明治の初期に、鹿児島県で何があったのか
以前「消えた門跡寺院」という表題で安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」のことをブログに少し書いたが、その「都名所図会」が刊行されてから、全国で名所図会の出版がブームとなり、「江戸名所図会」「大和名所図会」「江戸名所図会」「木曽路名所図会」などが次々と出版された。
薩摩藩(現在の鹿児島県)についても「薩藩名勝志」という本が文化3年(1806)に出版されたが、この本は薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを485もの絵図とともに和歌等を織り込みながら解説した、19巻19冊の和装本である。また、明治になってから出版されたが大隅藩、日向藩の名勝を書き加えられた「三国名勝図会」(三国とは「薩摩」「大隅」「日向」のこと)という60巻20冊の和装本もある。

江戸時代の薩摩の名所や旧跡についてこれだけの案内書があるのなら、今も鹿児島県に観光名所となるような有名な寺院がいくつあってもおかしくないのだが、今の鹿児島県には、建築物でも古いものがほとんどなく、わずかに室町時代に建築された神社の建物が2件と江戸時代以降に建築された神社と旧家の建物が数件重要文化財として残っているだけだ。仏教関係では建築物だけでなく、仏像や仏画なども文化財となるようなものは何もない。
その理由は簡単である。明治の廃仏毀釈で寺院が徹底的に破壊されたからである。現在鹿児島県に国宝が銘国宗の太刀1本だけしかないのは、明治初期の廃仏毀釈を抜きにしては語れない。
「神仏分離資料」によると、この時期に鹿児島県の寺院1066寺が一つ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられたということだ。
そもそも、薩摩藩累代の藩主は熱心な仏教信者であり厚く寺院を保護してきたのだが、藩主島津忠義の後見役の島津久光は決してそうではなかった。
佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」によると、幕末期の薩摩藩において仏教を排撃せよとする平田篤胤の思想が流行し、「寺院に与えている禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与し、若い僧侶は兵役に使う」との考えで、徹底的に寺院が破壊されていった。
また島津藩累代藩主の菩提寺も、島津久光自らがすべて神社にしてしまった。 すなわち浄光明寺を龍尾神社に、日新寺を竹田神社に、南林寺を松尾神社に、妙谷寺を太平神社に、妙円寺を徳重神社に、福昌寺を長谷神社とした。

上の写真は、「三国名勝図会」にある福昌寺の図だが、この寺院は応永元年(1394)島津家七代元久が建てた名刹で日本三大僧録所と呼ばれた大きな寺院であったが、今は玉龍高校の敷地となり、その近くに歴代島津家の6代師久から28代斉彬までの当主の墓や家族の墓が残されているだけだ。
久保田収氏の「薩摩藩における廃仏毀釈」という論文には、島津斉彬の側近であった市来四郎の談として、次のような発言が記録されているそうだ。
「寺院を廃して、各寺院にあるところの大小の梵鐘あるいは仏像仏具の類も許多の斤高にして、これを武器製造の料に充て、銅の分を代価に算して、およそ十余万両の数なり」
「僧侶も真に仏教に帰依していた者はなかったようで、おおむね還俗することを喜んだそうな」
「仏像の始末については、石の仏像は打ち壊して、川の水除などに沈めました。今に鹿児島の西南にある甲突川という川の水当のところを仏淵とよびます。すなわち仏像を沈めたところでござります。木の仏像はことごとく焼き捨てました。」
「大寺の大門とか楼閣とかを打ち壊すに、大工人夫共が負傷でもすると、人気に障りますから、大いに念入りに指揮いたしました。大工人夫共の屋根から落ちて負傷したこともなく、滞りなく打ち壊しました。その頃の巷説に、昔の人は大寺だの大像だのを造立して、金銭を遣い、丹精もこらしたもので、それだけの効験があるものと思うたが、今日打ち壊してみれば、何のこともない、昔の人は大分損なことをせられたものだなどと言いました。仏というものは畢竟弄物みたいなものであったという気になりました」
こんな考え方の役人が全国にいたのだから、どれだけの文化財が無くなってもおかしくない。

上の画像は小松帯刀が眠る園林寺跡の仁王像だが、インターネットで鹿児島県の廃仏毀釈の写真を検索するとこのような首のない仏像などがいくらも出てくる。しかし鹿児島ばかりが激しかったわけではない。他県では殺人事件もあったようだ。
「例えば、宮崎市古城の伊萬福寺の場合は、住持の僧が暴徒によって山上の崖から蹴落とされたという口碑があるし、隣県大分の国東の富貴寺の場合などは、僧侶を皆殺しにして土に埋めました。今にその供養碑が境内に残っています。(佐伯恵達氏:前掲書)」
通史では廃仏毀釈については「国学や神道の思想に共感する人々の行動が一部で非常に過激になり、各地で仏教を攻撃して寺院や仏像を破壊する動きがみられた」程度で淡々と書かれているが、このような文章では、この時代の空気を到底理解することはできないと思う。
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薩摩藩(現在の鹿児島県)についても「薩藩名勝志」という本が文化3年(1806)に出版されたが、この本は薩摩藩の名勝や神社仏閣の由来などを485もの絵図とともに和歌等を織り込みながら解説した、19巻19冊の和装本である。また、明治になってから出版されたが大隅藩、日向藩の名勝を書き加えられた「三国名勝図会」(三国とは「薩摩」「大隅」「日向」のこと)という60巻20冊の和装本もある。

