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応仁の乱勃発地の上御霊神社から、義満が史上最大の七重塔を建てた相国寺を訪ねて

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Category京都府
室町幕府第三代将軍足利義満は、明徳三年(1392年)に南北朝の合一を実現し、守護大名をおさえて全国支配を完成させると、現在の同志社大学の今出川キャンパスの西側(北小路室町)に邸宅を移している。この邸宅の敷地は、東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれ、東西一町南北二町を占める広大なものであった。

室町殿 地図
【室町殿の敷地】

この土地は二代将軍足利義詮の時代に、室町季顕から、その邸宅である花亭を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された経緯にある。崇光上皇の御所となったことにより花亭は「花の御所」と呼ばれるようになったのだが、その後しばらくして利用されなくなったという。そこで義満がさらに隣の今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せて、永和三年(1377年)から自らの邸宅の造営を始め、永徳元年(1381年)に完成したという。

1280px-洛中洛外図左
【『洛中洛外図屏風』 左隻】米沢市上杉博物館所蔵 Wikipediaより

上の画像は狩野永徳筆の国宝『洛中洛外図屏風』・左隻だが、この屏風の中央左下に描かれているのがこの邸宅である。

洛中洛外図 拡大
【同上 拡大図】

この屏風絵は右側が北の方角で、この邸宅の正門が画面上部の室町通りに面して設けられていたことからこの屋敷は「室町殿」と呼ばれ、のちに「室町殿」は足利将軍を指すようになったという。
足利家の政権を「室町幕府」と呼ぶようになったのは江戸時代中期からのことだそうだが、それは足利家が「室町殿」を邸宅としたことに由来していることは言うまでもない。
立派な建物がいくつもあったのだろうが、応仁の乱で文明八年(1476年)に全焼し、3年後に再建されたが翌年に再び焼失してしまったという。

室町殿址 石標

今では「室町殿」の建物の遺構は何も残されていないが、敷地の西南の角にあたる今出川通と室町通りとの交差点に「従是東北 足利将軍室町第址」と彫られた小さな石標があるだけだ。

応仁の乱は応仁元年(1467年)に発生し文明九年(1478年)まで約11年続いた内乱で、室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大した。この内乱のために京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃してしまう。

応仁の乱勃発の地

同志社大学の今出川キャンパスから700mほど北に上御霊神社(かみごりょうじんじゃ::京都市上京区上御霊竪町495)があるが、応仁の乱はここで勃発したという。社前に「応仁の乱 勃発の地」の石標と駒札がある。駒札にはこう記されていた。
「文正二年(1467)年正月十八日朝、この付近すなわち御霊の森(上御霊神社境内)での合戦から『応仁の乱』は始まった。前日の十七日深夜、畠山政長*は自ら屋敷を焼いて、一族郎党や奈良筒井氏の成身院光宣(じょうしんいんこうせん)らと兵約二千を率いてここに布陣した。
 翌十八日早朝、畠山政長と畠山家の家督を激しく争っていた畠山義就(よしなり)が、兵三千余で攻撃を仕掛け、十八日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景、ついで山名持豊(宗前)の命を受けた山名政豊が加勢した。しかし政長方には頼みの細川勝元がこの時点ではまだ動かず、まる一日の合戦の結果、政長方は持ちこたえられず退去した。これが『応仁の乱』の最初の合戦である。」
*畠山政長:畠山持国の弟・持冨の次男。持国は永年子を授からなかったために、弟の持冨を養子にしていたが、永享九年(1437年)に義夏(後の畠山義就)が生まれたので、文安五年(1448年)に持冨を廃嫡して義夏を家督につけた経緯にある。有力家臣が持冨の廃嫡を認めず、政長を推した。

「応仁の乱」は文明年間に終わったので「応仁・文明の乱」とも呼ばれていることは知っていたのだが、勃発したのが文正(ぶんしょう)二年とは知らなかった。「文正」という年号は、応仁の乱が勃発後2か月も経たないうちに「応仁」に変えられたのだが、「応仁」という年号も、わずか2年2か月で「文明」に改元されている。

上御霊神社付近や相国寺付近は山陰道から移動して来た出雲出身者たちが住み着いたところで出雲郷と言われており、上御霊神社付近を上出雲郷とよび、相国寺一帯を下出雲郷と呼んでいたという。そこに出雲氏の氏寺が建てられて、上御霊社は上出雲寺の鎮守として平安遷都以前から存在していたという。

