼打ち事件などの暴動が起こり、政府は戒厳令をしき軍隊まで出動する騒ぎとなった。
増税はその後も続き、明治三十八年(1905年)には相続税、小切手印紙税、織物消費税などが新設され、地租、所得税、酒税、印紙税などが増税され、その後も増税がなされている。
明治の人々はこれらの大きな負担に堪えてきたことを忘れてはならない。
一方、ジェイコブ・ヘンリー・シフはその後どのような動きをしたのであろうか。Wikipediaによると、
「シフの帝政ロシア打倒工作は徹底しており、第一次世界大戦の前後を通じて世界のほとんどの国々に融資を拡大したにも拘らず、帝政ロシアへの資金提供は妨害した。1917年にレーニン、トロツキーに対してそれぞれ2,000万ドルの資金を提供してロシア革命を支援した。また、経営者一族がシフの縁戚となっていたファースト・ナショナル銀行ニューヨークは、ロックフェラーのチェース・マンハッタン、J・P・モルガン・アンド・カンパニーと協調して、ソビエトに対する融資を継続していた。」
とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%95
シフはロシア革命を支援する方向で、我が国に投資を多めに向けたということなのだろう。わが国の外債を一手に引き受けたのは、わが国にとっては有難かったことは間違いないが、シフがわが国に絶大な好意を持っていたから資金支援を得ることができたと考えることは、おそらく誤りなのだと思う。
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日露戦争の巨額の戦費を外債発行で調達した明治政府と高橋是清の苦労 2019/05/30
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