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高知県士族九名に襲われた岩倉具視はいかにして難を逃れることができたのか

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Category士族の行く末
以前このブログで征韓論争のことを書いた。当時の李氏朝鮮は「鎖国攘夷政策」をとっており、当時国王の生父大院君が実権を掌握していたのだが甚だしい欧米嫌いであり、先進文化の受容に努めていたわが国は欧米模倣であると罵られ「攘夷」の対象であった。
しかしながら国力に乏しく、このまま鎖国を続けていればいずれ朝鮮半島は欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立も脅かされることになってしまう。明治政府はなんとか開国させようとして、宗対馬守を派遣したのが、全く相手にされなかったという。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-161.html

明治6年(1873年)の6月12日の会議で朝鮮問題が議論され、板垣退助は出兵を主張し、西郷隆盛は軍隊は不要だが遣韓大使は自分にして欲しいと主張したという。8月17日の閣議で西郷を遣韓大使とする案で決着したのだが、当時は岩倉具視大久保利通らは欧米視察中であった。

征韓論之図

しかし、岩倉、大久保らが欧米視察を終えたのち開かれた10月14日の内閣会議では、岩倉らは「現状は国力涵養第一」と強く主張して、西郷らが決定した案を許さなかったのである。これを不満として、23日に西郷が辞表を出し、翌日には板垣、副島、後藤、江藤の諸参議も辞表を提出した。これを「明治六年の政変」といい、この時に陸軍少将桐野利秋、篠原国幹や、近衛士官も総辞職したという。

明治維新のあと失業と貧困に喘いでいた士族たちは、絶大な信頼を置いていた西郷らが下野したことで、政府に対する不平不満は烈しい反感となり、とりわけ、征韓論に反対した岩倉具視に対する恨みの念は強かった。



明治7年(1874年)1月14日の夜9時頃、公務を終え、赤坂の仮皇居から退出して自宅へ帰る途中だった岩倉具視の馬車が、赤坂喰違坂にさしかかった時のことである。壮漢数名が現れて岩倉公の馬車を遮り、抜刀していっせいに岩倉を襲いにかかったのだが、岩倉は一命を取りとめた。この暗殺未遂事件は、「喰違の変」あるいは「赤坂喰違の変」などと呼ばれている。
襲撃したのは全員が高知県士族であったことがのちに判明したのだが、刀を持って向かってくる連中を相手に、公家出身の岩倉はどうやって難を逃れたのであろうか。

郵便報知記事

上の画像は、『新聞集成明治編年史. 第二卷』にある1月17日付の郵便報知の記事だが、なぜ助かったについて記されていない。また、この記事では犯人を不明としているが、暗闇の中を逃げて行った犯人の足取りも素性もつかめていなかったのである。ではその後どうやって犯人をつきとめることができたのであろうか。

小島徳弥 著『明治以降大事件の真相と判例』には次のように記されている。
「その日、宮中に於て御陪食仰せつけられた右大臣岩倉具視は、二頭立ての黒塗馬車に収まって、帰邸の途中であった。さっと一陣の寒風が襟元をかすめた。ふとみると、御者は馬の尻に一鞭あてて、薄気味のわるい赤坂喰違いの暗い道を一刻も早く通り抜けようとした時である。今はなくなっているが、その頃、俗に言う首くくりの松の側まで走ってくると、往く手より抜刀の壮漢七八名、詩吟をやりながらぶらぶら歩いて来ると見る間に、突如、馬車をめがけてばらばらと詰め寄った。その一刹那(せつな)、まず馭者(ぎょしゃ)は斬られて馭者台から転び落ち、馬丁は、「助けてくれ、人殺し…」と悲鳴をあげながら逃げうせた。その騒ぎにも、物に動ぜぬ岩倉は、悠然として馬車の扉を開いて立ち出でた。それを見た壮漢は、一斉に「国賊岩倉覚悟!」「天誅を請けろ」と呼ばわりながら、太刀先をそろえて詰め寄った。素手で防ぐによしなき岩倉は、壮漢の白刃(はくじん)の下を潜って、巧みに身をかわした。二三箇所微傷を負ったが、暗にまぎれて堤へ匍(は)い上ろうとする途端、足を踏み損ね忽ち転がって濠の中に墜落した。水中に落ちたと思う瞬間、岩倉はしっかり石垣にしがみつき、体を水中にかくし、息を殺して忍んでいると「何処だ何処だ」と兇徒の連呼する声がして、岩倉の水の中にいるのが分からなかった。こうなって、愚図愚図していては身の危険と、兇漢どもも今は断念して逃げ支度の折も折、四辺に捕手(とりて)の来るらしい足音がしたので、一同は忽ち姿をかくしてしまった。」(『明治以降大事件の真相と判例』p.65~66)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280641/51