山城名勝志 上出雲寺
【山城名勝志 巻二】

『京都市の歴史散歩 上』によると、「平安遷都の際、大和国宇智郡の霊安寺御霊社から他部親王(光仁天皇皇子)と井上内親王(光仁天皇皇后)の霊を遷座したのが起源ともいわれ、…中世までは上出雲寺御霊堂として知られていたが、その後に寺は衰退した。」(p.114)とあるが、正徳元年(1711年)に刊行された『山城名勝志』には、上出雲寺には金堂、講堂、食堂、三重塔、廻廊があり南大門が二階建てであったことが記されている。この書物が刊行された当時はすでに荒廃していたかもしれないが、かなり大規模な寺であったことが分かる。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0281-082602&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%90%8D%E5%8B%9D%E5%BF%97%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=75

minagaさんのサイトによると上出雲寺は明治維新前には上御霊社観音堂として残されていたが、明治六年の神仏分離の余波で聖観音立像は近くの念仏寺に移されたのだそうだ。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/tou_ato_3.htm

上御霊神社 鳥居と楼門

上の画像は上御霊社の鳥居と楼門だが、なかなか立派なものである。神社庁の解説ページでは、伏見城の四脚門を移築したと解説されているが、文化財の指定は受けていないようだ。
下の画像は上御霊社の本殿である。
上御霊神社 本殿

現在の境内の広さは2612坪なのだそうだが、昔は「御霊の森」といわれ、古木が鬱蒼と林立し、現在の二倍の広さがあったという。境内には、元禄三年(1690年)に松尾芭蕉が当社を参詣して詠んだ「半日は神を友にや年忘」の句碑がある。

上御霊神社から南に向かうと相国寺(しょうこくじ:京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701)がある。

相国寺最盛期の境内

現在は京都御所の真北に位置し、同志社大学今出川キャンパスに隣接しているが、昔の境内は驚くほど広かったようだ。Wikipediaによると、「最盛期には東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。」とあるので、今の京都御所よりも広かったことになる。上の地図は、最盛期の寺域を青いペンで囲んでみたものである。

足利義満像

室町殿を造営した足利義満は、明徳三年(1392年)から約10年をかけて相国寺を完成させたのだが、さらに義満は父・義詮の33周忌追善供養のために史上最大規模の相国寺大塔(七重塔)の建立を決意し、同年に基礎を定め翌年には柱を立て、応永六年(1399年)にその塔を完成させたという。
塔の高さは、360尺と伝えられており、計算すると109mにもなるのだが、現存のもので最も高い東寺五重塔の高さが54.8mなので、その倍近い規模になる。
また、奈良時代聖武天皇によって創建された東大寺に建てられた七重塔の高さは33丈と23丈の2種類の記述があるというが、丈=10尺なので、いずれにしても相国寺の七重塔の方が高かったことになる。おそらく相国寺の七重塔はわが国史上最大規模の仏塔であったと考えられる。
ところが応永十年(1403年)の六月三日に落雷で大塔が炎上してしまったのである。そこで義満は金閣寺に同じものを建てたのだが(北山大塔)、それも応永二十三年(1416年)に落雷で炎上してしまう。
再び相国寺に大塔が建てられたのだが、文明二年(1470年)にまたまた雷火で焼失し、以降大塔が再建されることはなかった。当時は応仁の乱の真最中で、それどころではなかったのである。

応仁の乱が始まると相国寺は細川方の東軍陣地とされ、応仁元年(1467年)十月に西軍の畠山義就と朝倉孝景の軍が相国寺を攻撃し、焼き討ちをかけている。
その後、天文二十年(1551年)の細川春元と松永久秀の攻防戦で相国寺は全焼し、豊臣・徳川氏や後水尾天皇の援助を得て次第に復興したのだが、天明の大火で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失して、文化年間(1804~18年)に再建されている。明治以降は多くの塔頭が廃されて、寺域は5分の1に縮小したという。

相国寺 門

9月25日(水)から「相国寺秋の特別拝観」が始まったばかりで、12月15日まで法堂と方丈と開山堂を拝観することができる 。上の画像は寛政九年(1797年)に建てられた総門で、京都府指定文化財に指定されている。

