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岸和田城周辺散策とだんじり祭り

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Category大阪府
久しぶりに岸和田に行ってきた。

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上の画像は大阪府史跡の岸和田城跡(岸和田市岸城(きしき)町9-1)。

岸和田城は、秀吉の紀州攻めの拠点とするために急ごしらえで築城されたが、その後城主となった小出秀政が慶長二年(1597年)に五層の天守閣を建てている。しかしながら文政十年(1827年)に落雷のため焼失してしまい、以降再建されないまま、明治四年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却されてしまった。現在の建物は昭和二十九年(1954年)に建てられた鉄筋コンクリート三階の建物で、内部は市立岸和田城の歴史紹介や所蔵物の展示などが行われている。

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上の画像は建物の三階からの景色だが、岸和田城の庭園は重盛三玲氏によって作庭された「八陣の庭」で、平成二十六年(2014年)に国の名勝に指定されている。

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城跡の南側には旧寺田財閥の当主家別邸として建設された五風荘(ごふうそう:岸和田市岸城町18-1)がある。敷地は三千坪もあり、現在は岸和田市の所有となっている。

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五風荘の建物の大半は岸和田市の有形文化財。庭は回遊式の日本庭園で岸和田市の指定名勝である。

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こんな素晴らしい庭を鑑賞しながら割安な価格でゆったりと食事を楽しむことが出来るのはありがたい。指定管理者が四月から岸和田グランドホールに変わったばかりで、今年の八月まではクーポン利用でランチも500円引きで楽しむことが出来る。もし、岸和田で食事場所を探しておられる方がおられたら、できれば早く予約されることをお勧めしたい。
https://gofuso.jp/

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城跡の東側には岸城神社(岸和田市岸城町11-30)がある。
この神社は正平十七年(1362年)に京都の祇園社(現、八坂神社)を勧請したのが始まりといわれ、昔は牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)という社名であったという。しかしながら明治維新の神仏分離によって、牛頭天王を祀っていた祇園社、天王社はスサノオを祭神とする神社とすることが強制され、名前も今の名前に変更された経緯にある。
そしてこの神社の例大祭が、今や全国的に有名になっている岸和田だんじり祭りなのである。今年のスケジュールは次のURLに出ている。
https://www.kishikijinja.jp/festival.html

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岸和田城跡の南西方向に岸和田だんじり会館(岸和田市本町11-23)がある。
ここには古いだんじりや資料などの展示があり、大型マルチビジョンや3Dでだんじりが勢いよく街角をかけめぐる迫力満点の映像を楽しめるコーナーや、太鼓をたたいたり、だんじりの屋根の上に上って飛び跳ねる大工方の気分を味わえるコーナーなどいろいろ楽しめる。

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上の画像は江戸時代の文化・文政期(1804~29年)に五軒家町のだんじりとして製作されたもので、現存では最古のものだそうだ。

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200年以上制作したものとは思えないほど、彫刻の繊細さは今も失われていない。だんじり祭りは、曳行を見る楽しみだけではなく、だんじりの彫刻を鑑賞することもまた楽しみの一つである。

毎年九月に岸和田城下及びその周辺で行われる岸和田のだんじり祭りの歴史について、岸和田市のホームページにはこう記されている。
元禄16年(1703年)、時の岸和田藩主岡部長泰(おかべながやす)公が、京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、米や麦、豆、あわやひえなどの5つの穀物がたくさん取れるように(五穀豊穣)祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられています
 当初の祭礼は、「にわか」や狂言などの芸事を演じ、その後に三の丸神社、岸城神社へ参拝したようである。」
https://www.city.kishiwada.osaka.jp/site/danjiri/rekishi.html

五穀豊穣を祈願する祭であったということは、昔は行われていた時期が違ったことを意味している。Wikipediaによると、
「1745年(延享2年)に、北町の茶屋新右衛門が大坂の祭を見聞し、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ:現・岸城神社)の祭(旧暦6月13日)に献灯提灯を掲げたいと藩主に願い出て許可されたのが始まりである。また、1703年(元禄16年)、当時の岸和田藩主であった岡部長泰が伏見稲荷大社を岸和田城三の丸に勧請し(→三の丸神社)、五穀豊穣を祈願して行った稲荷祭を始まりとする説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E5%92%8C%E7%94%B0%E3%81%A0%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%8A%E7%A5%AD

となると、当初は旧暦の6月13日(新暦だと7月中~下旬)に行われていたとことになるのだが、岸城神社のホームページによるとまた違うことが書かれている。北町の茶屋新右衛門が門前に御神燈を掲げる事を藩に願い出たところは同じなのだが、
同年8月の八幡社の神事に際しては、藩主から大幟4本と紋入りの小幟20本、さらに枠入りの太鼓台を賜りました。
この太鼓台には紅色の投頭巾に采配を持った子供たちが乗り込み、 チョーサヤの掛声を囃しながら城下・城内を練り廻りました。」とあり、その翌年からだんじりが現れたと記されている。
『ダンジリ』の初見は、翌年の延享3年(1746)8月
町方の五町が作り物を載せた軽い引き檀尻を出し、以後、村方と浜方も檀尻を出すようになりました。
この頃の檀尻は現在のダンジリのように様式が統一されたものではなく、人形などを載せた小型の『引檀尻』や『担檀尻』であり、獅子舞が出る年もありました。」とある。
https://www.kishikijinja.jp/festival.html