江戸時代の薩摩の名所や旧跡についてこれだけの案内書があるのなら、今も鹿児島県に観光名所となるような有名な寺院がいくつあってもおかしくないのだが、今の鹿児島県には、建築物でも古いものがほとんどなく、わずかに室町時代に建築された神社の建物が2件と江戸時代以降に建築された神社と旧家の建物が数件重要文化財として残っているだけだ。仏教関係では建築物だけでなく、仏像や仏画なども文化財となるようなものは何もない。
その理由は簡単である。明治の廃仏毀釈で寺院が徹底的に破壊されたからである。現在鹿児島県に国宝が銘国宗の太刀1本だけしかないのは、明治初期の廃仏毀釈を抜きにしては語れない。
「神仏分離資料」によると、この時期に鹿児島県の寺院1066寺が一つ残らず廃され、僧侶2964人が還俗させられたということだ。
そもそも、薩摩藩累代の藩主は熱心な仏教信者であり厚く寺院を保護してきたのだが、藩主島津忠義の後見役の島津久光は決してそうではなかった。
佐伯恵達氏の「廃仏毀釈百年」によると、幕末期の薩摩藩において仏教を排撃せよとする平田篤胤の思想が流行し、「寺院に与えている禄高は軍用に充て、仏具は武器に変え、寺院の財産は藩士の貧窮者に分与し、若い僧侶は兵役に使う」との考えで、徹底的に寺院が破壊されていった。
また島津藩累代藩主の菩提寺も、島津久光自らがすべて神社にしてしまった。 すなわち浄光明寺を龍尾神社に、日新寺を竹田神社に、南林寺を松尾神社に、妙谷寺を太平神社に、妙円寺を徳重神社に、福昌寺を長谷神社とした。

上の写真は、「三国名勝図会」にある福昌寺の図だが、この寺院は応永元年(1394)島津家七代元久が建てた名刹で日本三大僧録所と呼ばれた大きな寺院であったが、今は玉龍高校の敷地となり、その近くに歴代島津家の6代師久から28代斉彬までの当主の墓や家族の墓が残されているだけだ。
久保田収氏の「薩摩藩における廃仏毀釈」という論文には、島津斉彬の側近であった市来四郎の談として、次のような発言が記録されているそうだ。
「寺院を廃して、各寺院にあるところの大小の梵鐘あるいは仏像仏具の類も許多の斤高にして、これを武器製造の料に充て、銅の分を代価に算して、およそ十余万両の数なり」
「僧侶も真に仏教に帰依していた者はなかったようで、おおむね還俗することを喜んだそうな」
「仏像の始末については、石の仏像は打ち壊して、川の水除などに沈めました。今に鹿児島の西南にある甲突川という川の水当のところを仏淵とよびます。すなわち仏像を沈めたところでござります。木の仏像はことごとく焼き捨てました。」
「大寺の大門とか楼閣とかを打ち壊すに、大工人夫共が負傷でもすると、人気に障りますから、大いに念入りに指揮いたしました。大工人夫共の屋根から落ちて負傷したこともなく、滞りなく打ち壊しました。その頃の巷説に、昔の人は大寺だの大像だのを造立して、金銭を遣い、丹精もこらしたもので、それだけの効験があるものと思うたが、今日打ち壊してみれば、何のこともない、昔の人は大分損なことをせられたものだなどと言いました。仏というものは畢竟弄物みたいなものであったという気になりました」
こんな考え方の役人が全国にいたのだから、どれだけの文化財が無くなってもおかしくない。

上の画像は小松帯刀が眠る園林寺跡の仁王像だが、インターネットで鹿児島県の廃仏毀釈の写真を検索するとこのような首のない仏像などがいくらも出てくる。しかし鹿児島ばかりが激しかったわけではない。他県では殺人事件もあったようだ。
「例えば、宮崎市古城の伊萬福寺の場合は、住持の僧が暴徒によって山上の崖から蹴落とされたという口碑があるし、隣県大分の国東の富貴寺の場合などは、僧侶を皆殺しにして土に埋めました。今にその供養碑が境内に残っています。(佐伯恵達氏:前掲書)」
通史では廃仏毀釈については「国学や神道の思想に共感する人々の行動が一部で非常に過激になり、各地で仏教を攻撃して寺院や仏像を破壊する動きがみられた」程度で淡々と書かれているが、このような文章では、この時代の空気を到底理解することはできないと思う。
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