相国寺法堂

上の画像は慶長10年(1605年)に豊臣秀頼の寄進によって再建された法堂(国重文)である。法堂建築としてはわが国最古のもので、この天井に描かれている直径約9mの狩野光信の「蟠龍図」は必見である。特定の場所で手をうつと反響するので「鳴き龍」とも呼ばれている。
堂内の撮影は禁じられており相国寺のホームページを案内するしかないが、実物は見る角度によって龍の姿が微妙に変化するので、画像だけではその魅力を伝えることが出来ない。
https://www.shokoku-ji.jp/

相国寺方丈庭園

法堂のほかに特別拝観で鑑賞できるのは、文化四年(1807年)に建てられた方丈(京都府指定文化財)と開山堂で、仏像や襖絵など内部の撮影については禁じられている。上の画像は方丈の庭園で、下の画像は開山堂の庭園である。

相国寺開山堂庭園

私が拝観した日はたまたま承天閣美術館が展示品の入れ替えの為に休館であったが、寺宝を鑑賞されたい方は、相国寺のホームページでオープン日を確認されることをお勧めしたい。次の企画展は10月5日~12月22日で、テーマは「茶の湯―禅と数寄」となっている。国宝の玳玻散花文天目茶碗ほか国の重要文化財が多数展示されるようである。
https://www.shokoku-ji.jp/museum/exhibition/chanoyu/
特別拝観の期間に相国寺に行ってみたいと考えておられる方は、10月5日以降だと承天閣美術館も入館出来るのでお勧めしたい。
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6月6日に案内させていただきましたが、今年新たにドメインを取得して、3月より新しいブログ『歴史逍遥「しばやんの日々」』をスタートさせており、6月以降は新ブログの内容の充実に時間をかけるようにしています。FC2ブログはこれからも続けますが、更新頻度が落ちる事をご理解下さい。

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新ブログでは、最近は「秀吉の紀州攻め」「GHQ焚書となった秀吉の伝記」等のテーマで連続記事を書いています。戦前に出版された少年少女向けの秀吉の伝記ですが、戦後になって、秀吉に関する情報の多くが封印されていることが分かります。
新ブログでは、日本の歴史を中心に週1~2回のペースで、記事を書いていますので、良かったら覗いて見て下さい。

また、4月1日から、このブログで書いてきた記事の一部を書きまとめた『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』が発売されています。
内容について簡単にコメントすると、大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。



この本はこれまでのブログ記事をベースに大幅に加除訂正したもので、戦後の歴史叙述ではタブーとされた来たテーマにも論拠を示して書いています。
目次を紹介させていただきます。

目次
序章  四百年以上前に南米やインドなどに渡った名もなき日本人たちのこと

第1章 鉄砲の量産に成功したわが国がなぜ刀剣の世界に戻ったのか
* 鉄砲伝来後、わが国は鉄砲にどう向き合ったか
* 世界最大の鉄砲保有国であったわが国がなぜ鉄砲を捨てたのか

第2章 キリスト教伝来後、わが国に何が起こったのか
* フランシスコ・ザビエルの来日
* フランシスコ・ザビエルの布教活動
* 最初のキリシタン大名・大村純忠の「排仏毀釈」
* イエズス会に政教の実権が握られた長崎
* 武器弾薬の輸入のためにキリスト教を厚遇した大友宗麟
* 宣教師たちは一般庶民の信者にも寺社や仏像の破壊を教唆した
* 武士たちにキリスト教が広まったことの影響
* 異教国の領土と富を奪い取り、異教徒を終身奴隷にする権利
* ポルトガル人による日本人奴隷売買はいかなるものであったのか
* スペインの世界侵略とインディオの悲劇
* スペイン・ポルトガルの世界侵略とローマ教皇教書が果たした役割
* 宣教師たちがシナの征服を優先すべきと考えた理由

第3章 キリスト教勢力と戦った秀吉とその死
* 秀吉のキリスト教布教許可と九州平定
* 秀吉によるイエズス会日本準管区長・コエリョへの質問
* 秀吉はなぜ伴天連追放令を出したのか
* 伴天連追放令後のイエズス会宣教師の戦略
* スペインに降伏勧告状を突き付けた秀吉
* 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
* サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件
* イエズス会とフランシスコ会の対立
* 秀吉の死後スペイン出身の宣教師が策定した日本征服計画
* 宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