旧暦の8月ということは今の時期とほぼ同じで、旧暦の6月か8月かどちらが正しいのかと気になったのだが、岸城神社の由来を知って納得した。同神社のホームページによると
岸城神社の境内地は当時の岸和田城主、小出秀政によって隣邑に鎮座していた牛頭天王と、岸和田城築造以前に当地で祀られていた天照大神と八幡神が併せられ成立しました
その後、天照大神は、天照太神小社として別の境内(後の神明門付近)に祀られ、牛頭天王と八幡神とは同境内に祀られて御宮と呼ばれておりました。また同境内には宮寺・日光寺が置かれていました
しかし慶応四年に出された神仏判然令に伴い、宮寺・日光寺は廃寺となり、牛頭天王社と八幡社を合祀し、岸城神社と改称されました。 この頃、それまで神明門にあった神明社は岸城神社境内へと移され、現在に至ります。」
https://www.kishikijinja.jp/about.html

牛頭天王社と八幡社の祭日は別の日であったのである。Wikipediaによると、
だんじりは牛頭天王社の祭(旧暦6月13日)と八幡社の祭(旧暦8月13日)の両日で曳かれていたが、後者の日程に一本化された経緯がある。明治に入り、牛頭天王社と八幡社を合祀して岸城神社と改称し、1876年に新暦9月15日が例祭日になった」とあり、明治になる迄は年に二度行われていたのだが、明治に入って新暦が導入されて3年後に9月15日に実施することが決まったということである。
その後昭和41年(1966年)に9月15日が敬老の日で祝日となったので問題は起らなかったのだが、平成15年(2003年)にハッピーマンデー制度導入後に、祭日が平日となる場合に学生や会社員の曳き手不足問題が発生し、平成18年(2006年)からは敬老の日(9月第三月曜日)前日の日曜日に変更されており、今年は9月14日(土)が宵宮で、本宮は9月15日(日)である。

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上の画像はだんじりの通る紀州街道の街並みだが、地元の人々の努力の積み重ねがなければこの美しい景観は維持できないだろう。岸和田の中心部にはこのような古い街並みが各所で残されている。

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岸和田城近辺は「旧市」と呼ばれるが、「旧市」のだんじりの数は全部で22台あるのだという。ところが、だんじり会館のパネルによると岸和田市全体では81台ものだんじりがあるのだそうだ。「旧市」のだんじり祭りが有名になりすぎている気がするのだが、岸和田の山手の方では10月に各地でだんじり祭りが行われている。今年のスケジュールが岸和田市観光振興協会の『岸ぶら』に出ているが、今年は宵宮が10月12日(土)で本宮が13日(日)だという。
八木地区、南掃守地区、東岸和田地区、山直地区、山直南・山滝地区でそれぞれ別々で行われ、それぞれの見どころがまとめられている。だんじりの数では旧市よりも少なくなるが、旧市は観光客が多すぎて観るのに疲れてしまう。山手のだんじり祭りは観に行ったことがないので一度予定を立てて観に行きたい。
https://kishibura.jp/2016/09/09/kishiwada-10danjiri/index.html


だんじり祭りは岸和田だけでなく泉州の各地で行われている。上の動画は「撮りだん」さんが昨年の泉州地区(岸和田、貝塚、泉佐野、堺)のだんじり祭りのやりまわしを収録したものだが、だんじりの曳き手もだんじりに乗って笛を吹く者、屋根の上で華麗に舞う大工方がそれぞれとても良い表情であるのが印象的だ。みんなの息が合わないと事故につながりかねないようなスリリングさがあるからこそ、だんじりを曳く者も、乗る者も、観客もみんなが飽きずに楽しむことができる。

昔は、祭りや盆踊りなどを通じて地域の人々が世代を超えて楽しむ機会が何処にでも存在し、地域の様々な世代との交流を深めることができた。特に、祭りには、地域の人々の心を一つにする効果があると思うのだが、今では多くの地域で祭りに参加する人が集まらなくなっていて地域共同体という言葉が死語になりつつある。

愛する郷土のために参加できて、郷土のために老いも若きも一生懸命になれる祭りがある泉州の人々は本当に幸せだと思う。これからもこの祭りが若い世代に継承され、地域だけでなく世界の人々に愛されて、末永く続けられていくことを祈りたい。

