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金閣寺に建立された北山大塔(七重塔)のこと

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Category室町幕府
知人に案内するために久しぶりに金閣寺を訪れてみたが、平日の朝の開門前に数百メートルの長い列ができているのに驚いた。昔はそれほど並んだ記憶がないのだが、今は京都市内の有名観光地はどこも外国人観光客で溢れている。

金閣寺

いくら観光客が多くても、庭園内に立ち入り禁止区域がうまく設定されているので、誰でも鏡湖池を前にたたずむ国宝・舎利殿の美しい写真を撮ることが出来る。

相国寺 門

このブログで室町幕府第三代将軍足利義満が応永六年(1399年)に、父・義詮の33周忌追善供養のために史上最大規模の相国寺大塔(七重塔)を建立したことを書いた。その塔の高さは、360尺(109メートル)とあり、現存するもっとも高い東寺五重塔の倍近い規模になる。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-630.html

しかしながら相国寺大塔は応永十年(1403年)の六月三日に落雷で大塔が炎上してしまい、義満は今の金閣寺の境内に同じ七重塔を建てたのだが、それも応永二十三年(1416年)に落雷で炎上してしまった。四代将軍義持(義満の子)は再び相国寺に大塔を建てたのだが、文明二年(1470年)にまたまた雷火で焼失し、以降大塔が再建されることはなかったという。

ここで簡単に金閣寺の歴史を振り返っておこう。
金閣寺の正式名称は鹿苑寺(ろくおんじ)で、臨済宗相国寺派に属し相国寺の山外塔頭寺院なのであるが、足利義満の時代においては寺ではなかったことはあまり知られていない。

足利義満像

応永四年(1397年)に義満がこの土地を譲り受けたのち「北山殿」を建築し、政治中枢のすべてを集約させてここで政務を執っていた。応永十五年(1408年)に義満が死亡すると、四代将軍足利義持が北山殿に入ったが、翌応永十六年(1409年)には三条坊門第に移っている。その後、北山殿は義満の妻である日野康子の御所となったが、応永二十六年(1419年)に康子が死亡すると、舎利殿以外の建物は解体されて南禅寺などに寄贈され、応永二十七年(1420年)に北山弟は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられたという。
金閣寺の主要な建物は江戸時代に再建され、舎利殿も慶安二年(1649年)に大修理を受けている。しかしながら昭和二十五年(1950年)に放火により国宝の舎利殿と仏像などを失ってしまう。現在の舎利殿は昭和三十年(1955年)に創建当時の姿に復元されたものである。

話を七重塔の話に戻すが、そもそも義満はなぜこのような巨大な塔をたてようとしたのだろうか。

産経West 北山大塔記事

産経West【歴史インサイド】の平成二十八年(2016年)八月十二日の記事には次のように解説されている。
「今谷明・帝京大教授(日本中世史)は「南北朝の合一を果たし、当時、天皇をも超えるような権力の絶頂期にあった義満のような専制君主は、世界的に見ても巨大な塔を建てたがる傾向にある」と指摘する。
 平安時代の院政期、「自分の意にならないもの」として「賀茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師」の3つを挙げるほどに絶大な権力をみせた白河天皇(1053-1129)が建立した高さ81メートルとされる法勝寺の八角九重塔も同様だ。
 そんな朝廷の権力の象徴とみられる法勝寺の塔に対して、早島大祐・京都女子大准教授(日本中世史)は「義満は法勝寺の高さを超えるような塔を建てたかった」と説明する。
義満が相国寺大塔を建立する前年の明徳2(1391)年、全国の6分の1の国を所領する有力守護・山名氏との戦いを制し、自らの力を高めた上で翌年、祖父・尊氏と後醍醐天皇との対立から始まった南朝と60年を経ての和解があった。
相国寺大塔の建立は和解からわずか1カ月後から始まっている。早島准教授は「大塔の建立目的は父・義詮の33回忌にあったが、法勝寺の塔を超えることで権力を天下に示したかった」とみる
この思いはこの後、如実にあらわれる。
このとき出仕した僧は、延暦寺400人▽園城寺100人▽東寺100人▽東大寺100人▽興福寺300人-と相国寺が禅宗寺院にもかかわらず、旧来からある仏教の寺院から呼ばれている
しかも義満は、鎌倉時代初めに法勝寺で営まれた九重塔の再建供養会では上皇や天皇ですら入れなかった内陣の中に堂々と入り、儀式を司っているのである。
まさに七重塔は政治と宗に対する権力の象徴だった。今谷教授は「北山に朝廷も驚くような仏教の一大拠点を作り、祭祀(さいし)王になろうとしたのでは」と推測する
。」
https://www.sankei.com/west/news/160812/wst1608120005-n2.html