第4章 徳川家康・秀忠・家光はキリスト教とどう向き合ったか
* 日本人奴隷の流出は徳川時代に入っても続いていた
* 家康がキリスト教を警戒し始めた経緯
* 家康の時代のキリスト教弾圧
* 大坂の陣で、多くのキリシタン武将が豊臣方に集まったのはなぜか
* 対外政策を一変させた秀忠
* 東南アジアでスペインに対抗しようとしたイギリス・オランダの戦略
* 幕府が取締り強化を図っても、キリスト教信者は増え続けた
* 家光がフィリピンのマニラ征伐を検討した背景
* 幕府はなぜキリスト教を禁止せざるを得なかったのか

第5章 島原の乱
* 島原の乱は経済闘争か、あるいは宗教戦争か
* 棄教した住民たちが、なぜ短期間にキリシタンに立ち帰ったのか
* 島原の乱の一揆勢は原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
* 島原の乱の一揆勢は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
* 島原の乱を幕府はどうやって終息させたのか
* 島原の乱の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル
* 島原の乱の前後で、幕府がオランダに強気で交渉できたのはなぜか

第6章 「鎖国」とは何であったのか?
* ポルトガルと断交した後になぜ海外貿易高は増加したのか
* シーボルトが記した「鎖国」の実態 

あとがき

書評についてはAmazonに2件出ています。
大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか

古書店のサイト「るびりん書林」さんからも書評を頂きました。ご購入検討の際の参考にしてください。
https://rubyring-books.site/2019/04/25/post-1099/

保守系ブログ「祖国創生」でも、記事の中で採り上げて頂きました。
https://sokokuwanihon.blog.fc2.com/blog-date-20190421.html

また『美風庵だより 幻の花散りぬ一輪冬日の中』というブログでも採り上げて頂いています。
https://bifum.hatenadiary.jp/entry/20190426/1556208000

太平洋印刷株式会社のHPの中の「社長ブログ」で、私の著書を2回(4/24,4/25)にわたり話題にして頂きました。
http://busi-tem.sblo.jp/archives/201904-1.html

【ご参考】
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4Comments

お星様  

応仁の乱

応仁の乱が応仁ではなく文正2年勃発とは知りませんでした。
1467 ひとよむなしい 応仁の乱 と覚えましたが
ひとよむなしい ぶんしょう 2年 と覚えなければなりませんね。
しかし足利義満は 明との貿易を独占し富を蓄えました。
相国寺も室町御所も金閣寺も金に糸目をつけず造営したものですね。
いろいろ教えていただきありがとうございます。
このあたりは学生時代ウロウロしたところで興味が尽きない場所です。

相国寺は伊藤若冲の作品が多く残っており見に行った記憶があります。
また3個現存する国宝曜変天目も所蔵していたと思います。

相国寺の曜変天目だけは未公開なので見ておりません。
多分見れないでしょう。
もし見れたら必ず行きたいものです。

2019/10/02 (Wed) 16:10 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: 応仁の乱

お星様さん、コメントありがとうございます。

「応仁の乱」が文正2年勃発とは、私も現地の駒札を見て初めて知りました。Wikipediaに限らず、手元にある歴史辞典や通史などの解説では、勃発年を応仁元年と書いています。

Wikipediaによると「曜変天目の条件を厳密に満たすもので完存するのは、国宝となっている3椀のみとされる」とあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%9C%E5%A4%89%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E8%8C%B6%E7%A2%97

今月5日から承天閣美術館で公開される国宝の玳玻散花文天目茶碗は「曜変天目」には分類されていないようです。
https://www.shokoku-ji.jp/museum/exhibition/chanoyu/

2019/10/03 (Thu) 09:34 | EDIT | REPLY |   

お星様  

相国寺ではなく大徳寺 龍光院でしたね。
失礼しました。
後の2椀はみました。
どちらも期間限定でしたが必死で見に行きました。

京都は昨年3月USAの孫どもを連れてみて回りました。
中国、韓国の人たちでいっぱいでここは何処だ?って感じでした。

韓国系が減っているようですのでまた行って見ようかな。

2019/10/03 (Thu) 16:31 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: タイトルなし

先日はあまり有名な観光地は巡っていませんが、中国、韓国の人は少なかったと思います。
もう少し秋らしくなったら是非訪れてください。

2019/10/04 (Fri) 07:25 | EDIT | REPLY |   

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