岩倉具視

兇漢が暗い場所で待ち伏せしていたことで、結果として岩倉が素早く姿を晦ますことにつながったのだが、それにしてもこのような窮地を逃れるためには運だけでは難しく、冷静沈着さ、俊敏さが不可欠であろう。
岩倉は一命を取りとめたが、しばらく療養し、公務に復帰したのは事件から40日後の2月23日であったという。そして岩倉の療養中に、江藤新平らをリーダーとして佐賀の乱が起っている。また二年後の明治9年(1876年)には熊本県で神風連の乱、福岡県で秋月の乱、山口県で萩の乱と不平士族の反乱が相次ぎ、明治10年(1877年)には西郷隆盛を大将に擁立して、西南戦争が勃発することになる。

明治政府に士族が不平を持ったことについては、以前このブログで書いたので詳しくは次の記事を参照願いたい。

「明治維新と武士の没落」
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-361.html

維新後彼らの家禄は9割近く削減され、さらに高率な税が課され、さらに明治6年(1873)1月に公布された徴兵令では、「四民平等、国民皆兵」が明記され、士族(元武士階級)の採用に限定しないことになったのである。このことは士族にとっては、生存権にかかわる重大問題であった。士族の多くが政府に不平を持ったのは当然のことだと思う。

話を岩倉の暗殺未遂事件に戻そう。兇漢らは名前も名乗らず、斬奸状など犯人の名前につながる物証を残さなかったのだが、暗闇に逃亡した犯人グループがどのようにして絞り込まれ、捕まえられたのであろうか。同上書にはこう記されている。
「兇変の後を探査されると、証拠となるべきものは、買って間もない駒下駄が一足きりであった。官軍は、これを唯一の手掛かりとして、東京市中の下駄屋という下駄屋を片端から調べてみると、兇行の数日前、京橋新富町のある下駄屋へ、どこかの下宿屋の女中らしい者が、その駒下駄を買いに来たということまで判明した。
 そこで、京橋を中心に下宿屋を虱潰しに調べてみると、遂に兇漢どもの共同宿泊所たる素人下宿を発見し、大格闘の後、一同は捕縛となった。暗殺計画の張本人は武市熊吉以下、土佐出身の若者八名であった。
兇行の前夜、武市の邸宅に集まって、岩倉暗殺の密議が凝らされたのである。武市は、板垣退助の部下を努めたこともある、土佐藩で有名な豪胆者であった。」(同上書 p.66)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1280641/52

襲撃者は、武市熊吉、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の総勢9人で、いずれも高知県の士族であった。リーダー格である武市熊吉は外務省に出仕し、征韓論に賛同して自ら韓国視察までしてきた人物であったが、岩倉の為に征韓論が破られて五人の参議が内閣を去ることとなり、武市もこれに憤慨して職を辞すこととなったのである。

9人はひどい拷問を受けて自白を迫られたが、誰一人として口を開かなかった。そこで小畑判事は、「もし速やかに自白するならば、君たちの顔が建つように取り計らう」と持ち出したところ、武市らはようやく納得して「切腹させてくれるならば自白する」と答えたので、判事は切腹を認めるように約束したのである。かくして武市ら一同は事件の顛末を逐一自白したのだが、小畑判事と彼らが交わした約束は守られず、同年7月9日に全員斬罪の判決を受け、即日伝馬町牢屋敷にて処刑されたという。