しかしは応永十年(1403年) に相国寺大塔が落雷で炎上してしまい、義満が北山殿に建てようとした七重塔も、応永二十三年(1416年)に落雷で失われてしまった。
伏見宮貞成親王の『看聞日記』(かんもんにっき)応永二十三年一月九日の記録に、北山大塔が落雷で焼けた記事があり、『国立国会図書館デジタルコレクション』で公開されている。
「九日。雨降。戌剋雷電暴風以外也。此時分赤気耀蒼天。若焼亡歟之由不審之處。北山大塔七重。為雷火炎上云々。雷三度落懸。僧俗番匠等捨身命雖打消。遂以焼失。併天魔所為勿論也。去応永七年相國寺大塔七重。為雷火炎上。其後北山ニ被遷之。造営未終功之處又焼失。末代不相応歟。法滅之至可歎。軈又。相國寺ニ被遷可被建立之由則有其沙汰云々。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591314/4
この日を西暦に変換すると、1416年2月16日になるのだが、こんな寒い冬の季節に雷が三度も落ちて、造営がまだ完了していなかった、権力のシンボルともいえる大塔が消失してしまった幕府のショックは察するに余りがある。
醍醐寺文書の中にも記録が残されている。
「九日、陰定遍滿、戊初刻雷電、驚聽、遂而北山大塔上雷落、懸火出來塔婆、片時其残焼失、塔本邊不斷言广愛染王堂焼失、本尊奉出也、塔本之木屋已下悉無残、但北山御所無爲、此大塔御建立已及十四カ年、去年大略九輪等上之、當年可周備之處、凡無念、無力事歟、」(『醍醐寺文書・二百一函』)
十四年もかけてようやく完成が近づいてきたところであったのに、消失してしまった。隣接した愛染王堂まで焼けてしまったのである。

大塔に関する記録は残されているものの、相国寺からも金閣寺からも遺物が発見されていなかったことから、長い間「幻の塔」とされてきた。ところが、平成二十八年に金閣寺境内で「北山大塔」のものとみられる「相輪」の破片が見つかったことが新聞などで報じられた。「相輪」とは塔の最上部の突き出た装飾部分で、破片は九つ重なる九輪の一部とみられている。

日経新聞 北山大塔記事

日経新聞の平成二十八年(2016)七月八日の記事によると、
金閣から約200メートル東の境内にある室町時代の溝で破片3個が見つかった。最大の破片は幅約37センチ、高さ約24センチで、厚さ約1.5センチ、重さ約8.2キロ。復元すると相輪は直径約2.4メートルになることから、巨大な塔だったと推定できるという。塔の土台はまだ確認されていない。」
「市考古資料館の前田義明館長は「分析したところ、破片には金メッキが施されていたことも分かり、復元すると相輪は大型。北山大塔は七重大塔にも匹敵する規模だったのではないか」と話している。」
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08H5N_Y6A700C1CR8000/

金閣寺の境内はかなり広いのだが、どこに七重塔が建てられたのであろうか。
前出の産経新聞の記事によると、専門家の意見は一致していないとしながらも、冨島義幸・京大大学院准教授(日本建築史)のコメントを掲載している。
冨島准教授の分析によると、塔の基壇は約36メートル四方が想定されるという。
 実は、北山大塔の破片の出土地から南東約20メートルに、塔の推定地とされる場所がある。ここの広さは約40メートル四方で、冨島准教授が想定する基壇がほぼすっぽりと埋まる大きさだった。ここまでサイズが近いとは冨島准教授も思ってもみなかったという。」
残念ながら産経新聞の記事には地図が載せられていないので場所の特定が難しく、ネットで場所が特定できる情報を求めて調べると、京都市埋蔵文化財研究所のHPの研究紀要に東洋一氏の『北山七重大塔の所在地について(上)』という論文が見つかった。
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/kenkyu/2018-04.pdf

東氏は平成二十年(2008年)頃に北山大塔の所在地を推定する論文を提出されたのだが、塔跡基壇が巨大すぎると指摘され却下されてしまったという。しかし平成二十八年(2016年)に大塔の相輪の破片が、東氏が大塔の所在地として推定していた場所の近くから出土したことから東氏の論考の正しさが評価されるようになったという。

北山大塔基壇推定地

上の図は東氏の論文のp.29に掲載されているが、この場所は京大の冨島准教授のコメントにあった場所と同じのようだ。観光バスの駐車場である第一駐車場からからかなり近い場所にある。
知人と金閣寺を訪れた帰りに、多分ここだと思われる場所を撮影したのだが、土がこんもりと盛り上がっているのはその可能性を感じさせる。