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6月6日に案内させていただきましたが、今年新たにドメインを取得して、3月より新しいブログ『歴史逍遥「しばやんの日々」』をスタートさせており、6月以降は新ブログの内容の充実に時間をかけるようにしています。FC2ブログはこれからも続けますが、更新頻度が落ちる事をご理解下さい。

新ブログ 『歴史逍遥「しばやんの日々」』
https://shibayan1954.com/

新ブログでは、最近は「秀吉の紀州攻め」「GHQ焚書となった秀吉の伝記」等のテーマで連続記事を書いています。戦前に出版された少年少女向けの秀吉の伝記ですが、戦後になって、秀吉に関する情報の多くが封印されていることが分かります。
新ブログでは、日本の歴史を中心に週1~2回のペースで、記事を書いていますので、良かったら覗いて見て下さい。

また、4月1日から、このブログで書いてきた記事の一部を書きまとめた『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』が発売されています。
内容について簡単にコメントすると、大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。



この本はこれまでのブログ記事をベースに大幅に加除訂正したもので、戦後の歴史叙述ではタブーとされた来たテーマにも論拠を示して書いています。
目次を紹介させていただきます。

目次
序章  四百年以上前に南米やインドなどに渡った名もなき日本人たちのこと

第1章 鉄砲の量産に成功したわが国がなぜ刀剣の世界に戻ったのか
* 鉄砲伝来後、わが国は鉄砲にどう向き合ったか
* 世界最大の鉄砲保有国であったわが国がなぜ鉄砲を捨てたのか

第2章 キリスト教伝来後、わが国に何が起こったのか
* フランシスコ・ザビエルの来日
* フランシスコ・ザビエルの布教活動
* 最初のキリシタン大名・大村純忠の「排仏毀釈」
* イエズス会に政教の実権が握られた長崎
* 武器弾薬の輸入のためにキリスト教を厚遇した大友宗麟
* 宣教師たちは一般庶民の信者にも寺社や仏像の破壊を教唆した
* 武士たちにキリスト教が広まったことの影響
* 異教国の領土と富を奪い取り、異教徒を終身奴隷にする権利
* ポルトガル人による日本人奴隷売買はいかなるものであったのか
* スペインの世界侵略とインディオの悲劇
* スペイン・ポルトガルの世界侵略とローマ教皇教書が果たした役割
* 宣教師たちがシナの征服を優先すべきと考えた理由

第3章 キリスト教勢力と戦った秀吉とその死
* 秀吉のキリスト教布教許可と九州平定
* 秀吉によるイエズス会日本準管区長・コエリョへの質問
* 秀吉はなぜ伴天連追放令を出したのか
* 伴天連追放令後のイエズス会宣教師の戦略
* スペインに降伏勧告状を突き付けた秀吉
* 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
* サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件
* イエズス会とフランシスコ会の対立
* 秀吉の死後スペイン出身の宣教師が策定した日本征服計画
* 宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

第4章 徳川家康・秀忠・家光はキリスト教とどう向き合ったか
* 日本人奴隷の流出は徳川時代に入っても続いていた
* 家康がキリスト教を警戒し始めた経緯
* 家康の時代のキリスト教弾圧
* 大坂の陣で、多くのキリシタン武将が豊臣方に集まったのはなぜか
* 対外政策を一変させた秀忠
* 東南アジアでスペインに対抗しようとしたイギリス・オランダの戦略
* 幕府が取締り強化を図っても、キリスト教信者は増え続けた
* 家光がフィリピンのマニラ征伐を検討した背景
* 幕府はなぜキリスト教を禁止せざるを得なかったのか

第5章 島原の乱
* 島原の乱は経済闘争か、あるいは宗教戦争か
* 棄教した住民たちが、なぜ短期間にキリシタンに立ち帰ったのか
* 島原の乱の一揆勢は原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
* 島原の乱の一揆勢は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
* 島原の乱を幕府はどうやって終息させたのか
* 島原の乱の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル
* 島原の乱の前後で、幕府がオランダに強気で交渉できたのはなぜか

第6章 「鎖国」とは何であったのか?
* ポルトガルと断交した後になぜ海外貿易高は増加したのか
* シーボルトが記した「鎖国」の実態 

あとがき

書評についてはAmazonに2件出ています。
大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか

古書店のサイト「るびりん書林」さんからも書評を頂きました。ご購入検討の際の参考にしてください。
https://rubyring-books.site/2019/04/25/post-1099/

保守系ブログ「祖国創生」でも、記事の中で採り上げて頂きました。
https://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-date-20190421.html

また『美風庵だより 幻の花散りぬ一輪冬日の中』というブログでも採り上げて頂いています。
https://bifum.hatenadiary.jp/entry/20190426/1556208000

太平洋印刷株式会社のHPの中の「社長ブログ」で、私の著書を2回(4/24,4/25)にわたり話題にして頂きました。
http://busi-tem.sblo.jp/archives/201904-1.html

【ご参考】
このブログの直近3日間におけるページ別ユニークページビューランキング(ベスト10)


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