事件の後岩倉は宮内省にて傷の治療をしたが、その時にこのような歌が残されている。
 やき太刀の研ぎつるきはの霜の上を 
        踏みわたりても逃れける哉
 霜枯れのその葛かづら一筋に
        かかる命は神や守れる
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879720/116

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この本はこれまでのブログ記事をベースに大幅に加除訂正したもので、戦後の歴史叙述ではタブーとされた来たテーマにも論拠を示して書いています。
目次を紹介させていただきます。

目次
序章  四百年以上前に南米やインドなどに渡った名もなき日本人たちのこと

第1章 鉄砲の量産に成功したわが国がなぜ刀剣の世界に戻ったのか
* 鉄砲伝来後、わが国は鉄砲にどう向き合ったか
* 世界最大の鉄砲保有国であったわが国がなぜ鉄砲を捨てたのか

第2章 キリスト教伝来後、わが国に何が起こったのか
* フランシスコ・ザビエルの来日
* フランシスコ・ザビエルの布教活動
* 最初のキリシタン大名・大村純忠の「排仏毀釈」
* イエズス会に政教の実権が握られた長崎
* 武器弾薬の輸入のためにキリスト教を厚遇した大友宗麟
* 宣教師たちは一般庶民の信者にも寺社や仏像の破壊を教唆した
* 武士たちにキリスト教が広まったことの影響
* 異教国の領土と富を奪い取り、異教徒を終身奴隷にする権利
* ポルトガル人による日本人奴隷売買はいかなるものであったのか
* スペインの世界侵略とインディオの悲劇
* スペイン・ポルトガルの世界侵略とローマ教皇教書が果たした役割
* 宣教師たちがシナの征服を優先すべきと考えた理由

第3章 キリスト教勢力と戦った秀吉とその死
* 秀吉のキリスト教布教許可と九州平定
* 秀吉によるイエズス会日本準管区長・コエリョへの質問
* 秀吉はなぜ伴天連追放令を出したのか
* 伴天連追放令後のイエズス会宣教師の戦略
* スペインに降伏勧告状を突き付けた秀吉
* 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
* サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件
* イエズス会とフランシスコ会の対立
* 秀吉の死後スペイン出身の宣教師が策定した日本征服計画
* 宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

第4章 徳川家康・秀忠・家光はキリスト教とどう向き合ったか
* 日本人奴隷の流出は徳川時代に入っても続いていた
* 家康がキリスト教を警戒し始めた経緯
* 家康の時代のキリスト教弾圧
* 大坂の陣で、多くのキリシタン武将が豊臣方に集まったのはなぜか
* 対外政策を一変させた秀忠
* 東南アジアでスペインに対抗しようとしたイギリス・オランダの戦略
* 幕府が取締り強化を図っても、キリスト教信者は増え続けた
* 家光がフィリピンのマニラ征伐を検討した背景
* 幕府はなぜキリスト教を禁止せざるを得なかったのか

第5章 島原の乱
* 島原の乱は経済闘争か、あるいは宗教戦争か
* 棄教した住民たちが、なぜ短期間にキリシタンに立ち帰ったのか
* 島原の乱の一揆勢は原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
* 島原の乱の一揆勢は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
* 島原の乱を幕府はどうやって終息させたのか
* 島原の乱の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル
* 島原の乱の前後で、幕府がオランダに強気で交渉できたのはなぜか

第6章 「鎖国」とは何であったのか?
* ポルトガルと断交した後になぜ海外貿易高は増加したのか
* シーボルトが記した「鎖国」の実態 

あとがき

書評についてはAmazonに2件出ています。
大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか

古書店のサイト「るびりん書林」さんからも書評を頂きました。ご購入検討の際の参考にしてください。
https://rubyring-books.site/2019/04/25/post-1099/

また『美風庵だより 幻の花散りぬ一輪冬日の中』というブログでも採り上げて頂いています。
https://bifum.hatenadiary.jp/entry/20190426/1556208000

太平洋印刷株式会社のHPの中の「社長ブログ」で、私の著書を2回(4/24,4/25)にわたり話題にして頂きました。
http://busi-tem.sblo.jp/archives/201904-1.html

【ご参考】
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