北山大塔の推定地

それにしても、室町時代に高さ109メートルもの高さの七重塔が建てられていたということはすごいことである。相輪を除いて90メートル程度の高さだとすると、現在の30階建てのビルに相当するという。心柱はおそらく何本かをつないで制作されたものだろうが、クレーンもコンピューターもなく、コンクリートもワイヤーもない時代に、木造でこのような巨大建造物を建て、金属製の相輪を最上部にどうやって持ち上げて、どうやって取り付けたのであろうか。六百年ほど昔の話ではあるが、昔の日本人の建築技術のレベルの高さに驚かざるを得ない。

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目次を紹介させていただきます。

目次
序章  四百年以上前に南米やインドなどに渡った名もなき日本人たちのこと

第1章 鉄砲の量産に成功したわが国がなぜ刀剣の世界に戻ったのか
* 鉄砲伝来後、わが国は鉄砲にどう向き合ったか
* 世界最大の鉄砲保有国であったわが国がなぜ鉄砲を捨てたのか

第2章 キリスト教伝来後、わが国に何が起こったのか
* フランシスコ・ザビエルの来日
* フランシスコ・ザビエルの布教活動
* 最初のキリシタン大名・大村純忠の「排仏毀釈」
* イエズス会に政教の実権が握られた長崎
* 武器弾薬の輸入のためにキリスト教を厚遇した大友宗麟
* 宣教師たちは一般庶民の信者にも寺社や仏像の破壊を教唆した
* 武士たちにキリスト教が広まったことの影響
* 異教国の領土と富を奪い取り、異教徒を終身奴隷にする権利
* ポルトガル人による日本人奴隷売買はいかなるものであったのか
* スペインの世界侵略とインディオの悲劇
* スペイン・ポルトガルの世界侵略とローマ教皇教書が果たした役割
* 宣教師たちがシナの征服を優先すべきと考えた理由

第3章 キリスト教勢力と戦った秀吉とその死
* 秀吉のキリスト教布教許可と九州平定
* 秀吉によるイエズス会日本準管区長・コエリョへの質問
* 秀吉はなぜ伴天連追放令を出したのか
* 伴天連追放令後のイエズス会宣教師の戦略
* スペインに降伏勧告状を突き付けた秀吉
* 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
* サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件
* イエズス会とフランシスコ会の対立
* 秀吉の死後スペイン出身の宣教師が策定した日本征服計画
* 宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い

第4章 徳川家康・秀忠・家光はキリスト教とどう向き合ったか
* 日本人奴隷の流出は徳川時代に入っても続いていた
* 家康がキリスト教を警戒し始めた経緯
* 家康の時代のキリスト教弾圧
* 大坂の陣で、多くのキリシタン武将が豊臣方に集まったのはなぜか
* 対外政策を一変させた秀忠
* 東南アジアでスペインに対抗しようとしたイギリス・オランダの戦略
* 幕府が取締り強化を図っても、キリスト教信者は増え続けた
* 家光がフィリピンのマニラ征伐を検討した背景
* 幕府はなぜキリスト教を禁止せざるを得なかったのか

第5章 島原の乱
* 島原の乱は経済闘争か、あるいは宗教戦争か
* 棄教した住民たちが、なぜ短期間にキリシタンに立ち帰ったのか
* 島原の乱の一揆勢は原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
* 島原の乱の一揆勢は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
* 島原の乱を幕府はどうやって終息させたのか
* 島原の乱の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル
* 島原の乱の前後で、幕府がオランダに強気で交渉できたのはなぜか

第6章 「鎖国」とは何であったのか?
* ポルトガルと断交した後になぜ海外貿易高は増加したのか
* シーボルトが記した「鎖国」の実態 

あとがき

書評についてはAmazonに2件出ています。
大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか

古書店のサイト「るびりん書林」さんからも書評を頂きました。ご購入検討の際の参考にしてください。
https://rubyring-books.site/2019/04/25/post-1099/

また『美風庵だより 幻の花散りぬ一輪冬日の中』というブログでも採り上げて頂いています。
https://bifum.hatenadiary.jp/entry/20190426/1556208000

太平洋印刷株式会社のHPの中の「社長ブログ」で、私の著書を2回(4/24,4/25)にわたり話題にして頂きました。
http://busi-tem.sblo.jp/archives/201904-1.html

「読書メーター」にも書評が出ています。
https://bookmeter.com/books/13662363

【ご参考】
このブログの直近3日間におけるページ別ユニークページビューランキング(ベスト10)


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